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  • 執筆者の写真岩波新書編集部

大拙を復習する/落合陽一



平成最後の夏の真っ只中、時代の空気について考えている。平成最後という言葉を使うだけで、変化を予見させるのだから元号が時代の空気を決める側面があるのだろう。空気とは、伝統だろうか、文化だろうか、それとも霊性だろうか。


鈴木大拙の著書のうち『日本的霊性』は岩波文庫で、『禅と日本文化』は岩波新書で読んだ。岩波文庫は思想的なアーカイブであり、岩波新書はより一般的な教養のために書かれるように感じる。新書は教養を生み、教養は時代の空気を作る。殊更『禅と日本文化』は芸術や作法など広いコンテクストについての解説をもたらす良書である。その視座を紐解いてみたい。


『禅と日本文化』は昭和一五年、『日本的霊性』は昭和一九年夏、太平洋戦争前から終戦期の激動の中、書かれている。『日本的霊性』は精神と物質を通底する概念として霊性を規定し、その仏教的自覚を解く。それを日本文化論や宗教論のコンテクストに挿入した傑作だ。終戦後の2版の前書き(角川ソフィア文庫版を参照)を紐解くと、当時の世相について、軍部の暴走と敗戦の空気、大衆扇動への怒りが伝わる。時代の変わり目に時代のコンテクスト整理が必要だと思い直させてくれる。


『禅と日本文化』の特徴は導入後、芸術論としての禅から語り起こされるところである。日本文化は長らく、生活やその道具の中に、テクノロジーとアート、つまり渡りと景を融合させ、美的感覚と機能性を維持してきた。そして(例えば京都のように)、それを維持するコミュニティを都市に合わせ最適化し、祭りや伝統芸能を育んできた。その美的コンテクストの一部は、今も侘や寂として認識されている。


侘や寂に代表されるように、我々の文化を形成し、通底する霊性としての禅を理解する入門としてこの新書は大きな意味を持つ。知識や精神を超えた暗黙知的な体現を俳諧や能など様々な具体例に重ね合わせて読む中で、昭和の初めに大拙が到達した日本文化論を復習する。僕が計算機と自然の間に存在する美的感覚を近著の『デジタルネイチャー』で侘と寂で表現したのもこの新書からの多大な影響がある。


僕は侘と寂を「複雑性とシンプルさの間の不均衡を安定させようと試行回数を重ねる中で自然に漸近し、そして発見される美」であると考えている。その美的感覚の体得はまさに大拙のいう禅的なものだ。日本は長くの間、中流的価値を保存し、メディアによって意思統一をしてきた。コンテンツの平均化や平滑化も試行回数の中で自然に漸近した例だろう。本書の通読は、コンテンツの個⼈化と⺠主化が⽣み出す創発的循環の中で古典的コンテクストとの接続、ライフスタイルとの融合、東洋的世界観などといった、七〇年代的精神論から、IoT時代までを俯瞰し、今新たな日本文化を見つめ直す契機になるのではないだろうか。



落合陽一(おちあい・よういち)

1987年生まれ。メディアアーティスト。東京大学学際情報学府博士課程修了。博士(学際情報学)。著書に『デジタルネイチャー―― 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』(PLANETS)、『日本再興戦略』(幻冬舎)、『超AI時代の生存戦略』(大和書房)、『これからの世界をつくる仲間たちへ』(小学館)、『魔法の世紀』(PLANETS)など。


※この記事は、10月1日発行の「図書」臨時増刊号 "はじめての新書" に掲載されるエッセイを転載したものです。

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