一九九九年。大学一年生だった私は、日々、紙の上に文字を綴っていた。友人宛ての手紙、日記、そして小説らしきもの。
作家になると心に決めていた私は、川村湊氏による創作ゼミにはりきって参加した。先生はゼミ最初の日に、自身の著書『戦後文学を問う―その体験と理念』(岩波新書)を十数名いた学生全員に配布した(なんと太っ腹なのだろう!)。
この一冊こそ、私がはじめて〝精読〟した新書にあたる。
書きたいと思っていたわりには、小説に限らず、読むという経験が圧倒的に乏しかった私にとって、『戦後文学を問う』は、一九四五年から一九九〇年代前半までの約五十年という時代の中で書かれてきた「日本文学」の肌触りを想像する最良の入門書になった。
特に、「「在日する者」の文学」と題されたⅩ章は興味深かった。私は、日本人ではない自分がこの国で作家を志すのであれば、本章で論じられている「日本語社会の中で生まれ、育ち、その意味では否応なく「日本語」を選ばざるをえなかった世代の文学者たち」の系譜に連なるのだろう、と考えずにはいられなかった。それは私にとって決して嘆かわしいことではなく、むしろ、この自分がこの言語で書くことの意義を個人的な文脈の外に見出すきっかけへと繋がった。
何しろ、川村湊氏はこのように書いている。
「日本の戦後の文学において「在日朝鮮人文学」は、重要な意味を持っている。それは単に民族的少数者の〝特殊〟な文学という意味だけではなく、日本語による日本人の文学という意味での「日本文学」を相対化させるほとんど唯一の契機を持ったものであり、文学的マイノリティー(文学的少数者)から、マイノリティーの文学(少数者の文学)という〝世界文学〟への方向性を示すものであるからだ」。
いまも書く日々をたどたどしく重ねる中、日本語で書かれたありとあらゆる文学がつくるおおきく豊かな流れの、わずかほんの一滴分でしかない自分をふと意識し、奇妙な安堵を覚えることがある。しかも、この流れをつくってきたのは、「日本人」だけではないのだ。
「日本人だけでなく、近隣アジアの「亡霊」たちの魂の行方にも私たちが気を使うようになった時、初めて日本は「戦後」を終わらせることができるようになるのであり、「戦後文学」はその終焉を迎え、日本の〝新しい文学〟がスタートすることになるだろう」。
約二十年ぶりに〝精読〟した恩師の著書の言葉に、私はあらためて背筋を正す。
温又柔(おん・ゆうじゅう )
小説家。1980年、台湾・台北市生まれ。3歳の時に家族と東京に引っ越し、台湾語混じりの中国語を話す両親のもとで育つ。法政大学大学院国際文化専攻修士課程修了。2009年に「好去好来歌」ですばる文学賞佳作を受賞。著書に『真ん中の子どもたち』(集英社)、『台湾生まれ 日本語育ち』(白水社、日本エッセイスト・クラブ賞)など。
※この記事は、 10月1日発行の「図書」臨時増刊号 "はじめての新書" に掲載されるエッセイを転載したものです。
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