――真壁仁編『詩の中にめざめる日本』論
岡和田晃
※10月20日に復刊した『詩の中にめざめる日本』。長らく復刊リクエストが寄せられてきた本書の魅力と意義について、文芸評論家で現代詩作家の岡和田晃さんにエッセイを寄せていただきました。
いまの社会がもっとも顧みていない領域へのいざない
真壁仁編『詩の中にめざめる日本』(岩波新書、以下、「本書」)が復刊した。初版は1966年で、広い層に親しまれていたロングセラーであるものの、いつの間にか品切れとなり、アクセスが困難になってしまっていた一冊である。それだけならば、凡百の“良書”と変わらない。さらに言うと、まったく予備知識がない人がこのタイトルを耳にすれば、“美しいニッポン”を謳う自画自賛本の一種と誤解してしまうかもしれない。悲しいかな、そんな状況が続いている。
だが、本書の内実は、嫌な「空気」に楔を打ち込むことを目したという意味で、今なお有効性を失っていない。むしろ、政治的な現実が悲惨の一途をたどり、インターネット上の言説が差別やプロパガンダで覆われている現状、刊行当時よりも、その意義は増しているとすら言えるかもしれない。そもそも、本書のタイトルにある「めざめる」とは、「民主主義に目ざめる」という意味である。およそ戦後史において、いまほど「民主主義」なる言葉が空疎にさせられている時期もないことに鑑みれば、本書が掲げた理想はあまりにも眩しい。
いや、理想という言葉は本書を論じるのに適切とはいえない。本書は多様な詩人の作品を集め、各編に編者の解説を添えた詩のアンソロジーなのだが、すでに殿堂入りした“名作”を集めて抒情に浸らせ、制度や権威を強化することを目的とした詩集とは一線を画するものだからだ。何より現実から出発した書物なのである。
本書は、狭義の“文壇”に限らず、いまの社会がもっとも顧みていない領域を掬い上げようとする、民衆詩・社会詠を集成した入門書で、扱われる事柄は多岐にわたる。アイヌ(北海道)、東北、原爆(広島)、沖縄といった――“中央”からは周縁に置かれ続けている領域はもとより、農村や工場での生活実態、被差別部落、朝鮮大学、さらにはシベリア抑留、中国人捕虜の虐殺、60年安保やベトナム(ヴェトナム)戦争、アフリカの独立といった――当時は“第三世界”、今なら“グローバル・サウス”と呼ばれる――諸問題までもが扱われているのだ。
私が本書を論じることになったのは、コロナ・ウイルス禍で遠隔講義を余儀なくされた大学生に薦める一冊として、本書をSNSで紹介したからである。本書が書店で手軽に入手できた時期においては、小・中学校の授業で扱われていたことすらあるという。しかし、教育改革ならぬ改悪が進む昨今においては、義務教育のみならず高等教育の現場においてすら、本書のような書物を扱うことは難しくなっている。初版から半世紀あまりを経てなお、歴史的現在として多くの問題は連続しているにもかかわらず、だ。高度資本主義社会が求める人間像からの死角に、本書は置かれてしまっているわけである。ゆえに、本書のような性格の書物の意義を、近年の研究も踏まえて論じる必要を痛感している。
綴方教育とサークル運動
本書はもともと、国土社の雑誌「月刊社会教育」に約7年連載されたものが原型で、編者による序文では「選ばれた詩人」ではなく「名もない民衆(人民大衆)のなかの書き手」の作品を集めたものだから「こんにち到りえた文学的な高さを示すような本ではない」と、わざわざ銘打たれている。あえて“文壇”から距離を置いた形で成立したがゆえに、「文学」を規定する諸制度を、集められた詩群が放つ“声”、あるいは佇まいによって相対化させる、そんな一冊になっているのだ。本書は、美学的に閉じた鑑賞をもって完結する一冊ではなく、“その次”へのコミットメントを必然的に導く。
詩史に通じた読者でなくとも、本書の頁を繰れば、森崎和江、茨木のり子、峠三吉といった有名詩人が参画していることに気づくはずだ。初版から55年が経過した段階では、文学研究の対象となって再評価が進んだり、“地方”においては半ばカノン化されていたりする書き手も少なからずいる。その意味で「名もない民衆」という評言は、序文で編者が言うように「その作品が人民大衆の詩と基底をおなじくしている」ものと理解する必要がある。
ただ、本書はあくまでも導入の一冊であり、早くから批判の声がなかったわけではない。詩人の長谷川龍生は「教育評論」196号(1967年)で、「大衆が沈黙を破っても、支配者は、さらに巨大な沈黙を用意している。(……)すなわち支配者側の連続したキャンペーンを見ぬ」く必要があると論じたうえで、『詩の中にめざめる日本』という問題の立て方は、「社会意識に目ざめている大衆と、目ざめていない大衆がある」という区分に依っていると批判し、「詩は、詩であって、詩の形式を借用した生活綴方そのものではない」と述べている(「今日の詩の問題」)。どういうことか。
編者の真壁仁(1907~84年)は、歴史学者の上原専禄の影響を受け、1950年代の生活綴方運動の延長線上で本書を構想し、また少なくない詩人が戦争に加担したことの責任をいかに取るべきかという観点から、戦前に刊行された自身の第一詩集『街の百姓』(北緯五十度社、1931年)を含めた日本の近現代詩が依拠する「湿った風土日本」と「戦争の韻律」の類縁性を看取しつつ、それとは異なる「様式」を模索していた(楠原彰『野の詩人 真壁仁』、現代企画室、2020年)。
戦後の綴方運動とは、無着成恭『山びこ学校』(青銅社、1951年)が一つの代表とされているが、児童の生活実態を――詩の創作を含んだ――作文という形で表現することで社会における自己の位置を発見し、そこから主体的に脱していくことまでもが目されていた。ここでは詩学と社会性とは不可分となっており、社会の変動とともに描かれる詩のあり方も必然的に変容していくことになる。
こうした綴方運動の発想は学校教育に留まらず、社会人においても、職場内での文学サークル運動として広範な盛り上がりを見せており、本書所収の詩群の多くは、そういったサークルで刊行されていた詩誌あるいは労働組合の機関誌を初出とする。だからこそ長谷川のような批判が出てくるわけなのだが、かような傾向をもっともわかりやすく体現するのが、序文でも言及されている「「大」浴場無情の歌」であろう。
昭和なる工場のほとり
風呂せまく油子くるしむ
みどりなす真水は出でず
あがり湯も汲むによしなし
広かねえフロ場の床を
湯にとけた垢うき流る
(昭石川崎労組「暁塔」「「大」浴場無情の歌」、本書所収)
これは昭石川崎労組の機関誌「暁塔」に発表されたもので、作者不明。島崎藤村「小諸なる古城のほとり」等をもじり、京浜工業地帯において――しばしば過酷で非人間的ですらあった――労働をせねばならなかった者らの現実を詠った風刺詩である。ここには明らかに、ある意味で戦後いっそう強化された富国強兵・殖産興業のイデオロギーから明治文学との連続性を切断し、叙情的な韻律を笑いに変えんとする野心が見受けられる。ただ、パロディであるがゆえに、藤村すらろくに読まれなくなっている現在から見れば、同時代に有していたはずの破壊力の減少は否めない。長谷川に倣えば、ここから、より「危険」な詩学を発見していく必要があるというわけである。
「始原の怨恨」に突き動かされたパルチザン
特定の作家に限った話ではなく、より敷衍して捉えれば「詩の中でめざめる」はずの「日本」においても同様だ。「日本」にめざめ、「日本」を取り戻そうというロジックは、日本会議的な排外主義のイデオロギーや、2012~13年に安倍晋三や自民党が掲げた「日本を、取り戻す。」というスローガンと、あまりにも近似的ではないか。つまり支配者は民衆による有形無形の支持を得ているからこそ支配者然として振る舞うことを許されているわけであり、本来は民衆に内在する支配者への依存こそを断ち切っていかねばならないはずだ。それは慣れ親しんだ既存の生活を捨てる、ということをも意味するがゆえ、改革の試みはしばしば失敗し、冷たい拒絶に見舞われるわけだ。
こうした状態を真壁仁は、農民なら誰しもが持っているはずの「始原の怨恨」を晴らそうとするパルチザンに対し、味方であるものが黙りこくって「怒りのエネルギーとならない状態」をも撃とうとするものの、うまくいかないでいる苛立ちを、黒田喜夫(1926~84年)の詩「空想のゲリラ」に見てとった。次のような詩文である。
野垂れ死にした父祖たちよ
追いたてられた母達よ
そこに帰る
見覚えある抜道を通り
銃をかまえて曲がり角から踊りだす
いま始原の怨恨をはらす
復讐の季だ
その村は向うにある
道は見知らぬ村から村へつづいている
だが夢のなかでのようにあるいてもあるいても
なじみない景色ばかりだ
(黒田喜夫「空想のゲリラ」、本書所収)
ここで描かれる情景を、黒田は「支配の自然化された時間(日常・事実)」と呼んでいる。そして、その「時間」の集積を肉体として構成する幻想の共同体こそが「国家」であり、それを統合する天皇制とは異なった「反自然の存在(プロレタリアート)としての否定変革の自他の関係を創出することにおいて、はじめてそこにある「自己」を現出し得る」ことを措いて、自らが「主格」であることはできないと論じている(「生涯のように――対話による自伝」、1978~79年、『燃えるキリン 黒田喜夫詩文選』、共和国、2016年)。
圧迫して恥じない言語としての「日本語」
かような「空想のゲリラ」の意味づけは、生活実態の素朴な表象という段階から、民衆詩をありうべき理想を託したコミューンともいうべき連帯――すなわち共同体のあり方――への夢想と接続させるものであるが、そのプロセスにおいて紐帯をなす“日本語”もまた、強い疑義の対象となる。大江満雄(1906~91年)の「あの人たちの日本語を杖にも柱にもするな」では、そうした疑念のあり方がわかりやすく表象されている。
わたしは
日本語を疑う。
きがねして 水底に沈んで ふるえている あの人たちの
内にひねくれて あいまいな 表裏のある日本語を。
ゴウマンで空疎な日本語
きかざった日本語
おのれにも他者にも 真実を失った あの圧迫して はじない 日本人の日本語
あの圧迫されて はじない 日本人の日本語。
(大江満雄「あの人たちの日本語を杖にも柱にもするな」、本書所収)
「あの圧迫して はじない 日本人の日本語」に続く形で対照的に描かれるものは、「いつであったか あの 外国人の 日本語には ういういしい平等感があった」である。「あの 外国人」とは誰だろう。ここで本作のエピグラフに立ち返ってみると、ツルゲーネフが「おまえだけはわたしの杖であり 柱である」と、「自由なるロシア語」を称揚している。これはツルゲーネフ「散文詩」からの引用である。とすれば、「外国人」と言われて、真っ先に念頭に置かれるのはロシア人だろう。多くの場合、ロシア人がロシア語を杖や柱にするように、日本語を話せるわけでは毛頭ない。だからこそ「あの 外国人の 日本語には ういういしい平等感があった。」わけなのである。
「ういういしい平等感」の「古里」
ここでの「ういういしい平等感」が連想させるのは、日本生まれの白系ロシア人(1967年に日本国籍を取得)の詩人コンスタンチン・トロチェフ(1928~2006年)である。ロシア革命で投獄された後に脱出、日本に亡命してきた父と、同じく革命で故国にいられなくなり日本に亡命してきたロシア貴族の祖母に母をもつトロチェフは、日本の子どもたちと遊びながら育ち、長じて4カ国語を操れるものの、詩は日本語でしか書けなかった。
17歳でハンセン病に罹患し、草津の粟生楽泉園に移され、そこで大江満雄と知り合う。第一詩集『ぼくのロシア』(昭森社、1967年)には、大江の解説が添えられていた。晩年のトロチェフとの会見を収めた木村哲也『来者の群像 大江満雄とハンセン病の詩人たち』(水平線、2017年)では、トロチェフの日本語について、「ひとつのセンテンスが非常にみじかい。まるで歌うような口調」だと評されている。それは日常会話のみならず、詩句においても同様であった。
おれの こころの 里は
ひろい しずかに ながれる川
とけた ゆうやけの 金
そこへ うつる
むこうの岸から とどく
農民の うた
ずーっと ずーっと つづく畑
みぎに見える村
教会……
星のようにひかる 十字架
(コンスタンチン・トロチェフ「こころの古里」、『ぼくのロシア』所収)
革命を経てなおロシアに残存する聖性を「こころの古里」として掴もうとする姿勢を伝える。何より鮮烈なのが、きわめて平明な表現にもかかわらず、「湿った風土日本」とは異質な情景が扱われていることだ。大江はマルクス主義とキリスト教を統一・止揚させようとする問題意識を持っていたため、響き合うものを感じたのかもしれない。民族的なルーツを日本の外に有しハンセン病患者という社会的なラベリングをなされたダブル・アウトサイダーが、日本語で詩を書き、そこに原像としての「ロシア」が置かれていること。それは大江が編んだハンセン病当事者によるアンソロジー『日本・ライ・ニューエイジ詩集 いのちの芽』(1953年)の文脈においてなお、特異点となるものだった。端的に言えば、トロチェフは『いのちの芽』には参加しておらず、『詩の中にめざめる日本』にもその名はない。
方言詩と植民地主義
この意味を理解するためには、1960年代から70年代にかけ、とりわけ盛んだった国民教育運動を知っておく必要があろう。綴方教育の延長線上で、「アメリカへの従属と、そのもとにある日本の独占の収奪に苦しめられ、そこから解放されたいと願っているすべての人たちの教育要求を実現する闘いを進める運動」と定義されるものだからだ(石田真一『部落解放をめざす国民教育運動』、汐文社、1966年)。こうした国民教育運動は、より「科学的」だとされた集団主義教育へと引き継がれるものの、とどのつまりは「日本人」であることを基体としたパターナリズム(父権的温情主義)としての国民主義へ回収される以上、どこまでも内向きに閉じ、帝国主義を基軸とした植民地主義への抜本的な批判には至らなかった憾みがある。
本書に収められた更科源蔵(1904~85年)の「チャチャはこう話してくれた」は、まさにそうした矛盾を体現した一作。文化的なルーツとして、「和人」に言語を簒奪された「アイヌ」の語りからなる作品だからだ。更科の第一詩集『種薯』(北緯五十度社、1930年)から採られたもの。更科は真壁の『街の百姓』刊行時の立役者で、交流があったにもかかわらず「アイヌ語は私にはよくわからないが」と、距離をもった解説をなしたうえで、本作につき、「文字をもたない種族」の「話し言葉」の採録だとして読んでいる。
1973年に『種薯』が北海道編集センターから復刻した際の栞文では、更科は本作を「屈斜路湖畔の、アイヌの子弟だけの小学校の代用教員をしていた」時分の作品だと書いており、実際に更科が耳にした、幼児語とも似て非なる舌足らずでハイブリッドなアイヌ民族による日本語を、そのままトレースしたものとしても読むことができる。ある種の方言詩というわけだ。
事実、『詩の中にめざめる日本』には、全編が津軽方言で記された高木恭造(1903~87年)の詩集『まるめろ』(「北」編纂所、1931年)より「冬の月」その他が収められている。高木は満洲へわたって困窮した生活を送った末に妻が亡くなり、今際の際に故郷・青森のまるめろと雪を夢に見た光景を詩にしている。つまり「植民地」を介し、あらためて故郷の方言を発見した、という体裁の作品なのである。
満洲が「外地」としての植民地だとしたら、北海道はまさしく内国植民地だった。真壁もまた、本書の解説でアイヌを「民族」ではなく「種族」と書くなど、植民地支配の精神から免れているとは到底言えない。加えて、更科が耳にした言葉が、そのまま当時のアイヌ民族のすべてでもなかった。
『種薯』の初版が出た1931年には、短歌の創作や文芸誌の刊行でアイヌのアイデンティティを模索した最初期の立役者・違星北斗(1901~29年)の遺稿集『コタン』(希望社)が刊行されている。そこでは「我はただアイヌであると自覚して正しき道を踏めばよいのだ」、「アイヌと云ふ新しくよい概念を内地の人に与えたく思ふ」と、威風堂々とした清々しい歌や、「「アイヌ研究したら金になるか」と聞く人に「金になるよ」とよく云ってやった」「俺の前でアイヌの悪口言ひかねてどぎまぎしてる態の可笑しさ」と、和人の研究者を皮肉る歌も収められていた。折しも、『コタン』その他の違星北斗の短歌・俳句・散文を収め、既存の違星北斗に関する本でもっとも内容の充実した『違星北斗歌集 アイヌと云ふ新しくよい概念を』(山科清春編、角川ソフィア文庫、2021年)が出たので、ぜひセットで読んでみてほしい。
出典:角川ソフィア文庫のツイート(https://twitter.com/kadokawagakugei/status/1404620632608755714)
想像的な連帯と友愛
『いのちの芽』と、ほぼ同時期に、現代詩人会は第五福竜丸事件を受け『死の灰詩集』(1954年)を編んでいる。同書は論争を引き起こし、詩による連帯はいかにして可能か(あるいは不可能か)という視点から、いまなお戦後詩史や「原爆文学」をめぐる議論では参照されるトピックとなっている。田口真奈『〈空白〉の根底――鮎川信夫と日本戦後詩』(思潮社、2019年)では、鮎川の「兵士の歌」を『詩の灰詩集』の文脈で再考する論述が展開されており、それを受けた齋藤一「〈私〉たちの詩学」(「現代詩手帖」2021年8月号)では、複数の詩人たちによる「私的な個人的経験」に根ざした「社会的テーマの復権」が、日本とイギリスにおいてなされた可能性を示唆し、『死の灰詩集』をめぐる文脈を、より開かれた文化交流史において定位づけ直そうとしていた。
こうした観点から興味深いのは、薩川益明(1924~2017年)の「自由について」であった。これは北海道で刊行された文芸誌「詩の村」のヴェトナム戦争特集(1965年)に寄せられた作品を初出とする。「詩の村」の立役者の一人である江原光太は、「ビラ詩」としての『北海道=ヴェトナム詩集Ⅰ・Ⅱ』(北海道=ヴェトナム詩集刊行会、1965、68年)を編んでいる。彼は「詩の村」をいかにして説明したのか。
詩の村は酒の村にあらず
酒の村は詩の村にあらず
詩の村は酒の村のとなり
酒の村は詩の村のとなり
(江原光太「詩の村賛」、『狼・五月祭』所収、1966年)
酒の形象をもって「詩の村」の友愛を詠った江原の豪放磊落な詩だ。そのような友愛をもって、『北海道=ヴェトナム詩集』では、メディアを介してしかヴェトナムの実態を知らない詩人たちが、ヴェトナムの人民大衆とつながろうと試みたわけである。ここには明らかに、『死の灰詩集』の残響が聞こえよう。現代のSNSを先取りしていたとすら言えるかもしれない。が、黒田喜夫が述べたような「反自然の存在(プロレタリアート)としての否定変革の自他の関係を創出」するに至った作品は少数に留まり、皮肉なことに、実際に訳されてヴェトナムへ伝わった詩作品はもっとも屈折のない人間讃歌にすぎなかった。
江原の個人出版社である創映出版の最後期の作品である薩川益明詩集『よしのずいから』(1994年)では、モダニズムを経由したシュルレアルなイメージと、詩人が暮らした北海道・長万部の風土に由来する土着的な雰囲気が入り混じり、独自の詩域を形成するに至っていた。ここに、ひとつのヒントがあるかもしれない。詩人が日本的なものを相対化しようとしても、生まれ育った骨絡みの風土からは免れえず、高次の段階における国民主義や植民地主義の桎梏からは逃れられない。だとしたら、近代の暗部へいったん沈潜し、自らの居る場所からの連続性を、作品へ読み込んでいく粘り腰こそが必要なのではないか。
「死の曠野」の記憶から来たるべき民主主義へ
突破口となるのが、西岡寿美子(1928~2018年)の「砂から」だ。本書には第3詩集『炎の記憶』(二人発行所、1965年)から採られたもので、このことによって西岡は真壁との知遇を得たという。つまり、既存の人間関係とは別のところから、作品先行での連帯がなされたわけだ。「砂から」では「ベトコンの若者」の生活空間を、詩人の暮らす土佐高知をめぐる「砂」の身体的な記憶を通じ、観念とは異なる形で国境を超えた日本の現実へ結びつけることに成功しえている。
わたしは
あの 燃える砂の内ぶところからはぐくまれる
まるい漿果をふしぎにおもう
砂漠ではラクダのくつ
ジャワはボルネオではわたしによく似た女たちが
河にざんぶりと身をひたし
小さなこどもまでじゃぶじゃぶ洗ってはだしで砂の上を歩く
ベトナムではベトコンの若者らのシャツが夜の間にかわき
暗夜
(西岡寿美子「砂から」、本書所収)である。
ここから西岡は、投機によって家財を失った父に連れられ、開拓農民として北海道の虹別原野の無医地区へと入り――「父を殺した土地だ」「母を殺した土地だ」と詠うしかないような――過酷を極めた幼少期の身体的な記憶を、詩として形象化させていく(「虹別原野」、第4詩集『杉の村の物語』所収、二人出版社、1973年)。世界恐慌の只中で、許可移民団として入植した土地は、「わたしの胞衣を埋めた」場所でありながら、「五月に霜が降り、十月に雪のくる土地」である。
有島武郎と島崎藤村の弟子にあたる作家の早川三代治は、シュンペーターに学んだ(当時としては)最先端の社会科学的知見の持ち主であったが、その眼をもって、まさしくこの虹別原野に取材し、パール・バックを思わせる大河小説〈土と人〉五部作をものした。早川の遺稿を継承した文芸評論家の木戸清平は、〈土と人と〉の情景を噛み砕いて伝えた。『日本残酷物語 第2部 忘れられた土地』(平凡社、1972年)に「春から夏へのガス、晩霜、虫害、早霜と、次から次へとつづく災害によって、もはや大凶作は避けられないものになっていた」(「死の曠野」)光景を克明に描出したのである。こうした“棄民”たちの“声”は、虹別原野に限らず遍在しており、それらを忘却の縁から掬い出し、新たに位置づけ直す読解こそが切実に求められている。
ここから立ち返れば、『詩の中でめざめる日本』で無名性にはポジティヴな意味合いが与えられていたことを、想起しないわけにはいかない。編者の言を借りれば、「人格をもった人間としての存在を認められなかった」人々のことや、「名をかくすことで身をまもろうと考えてきた」人々のことをも包含するものであり、既成の制度を強化して恥じない文化史への根底的なカウンターが目されたものとして、本書が語る歴史の暗部を捉えることが肝要だろう。
本書に集められた詩群が “下手”に見えたとしたら、なぜそうした趣味判断がなされたのか、自らの依拠する規範を疑う必要があるのは間違いない。その過程では必ず、既存の日本のあり方への再考が必要となる。そこから国民主義や植民地主義の矛盾へ直面し――高度資本主義に翻弄されない別種の言葉よりなる――来たるべき民主主義ひいては倫理を構築するための足がかりとすること。導線としての“最初の一冊”となるべき本書が、長い眠りからめざめ、いま読者の前に差し出された。
岡和田晃(おかわだ・あきら)
1981年生まれ。文芸評論家・現代詩作家・東海大学非常勤講師。著書に『向井豊昭傑作集 飛ぶくしゃみ』(編著、未來社)、『向井豊昭の闘争 異種混交性(ハイブリディティ)の世界文学』(未來社)、『北の想像力 〈北海道文学〉と〈北海道SF〉をめぐる思索の旅』(編著、寿郎社)、『アイヌ民族否定論に抗する』(共編著、河出書房新社)、『反ヘイト・反新自由主義の批評精神』(寿郎社、第50回北海道新聞文学賞創作・評論部門佳作の改題)、『骨踊り 向井豊昭小説選』(編著、幻戯書房)、『掠れた曙光』(書苑新社、2019年度茨城文学賞詩部門受賞)、『現代北海道文学論 来るべき「惑星思考(プラネタリティ)」に向けて』(編著、藤田印刷エクレントブックス)ほか多数。
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