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執筆者の写真岩波新書編集部

大学でいちばん大切なこと/與那覇潤




読書や教育について聞かれたとき、激しいうつ状態で休職に至る最中に起きた事件を、いまも思い出す。


学科の最優秀成績者として表彰されたと記憶する学生の、卒業論文が盗用をしていた。濫造された学内雑誌(紀要)の原稿不足もあり、指導教員がぜひにと口説いて掲載した結果、判明した不祥事だった。


私の指導学生ではなかったし、論文審査にも関わっていない。それでも、その学生の真面目さを多少知るところがあったものとして、責任は免れないと思う。あれほどしっかりした若者に対しても、私が一翼を担っていた大学の組織は、一番大切なことを伝えられていなかったのだから。


学科の初年次教育のうち、私が担当するクラスでは以下の二冊を精読していた。期せずしてともに想像上の対話の形式で書かれた書籍である。


戸田山和久『論文の教室 レポートから卒論まで』(NHKブックス)では、著者自身が架空の学生を相手に、引用・注記・論理の展開といった論文執筆の骨組みを講じる。杉田敦『デモクラシーの論じ方―論争の政治』(ちくま新書)では一歩進んで、対等な立場の二名が「あるべき民主主義」の姿を―つまり、いまだ「正解」が出ていない主題を徹底的に論じあう。


情報が錯綜する現在、みずからの主張の典拠を明らかにしつつ発言するのは、けっして学位取得のための「面倒な手続き」ではない。それは、根拠のない不当な批判に貶められないよう、あるいは自身が結果的に誤った言動をしてしまわないよう、発言内容のうち直接責任を負える範囲を明示して「自分を守る」ことでもある。


そのように足場を固めることで、人は未知のこと、答えがまだ(あるいは、永遠に)出ない問いに対してすらも、論じる作法を手に入れる。どこまでが「いまの自分」に断言できて、どこからは留保が必要か。その見極めを繰り返すなかで、異なる意見の持ち主とも「口喧嘩」でなく「討議」することが可能になる。


この意味で、政治学に限らず大学教育は「民主主義への通過儀礼」だったはずであり、専門が英文学か日本史か、はたまた分子生物学かは、「儀式の祭具になにを用いるか」の相違でしかない。不確かなことだらけの世界で、他者と関わりつつ言葉を使う人を育てるという本義を果たさないなら、外国語の原書や手書きの古文書や各種の数式は、魔法のかかっていない呪物―つまりは落ち葉や石ころとおなじだ。


もしその学生も自分のクラスであったなら、などという資格は私にはない。それでも、教壇にあったものとしていま、書物に手を伸ばす人たちに伝えたい。専門なんて、二の次でいい。それよりも初心に帰ろう、と。



與那覇潤(よなは・じゅん)

1979年生まれ。日本近代史。東京大学大学院総合文化研究科博士課程を経て、2007年から2015年まで地方公立大学准教授として教鞭をとる。著書に『翻訳の政治学』(岩波書店)、『中国化する日本』(文春文庫)、『知性は死なない』(文藝春秋)など。


※この記事は、 10月1日発行の「図書」臨時増刊号 "はじめての新書" に掲載されるエッセイを転載したものです。

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