コンビニエンスストアは、客の目線に入りやすいところに新商品を並べる。それを買う人も、買わない人も、その陳列がお店からの「買ってほしい!」という強いアピールであることを知っている。わざわざ言うまでもなく、安易には騙されない。
でも、ならばなぜ、マイナンバーを提供してしまうのだろう。あれは「マイ」ではなく、「ナショナル」ナンバーである。わざわざ言うまでもない。「あなたに、いいコト。みんなに、いいコト。」などといったキャッチコピーを使ってきたが、国民を管理するためのナンバーであることは明らか。コンビニで売られている新商品を見極めるよりも簡単なことだと思う。
今、偉い人たちがやることには基本的に従っておいたほうが無難、という軽薄な空気が流れている。声を挙げて異議申し立てをする人を醒めた目で見つめ、従順になれない人たちを嗤うようなムードが高まっている。従順な国民を増やした結果、のさばるのは、国民を管轄している人たちである。物事にはいつだって、様々な考えがある。ぶつけ合って、自分の考えを揺さぶっていく。更新することもあれば、意固地になることだってあるかもしれない。とにかくその時に、それが自分の考えであるかを確かめ、他人に強いられた考えでないかと疑う、その最低条件を保ちたいと思う。
斎藤貴男『安心のファシズム―支配されたがる人びと』(岩波新書)の「あとがき」に、「ファシズムは、そよ風とともにやってくる」とある。ファシズムは独裁者の強権政治だけで成立はしない。「自由の放擲と隷従を積極的に求める民衆の心性ゆえに、それは命脈を保つ」のである。
「支配されたがる人びと」という副題を持つ本書は今から15年前に記された書籍だが、本書で投げられていた懸念が、今現在、すっかり社会通念として染み渡っていることに恐ろしさを覚える。イラク人質事件の後に噴出した自己責任論は、空気を読むことを人間力として問うような社会で当たり前の仕打ちと化しているし、個々の自由を気ままに剝奪する監視カメラは「防犯カメラ」という名義で、その増設が歓待されている。位置情報、アルゴリズムなどの「脳のアウトソーシング」によるリスクは、「超便利」「ラクラク」といった宣伝文句によってかき消されている。「道徳」はついに教科化され、子どもたちの考え方に成績がつけられようとしている。
著者の本をずっと読んできた。残念なことに、その懸念の多くが現実化し続けている。強権が発動しているわけではない、「支配する人」ではなく「支配されたがる人」が許容し続けてきた。今読み直すと、個々人が反省することになる。何故気づけなかったのか。何故気づこうとしなかったのか。とにかく今一度、反省しなければいけない。
武田砂鉄(たけだ・さてつ)
ライター。1982年生まれ。著書に『日本の気配』(晶文社)、『コンプレックス文化論』(文藝春秋)、『芸能人寛容論』(青弓社)、『紋切型社会』(朝日出版社)など。
※この記事は、 10月1日発行の「図書」臨時増刊号 "はじめての新書" に掲載されるエッセイを転載したものです。
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