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  • 執筆者の写真岩波新書編集部

「ネイティブみたいに」って何よ?──『英語独習法』を読んで

広瀬友紀(言語学者)



英語独習法』は、見るからに硬派な本である。「すぐに英語がペラペラ」と謳う類いの教材とは一線を画していると、著者も最初に宣言している。よく読めば、「今井先生どんだけダニエル・クレイグ好き?」と、あの大先生の乙女的な側面にちょっとほっこりできるという特典はあるものの、あくまでさり気ないサービスにとどまっている。基本的に、自分で(知的な)汗をかき、自分の頭の中の枠組みを大改造する努力を厭わないことが前提なのだ。


これが現在爆発的に売れている。我が国で英語あるいは外国語を学習する多くの人々が、結果だけではなく、「簡単でない理由は何か」「そもそも外国語を習得する際に頭のなかで働くしくみとは」「英語と日本語の違いをもっと知りたい」「そもそも言葉とは何なのか」…といった言語学的・認知科学的な探究心をその心の中で燃やしていることを、本書のヒットは示してくれた。著者は、そのような読者にふさわしい知恵とさらに高度な道具と訓練を与えて、内なる旅へと誘ってくれる。



「英語脳」って言うけれど


本書の根幹をなす概念が「スキーマ」つまり、ある事柄について枠組みとなる知識である。スキーマという用語になじめそうになければ(すみません、私もです)、「知識の枠組み」「システムとしての知識」と置き換えてみよう。我々をとりまく外界のあらゆるものについて我々は情報を総合し、枠組みつまりスキーマを構築し、そのスキーマを通して我々が世界をどう切り取るか、どこに注目し何を見いだすかを無意識に定めている。なかでも著者がとりあげるのが、言葉の知識に関するスキーマである。私たちは皆、自分の話す母語のスキーマを培って母語を使いこなしているが、スキーマの全貌やその存在を意識することはない。この、本書全体を通しての重要概念が、第1〜4章で丁寧に説明される。「英語脳」「日本語脳」ってよく言うけど、脳が違うのではない。知識の枠組み、つまりスキーマが違うのだ。


言葉のスキーマにより、事象のどの側面を言語表現のどの部分に担わせるかが決まり、そしてそれは言語によって異なる。このことを具体例で示してくれる第4章はなかでも圧巻の説得力である。


例えば、ある動作を言語で描写する際、その「様態」「方向性」という情報のどこまでを動詞が担うか、という選択。動詞そのものの内には「方向」を組み込み、「様態」は付随する副詞的要素で表すのが日本語(例:「人がふらつきながらドアへ歩いて行き、部屋に入った」p61)だとすれば英語はその逆で、動詞内部には「様態」の情報が込みで、「方向」は前置詞や副詞で補う(例:“A man wobbled into the room” p61)、という違いが挙げられてるのを見て「それだよ!」と思った読者は少なくないと思う。英語としてはけっして間違っていないのになんだか「日本語から日本人が訳した英語だな」テイストがただようあの微妙な違和感(例:“A man walked to the door and entered the room with unsteady steps” p61)の正体が明かされる。両言語の、語彙化のあり方の違いが、スキーマの違いからくることを知り腑に落ちた読者の皆さんの爽快感が、インターネット上にある本書のレビューでも口々に報告されている。


その他にも英語を、日本語と対比しながら真面目に学習してきたつもりだからこそ気になるいろんなこと。日本語の擬音語擬態語(オノマトペ)ってどうやって訳すんだろう…え?訳さなくていいの?動詞と込みなの?というかつての自分も経験した戸惑い(「ドアをバタンと閉める」=「slam the door」、「ドアをぐいっと開ける」=「yank the door open」、「ちらっと見る」=「glance at」、「じろじろ見る」=「stare at」)。ここで適切な動詞表現を選択できるか否かで英語の使い手レベルがてきめんに露呈するなあ(私には無理そうだなあ)と感じたことも覚えている。


英語のスキーマでは、方向性を表す部分は動詞の外の表現に任せるというが、そこで活躍するのが前置詞。どうりで前置詞のマルチタレントっぷり、日本語に直訳するには情報量がだいぶ多い。下の例をみても、前置詞に、ときにはそこに存在しない動詞の役割まで込められていることがあらためてわかる(日本語だったら述語の動詞が使われるところ)。


“I’m in.” だけで「私参加する

“Someone’s in.” (トイレの個室で)「入ってます

(トイレはどこですかと訊かれて)“Down the hall.” (動詞・述語もないのに「(廊下を)その先まで行ってください」が表される)

“on your mark” (「位置について」。これも述語にあたるものなし)


他にも、日本語だと名詞や動詞も動員すべき内容に英語の前置詞たったひとつが対応しているケースは枚挙にいとまがない。


between(の間)

against(に対して)

beside(の横)

beyond(の向こう)

などなど…


訳すにあたって一対一対応の単語が見つからないなんて。中学で英語に出会い、授業課題などを通してその不思議に面食らったのは私だけではあるまい。これも「語彙化のパターンに関するスキーマの違い」にあたるのだ。(ちなみに私は修飾句の係り受け解釈についての日英言語間比較実験を行う際、この「前置詞句が日本語だとやたらに長い句になってしまう問題」に苦労している。)



「珍解答」は自由すぎるからなのか


さて、「英語独習」の真髄として、語彙力をつけることの重要性を著者は強調するが、その意味するところが、我々の多くが長い間信じてきたこととは大きく異なるのもそういうこと。それは、昭和時代の単語帳みたいな一語一訳対応の知識であっては断じてならないというのだ。


私は巷にあふれる「テスト珍解答」の類いが大好きで、先日も楽しい珍解答集サイトを見つけたのだが、それに爆笑しながらも、「語彙の身につけ方」について本書の主張をあらためてかみしめることとなった。以下に2例ほど抜粋する。



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問 次の英文を和訳せよ。

(東京都N中学校)

I am a stranger here.

正解 私はここら辺は不案内です。

解答私はここでは変人です。

https://ameblo.jp/chinkaitou/entry-11249463239.html?frm=theme

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そっか、「strange = 奇妙な 変な」だけ覚えてたんだな…そこにer(人を意味する接尾辞)がついたから、変人、ね、なるほど。


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問 次の英文を和訳せよ。

(兵庫県K高校) Hurry up and you could catch the train.

正解 急げば電車に間に合いますよ。

珍解答ヘンリーが飛び上がって汽車をつかんだ。

https://ameblo.jp/chinkaitou/entry-11375484949.html?frm=theme

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Hurry →ヘンリー(それ名前と違う!)

up →飛び上がった(そうきたか!←前置詞のマルチ活躍ぶりは会得されてる)


の無理矢理感もさることながら


「catch = つかむ、捕まえる」だけ覚えているから、catch the train は汽車をつかんだ、なのね…(どういう状況やねん…)


これまでは、こういった創造力逞しすぎる解答を見るにつけ、自分の限られた語彙知識からこれだけの内容を導いてしまうなんてある意味すごいな、柔軟な発想だな、あっぱれあっぱれ、などとむしろただ感心して面白がっていた。


だけど本書を読んで発想の転換を体験した気がする。全く逆だった。彼らは自由なんかじゃなかった。


一語一訳対応、つまりある語の持つ、面として広がりのある意味要素の集合体でなく、うち一点だけのつながりという覚え方でしかその語のことを知らないから、文全体の解釈がいっきにその一点だけの制限に縛られているのだというべきなのだろう。こうした無理矢理訳は大学生の間でも百花繚乱なのだが、中上級者においてもこれはフリーダムどころか、構文選択の余地も狭まるというツケを払わされ、自然な解釈への道筋が閉ざされた、不自由な闇だったのか。


そこまで理解した読者に著者は絶好の道具を与えてくれる。第5〜6章で紹介されている、オンラインで誰にでも使える様々なコーパスとその検索機能である。一語一訳対応では見えてこない、語の多面的なプロフィール。どんな語と一緒に使われるのか、どんな構文に登場しがちなのかという、その語をとりまく関係性を俯瞰できる情報をとおしてその語の姿に迫っていくことができる。そのための情報を惜しげもなく、使い手の求めに応じて欲しいだけ与えてくれる。


そして、この章まで読んだ読者には、一語一訳対応では見逃してしまうであろう側面に気づく感覚をどう養い、何に注意を向けてコーパスから得られる情報を活かすべきか、この時点でしっかり伝わっているに違いない。母語話者の身についているスキーマごと学び取ってやるという意識を持った上で使うコーパスは鬼に金棒なのであった。



「英語のシャワー」と言うけれど


第7〜8章は、多聴神話、多読神話に批判的に切り込んでいるが、ここはともすれば感想や意見の分かれるところであろう。著者もあくまで「『多読には意味がない』ということではない」というスタンスである。


「多聴」のイメージとしては、巷の教材広告でよく使われるフレーズ「英語のシャワー」という表現が浮かぶ。練習問題を解くわけでなく、フィードバックが得られるとも限らず、漫然と聞き流すだけでいつのまにか英語が聴けるようになっているのです、英語圏の赤ちゃんだってそうですよね、という。著者はこの(赤ちゃんと違って私たちはすでに日本語のスキーマを完成させているのに)「漫然と聞き流すというやり方」にも懐疑的である。


実はこれには思い当たる節がある。日本人英語学習者なら誰でもお悩みの、英語のLとR。日本語はこれらの音を区別しないので、どちらが入力されても私たちの脳内では「我々のラ行の音」として扱われる。さて、マクレランド(並列分散モデルで知られる、ニューラルネットワークの分野の大御所)らによると、同時に発火するニューロンの間の結びつきはどんどん強化される、という事実は音素の学習にも通じることが示唆されるのだが、日本語母語話者にとってのLとRの認識についてはどうだろう。Lの入力→「ラ行の音」、Rの入力→「それもラ行の音」というつながりが、入力を繰り返すたびにいっそう強化されるだけだったりして。だとしたら、このフィードバックを伴わない漫然としたLとRの入力のシャワーは、これらを区別するスキーマの習得には役に立たないばかりか習得を遅らせるのでは(言い換えれば、どちらも「ラ行の音だよね」として区別しないとするスキーマの習得を助長するのでは)という理屈も成り立つ。彼らの研究グループが行った実験 (※)の結果では、これが有害であることを示唆するまでには至らないが、自然なLやR音の、フィードバックを伴わない聞き流しによって日本語母語話者のLとRの聞き分け能力が向上することは期待できなさそうだということを示唆している。少なくとも我々が巷の売り文句から想像するとおりには。


(※)McCandliss, B.D., Fiez, J.A., Protopapas, A. et al. Success and failure in teaching the [r]-[l] contrast to Japanese adults: Tests of a Hebbian model of plasticity and stabilization in spoken language perception. Cognitive, Affective, & Behavioral Neuroscience 2, 89–108 (2002). https://doi.org/10.3758/CABN.2.2.89


著者は、リスニングの力を向上させるためには、以下のポイントが大切だとする(p141)。


① 語彙を増やす  *一対一対応訳をたくさん覚えるのではないことはもう伝わっているでしょう

② スキーマを使う

③ マルチモーダルな情報を手がかりにする  *なので視聴覚両方を使う映画などがおすすめ


上記①と③は、何を言っているのか比較的伝わりやすいと思うが、②については少し補足があったほうがいいかもしれない。だって、「スキーマを使う」って何?そのスキーマを身につけるにはどうしたらいいかという話をしているのではなかったか。(すみません、最初読んだとき、どうせいっちゅうねん?と一瞬混乱してしまいました)


この②で言及されているスキーマに関していえば、言葉の知識としてのスキーマでなく、もっと広い、外界の様々な事象についての枠組みとしての知識のことをいう。例えば、p131に挙げられる、英国出張の例に関連づけると、ホテルという場では普通どんな行動をするか(チェックイン手続き、その時になされる情報のやりとり、鍵をもらったあととるべき行動などの一連の流れ)、飲食店ではどうか、仕事相手と会話するときの定型やタブーは何か、などのパターン化されているような知識や常識のことと考えるべきであろう。そうした知識は、単独の文でなく、特定の状況のなかでやりとりされる情報として、ある表現を理解する助けになるはず。それが、ここでより広い意味で使われている「(様々な場面や状況にまつわる)スキーマ」であり、それがさらに「言語知識としてのスキーマ」の習得を助けてくれるというわけだ。点でなく面全体としての語の姿をとらえるために。



進化途上のスキーマ?


母語になじんだ言語スキーマを、違う言語のそれに切り替えることは容易ではない。それを示す例は本書にふんだんに挙げられている。スキーマの違いに目を向けることは、読む、聴くはもちろん、書く、話す、のいずれの場面でも当然関係がある。そして本書第9〜10章では、スピーキングやライティングなど、アウトプットの訓練をする際に重視すべきことが書かれている。


母語のスキーマを過剰にあてはめる誤りに加えて、正しいスキーマを習得する過程で、一時的に間違ったスキーマを作り上げてしまうこともあるかもしれない。そういえば結婚報告のハガキにWe were married! とあるのを読んでぎょっとしたことがある。「私たちは結婚していました」って過去形やん!まさか離婚報告?


これはp65にあるwear vs. put on の違い(状態vs.動作・変化)の混同に通じるものがある。be marriedは結婚している状態にあることを示していて、「結婚する(結婚したという状態になる)」ならget marriedだということは、本当は教わったことがあるはずだ。一方、be〜とget〜がほぼ同じ意味で使われることもある(誰かに蹴られて、I was kicked / I got kicked)。その類推から、We got married = We are married、そして結婚報告だから過去形にしてWe were marriedという感覚だったのかなと思う。


面白いのは、実は日本語でも状態vs.動作・変化は表現上区別できること。結婚した(その結果今も婚姻状態にある)vs.結婚していた(が今は結婚していない)、というふうに。なので、外国語でやらかす誤りがすべて、母語のスキーマを無理にあてはめたことによるものではないのかもしれない。


そのほか、英作文での間違いあるあるに、「私はめでたく合格しました」と言いたくて


I could pass the exam.


とcouldで表現して、「あ、不合格だったんだ」という微妙な空気を醸してしまうことがある。できる(can)の過去形を使っているのに「合格することができた」という意味でなく、「合格する能力はあった、合格が当然だった(でも不合格だった)」になってしまうとは。日本語でも「合格できた」と言った場合、文脈次第で実際に合格することができたという意味にも、合格する実力はあったが不合格だった、の両方の意味がありうるのだから、これも「日本語の枠組みで解釈したせい」ではないかもしれない。


もしかしたら、外国語の習得過程において、「noをつけたらあくまで単純な否定」「過去形はとにかく時間軸を遡ってシフトするだけ」という単純化された一時的なスキーマだって存在するのかも、と思える。


だから、読む、聴くに加え、アウトプットの練習をするにしても、学習対象の外国語独特のスキーマを素早く見極める、自分の言語にはどんなスキーマがあるのか、自分にはどんな思い込みのスキーマがあるのかもよりよく知る、そうした意識をしながら練習することがよりよい習得につながるのだと、いっそう感じられる。


とは言ってみたところで、具体的にはどうすればいいんだろう? 巻末(だが分量的には1/4ほどもある充実ぶり)の「探究実践編」はまさにそのために用意された訓練だといっていい。これらの一連の(手応えある)練習問題を経たころには、「スキーマに目を向ける」とかいうけど一体数多の英語表現のどういう点を意識することをいうのか、かなりイメージができるように作られている(ここで、家宅捜査のプロは現場のどんなところに素早く注目するか、あるいは喩えは悪いが空き巣のプロは目当ての住宅のどんなところに目をつけて情報を得るか、などの、目的に応じて研ぎ澄まされた注意力を特集したテレビ番組を思い出した)。かくいう私は、これらの練習問題に「え〜〜っと(汗)」とか言いながら苦戦している最中である。



「ネイティブみたいに」って何よ?


最後に。本書は「短時間でネイティブみたいにペラペラに」という類いの実用書とは断じて違うということが冒頭で示されていて、「短時間でペラペラに」の、むしろ対立概念だよ、との宣言がなされているのだが、実はそれと同時に、ってか「ネイティブみたいに」って何よ、という問題提起も最初から導入されており、この部分もぜひ注目してほしい。


どんな言語を学ぶにあたっても、その言語や背景の文化や使い手たちについての理解を深め、母語話者と同じ感覚を得たい共有したい、同じように使いこなしたいと思うのは当然のこと。その一方、英語という言語に関しては、世界中の言語のなかで、とりたてて一部の人だけにとっての母語を「いわば世界共通語だから」として母語話者でない人がせっせと学ぶ、という特殊な構図のなかにあることを忘れてはならない。


「ネイティブのようになりたい、だって英語が好きだから」という純粋な語学愛を動機に持つ人もいれば、世界共通語を身につけることが手段として必要だから、という人も多いだろう。特に後者の世界においては、英語のネイティブ(母語話者)と非ネイティブ(非母語話者)は本来対等な関係でなければならないはずだ。


非母語話者が「ネイティブのように」英語を使いたい、と思うのと同じように、英語母語話者も、ネイティブじゃない人たちの英語を、苦労してでもわかりたいと感じてほしい。なぜ非母語話者にとって英語は難しいのか、その困難はどんなしくみで説明されるのか、では彼らの話す母語とはいかなる性質を持つのか。それを考える意義や楽しみそして努力を、英語の母語話者にこそ共有してほしいのだ。さらにそれは、「英語ネイティブ」の人たちが別の言語を身につける学習の過程で、我々が本書から得たのと同じ発見をもたらすだろう。なので本書は一刻も早く英訳されてほしいと思う。


(翻訳者にはハードル高いお仕事だろうけどなあ…)




広瀬友紀(ひろせ・ゆき)

大阪府出身。東京大学総合文化研究科教授。専門は心理言語学、とくに言語処理。著書に『ちいさい言語学者の冒険──子どもに学ぶことばの秘密』(岩波科学ライブラリー)。

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