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  • 執筆者の写真岩波新書編集部

いつもポッケに丸山を/吉川浩満




世田谷のとある中高一貫女子校の卓球部で技術指導をはじめてもうすぐ十年になる。かなり有名な進学校だが、卓球部の生徒たちはそれなりに(下手なりに)真剣に卓球に取り組んでおり、私も学ぶところが大きい。自然と力が入る。


卓球部コーチという立場上、また若干の気恥ずかしさも手伝って、私の本業(=文筆業)について話をすることはめったにない。それでも、いざというときのために、つねに準備だけは万端にしている。いざというときとは、生徒たちから「コーチのおすすめの本はなんですか?」と聞かれた場合のことである。


そろそろ知的にも背伸びをしたくなる年頃である。私の裏稼業(=卓球コーチ)しか知らない彼女たちだが、私の物書き仕事を知って、本について聞いてみたいと思ってもおかしくはない。ふところに懐剣を収める武士、あるいは辞表を胸ポケットに忍ばせるサラリーマンよろしく、必要とあらばいつでも取り出せるようにしておかなければならない。


どの本にするか。年若い生徒たちにすすめるなら、広大な知の世界への入口となるような本がいい。しかも廉価で、ひととおり読み通せる程度の分量の本であれば、なおのこといい。そこで新書が第一候補になる。


私の懐剣は、丸山真男『日本の思想』(岩波新書)である。


すでに長らく名著として親しまれてきた『日本の思想』だが、同書は私にとっても理想の新書である。「である」と「する」、タコツボ型とささら型、実感信仰と理論信仰等々、卓抜な比喩と概念をもちいて日本社会の病巣を剔出する同書の手際に触れて、若者たちは知の力というものを知るだろう。簡単にいえば、自分が賢くなったような気になるだろう。しかもたった一冊、数時間の読書で。まさしく理想の新書である。


もちろん、それで終わりではない。同書は終着点ではなく出発点である。同書の問題提起を承けて、では自分はどうすべきかという課題が読者に与えられるからだ。より広く深い探究への足がかりになるという点でも、理想の新書ということができるだろう。


私自身は、丸山の指摘は「日本の思想」というより「人間の思想」についてのものではないか、それにふさわしく同書を鋳造しなおす道はないかということを、最近よく考えている。


そんなわけで、私はつねに『日本の思想』をふところに忍ばせて卓球コーチに臨んでいる。唯一残念なのは、いまだ彼女たちの誰ひとりとして「コーチのおすすめの本はなんですか?」と聞いてくれないことである。



吉川浩満(よしかわ・ひろみつ)

1972年生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。国書刊行会、ヤフーを経て、文筆業。著書に『理不尽な進化』(朝日出版社)、『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』(河出書房新社)など。


※この記事は、10月1日発行の「図書」臨時増刊号 "はじめての新書" に掲載されるエッセイを転載したものです。

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