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  • 執筆者の写真岩波新書編集部

南陀楼綾繁:『岩波新書解説総目録 1938-2019』をよむ




プロローグ

私が大学2年生だった1988年1月、早大文学部キャンパスにあった生協書籍部に岩波新書の新刊が山積みになっていた。このとき刊行された8冊によって、岩波新書はそれまでの「黄版」から「新赤版」の時代に入ったのだ。

大学に入っても高校以来のサブカル的な読書を引きずっていた私は、岩波新書が他の教養新書(中公新書や講談社現代新書)とどう違うかもよく判っていなかった。この時買ったのは、大江健三郎『新しい文学のために』〔新赤1〕でも廣松渉『新哲学入門』〔新赤5〕でもなく、劇作家としてよりはエッセイストとして親しみのあった別役実の『当世・商売往来』〔新赤8〕だった。最初のラインナップでは、もっとも岩波新書っぽくない一冊だろう。

その頃から、ときどき岩波新書の新刊を買うようになり、その一方で、早稲田や中央線の古本屋街を回って100円から300円ぐらいで昔の岩波新書を買った。結局読まないまま処分してしまった本も多いが、添田知道『演歌の明治大正史』〔青501〕、上野英信『地の底の笑い話』〔青639〕、安丸良夫『神々の明治維新』〔黄103〕、内田義彦『読書と社会科学』〔黄288〕、多木浩二『天皇の肖像』〔新赤30〕など折につけ読み返す本がある。出版史には欠かせない名著・脇村義太郎『東西書肆街考』〔黄87〕などは見つからなくなるたびに買い直すので、5、6冊持っていたこともある。

今回刊行された『岩波新書解説総目録 1938-2019』(以下、『総目録』)は、創刊からの80年に刊行された3400点あまりの全書目を解説付きで掲載した総目録である。岩波文庫に関しては、創刊70年を記念して1997年に『岩波文庫解説総目録』が刊行され、以下10年ごとに改訂版が出されているが、新書に関してはこれが初めてだ。

岩波新書は毎年、販促用の『解説目録』を発行し、書店で配布しているので、それを集めれば一冊になるだろうと思う人もいるかもしれない。しかし、ことはそう簡単ではない。現在社内にある最古の解説目録は1940年2月に発行されたものだ(1929年にははじめて『岩波書店出版図書目録』が発行されている〔十重田裕一『岩波茂雄 低く暮らし、高く想ふ』ミネルヴァ書房〕)。戦後は現物が確認できるのは1958年4月発行のもので、以降、年2回発行されている。それらに掲載されている本の情報や解説文をまとめ、著者名と書名の索引を付すというのは膨大な作業になるはずだ。実際、企画と準備に5年、製作に1年かかったと聞く。

こうして生まれた『総目録』は、目的に応じてさまざまな情報を引き出すことができるツールであるとともに、これ自体がじつに豊かな読み物だと感じた。「赤版」「青版」「黄版」「新赤版」と変わるごとに、時代状況や読者のニーズを受けて新たな著者が登場し、新たな路線が築かれる。読み終えると、岩波新書とともに80年を駆け抜けたという気さえした。

このエッセイは、『総目録』を読んで気づいたことや、岩波書店や岩波新書に関する文献を参照して判ったことを私なりに報告するものだ。おせっかいかもしれないが、本書を読む際の手がかりになれば幸いだ。


1 創刊の経緯

岩波新書は1938年11月20日に創刊された。発案したのは岩波書店の吉野源三郎と小林勇で、哲学者の三木清(岩波文庫の発刊の辞の執筆者でもある)が企画選定に協力した。「新書」という言葉は、同社の長田幹雄の発案だという(鹿野政直『岩波新書の歴史』岩波新書〔別冊9〕)。

吉野はイギリスで発刊されたペリカン・ブックスを入手し、「各分野の専門家が、素人である読者に向かって、自分の専門に属することをわかり易く語るという、いわば啓蒙的な著作の集まりになっていた」ことに感心する(吉野源三郎「一九三〇年代――岩波新書とペリカン・ブックス」『職業としての編集者』岩波新書)。この双書を読むときに吉野は、「当時私たち日本人を締めつけていた偏狭な国粋主義や狂信的な軍国主義、権威主義」とはまったく異なる「のびのびとした自由な気分」を感じた。片手で持てる大きさ、手ごろな分量、淡青色の紙装も気軽な読書にマッチしていた。

発刊の辞を書いたのは、社主の岩波茂雄。「吾人は非常時に於ける挙国一致国民総動員の現状に少からぬ不安を抱く者である」という文章を、岩波は編集部の目を通さずに印刷に回した。

この新書の表紙を赤一色に決めたのも、岩波だった。装丁を担当した児島喜久雄は当初、赤、青、黄、緑、セピアの五色を提案したが、岩波は「この双書が普及して、電車に乗ると、あの人も赤い本をもっている、この人も赤い本をもっている、と眼につくようにならなければだめなんだ」と云ったという(吉野源三郎「赤版時代――編集者の思い出」岩波書店編集部編『岩波新書の50年』岩波新書)。こののち、岩波新書はリニューアルするごとに表紙の色を変え、それによって「青版」「黄版」「新赤版」と呼ばれるようになる。

ところで、「赤版」という言葉はいつ生まれたのだろうか? 吉野源三郎をはじめとする関係者の回想でも、岩波書店の歴史を語る本でも、創刊当初から「赤版」と呼ばれていたように書かれている。しかし、戦後に「青版」が誕生した際に、それと比較するために「赤版」という呼称が生まれたのであり、戦前には「赤版」と呼ばれてはいなかったのではないかと私は推測する。もっとも、社内では早くから通称として呼ばれていた可能性はある。重箱の隅をつつくようだが、ひとつの言葉が定着する時期を確定するのは意外に重要なことではないだろうか。今後、調べてみたい問題だ。


2 「赤版」の時代 

赤版は1938年11月から1946年10月までに101冊を刊行した(戦争激化により1944年11月から1946年6月までは中断)。

創刊時にはクリスティー著・矢内原忠雄訳『奉天三十年』(上・下)〔赤1・2〕や津田左右吉『支那思想と日本』〔赤3〕、斎藤茂吉『万葉秀歌』(上・下)〔赤5・6〕など20冊が同時刊行された。ただし、〔赤10〕を付された尾崎秀実『現代支那論』や〔赤13〕のJ・ハックスリ『死とは何か その他』は、第1回刊行を予定しながら間に合わなかった。

中国関係が3点あるほか、文学、自然科学、経済学、音楽、人生論とバラエティに富んでいる。意外なのは、里見弴『荊棘の冠』〔赤18〕など日本の現代小説が5点入っていることだ。これは「当時、岩波文庫の文学作品が、古典中心であったため、現代日本の小説を選択して刊行せよとの声があったことへの配慮」だった(中島義勝『岩波新書の歩み 戦時の旧赤版から戦後の青版へ』私家版)。

ヴィットコップ編『ドイツ戦歿学生の手紙』〔赤12〕は、《収集されたドイツ戦歿学生の手紙二万通の中より選択されたものであって、人間真実の声が毎行に浸み出ている》(解説文より、以下同)というもの。同書は、戦争に直面した日本の大学生に大きな影響を与えた。『きけ わだつみのこえ』に収録された戦没学生の手記にも、しばしばこの書名が見られる。同様に天野貞祐の『学生に与ふる書』〔赤45〕も、学生に広く読まれた。

解説文を読んでみよう。たとえば、寺田寅彦『天災と国防』〔赤4〕は《寺田博士が遺した多くの随筆の中からここに抜出された十三篇の文章は、(略)声を大にして叫ぶことはなくとも胸中深く憂国の至情を蔵していた故博士の、隠れた一面を伝える稀なる書であり、また現代日本に与える最も貴重なる警告である》というものだ。収録文のタイトルや具体的な内容説明はほとんどなく、著者の思いを代弁している感じだ。

岩波新書の解説文のトーンや分量は時期によってかなり異なる。

青版で1955年に出たD・マッコンキイ『独占資本の内幕』〔青221〕は《第二次大戦後バクロされた膨大な秘密資料により世界の独占資本の内幕や、そのもうけのからくりを明らかにしたもの。その巧妙なる叙述は恰もモダーンな小説を読むようである。読後あなたは思わず身辺の品々を見廻し、政治の動きをあらためて追及しようとするであろう》という名調子である。その本の魅力を伝えようとする担当編集者の苦心が偲ばれる。字数は、赤版は170字程度だが、青版や黄版は200字まで増え、新赤版ではまた160字程度に落ち着く。

赤版では、メディアへの統制が強まるなか、検閲の網にかからずに刊行するための工夫がなされた。ウェルズ『世界文化史概観』(上・下)〔赤27・28〕の原題は『世界史概観』だが、「人類文化の歴史の本であることを強調した戦時下に於ての一種のカモフラージュ」のため、この題になった。1966年には原題通りで刊行された〔青599・600〕。また、橘樸『中華民国三十年史』〔赤96〕の著者は、じつは松本慎一だった。労働運動で検挙され保釈中だった松本は、生活費を稼ぐため、橘に了承を得て著者名を使わせてもらった。戦後の増刷版の「あとがき」には、松本がその経緯を書いているという(中島義勝『岩波新書の歩み』)。

赤版には、戦後になっても増刷されたタイトルが多い。最新版の目録には20点が掲載されている。現在までのベストセラ―は以下のようになる(編集部調べ)。


  1. 斎藤茂吉『万葉秀歌』(上)112刷・115万部

  2. 吉田洋一『零の発見』〔赤49〕115刷・103万部

  3. 『万葉秀歌』(下)106刷・95万部

  4. 三木清『哲学入門』〔赤23〕94刷・85万部

  5. アインシュタイン、インフェルト著/石原純訳『物理学はいかに創られたか』(上)〔赤50〕100刷・80万部


3 「青版」の時代

青版は、1949年4月から1977年4月までに1000点を刊行。「岩波新書の再出発に際して」と題された文章には、「世界の民主的文化の伝統を継承し、科学的にしてかつ批判的な精神を鍛えあげること」「在来の独善的装飾的教養を洗いおとし、民衆の生活と結びついた新鮮な文化を建設すること」などの課題が挙げられている。執筆要項には「高校卒の学力で読めることを方針とする」とあり、当面5年間有効性のある企画を前提とされたという(「青版新書一〇〇〇点の歩み」『岩波新書の50年』。無署名だが中島義勝の執筆。のち、『岩波新書の歩み』に収録)。

最初に刊行されたのは、大塚金之助『解放思想史の人々』〔青1〕、中谷宇吉郎『科学と社会』〔青4〕など7冊。このうち、『ジャーナリズム』〔青5〕の著者・清水幾太郎は、岩波書店の雑誌『世界』や岩波講座に執筆し、1959年刊の『論文の書き方』〔青341〕は現在までに100刷・152万部というロングセラーとなっている。岩波新書では訳書も含め10冊を刊行した。また、『ファーブル記』〔青7〕の著者・山田吉彦は、きだみのる名義でも『にっぽん部落』〔青623〕を刊行した。

青版では、社会状況の変化や研究の多様化に応じて、さまざまな分野の本が刊行された。青版が550点を超えた時点で、10万部以上売れるタイトルが100点以上あったという(佐藤卓己『物語岩波書店百年史2』岩波書店)。しかし、ここでは名著やロングセラーではなく、むしろ、いまでは忘れられたタイトルを拾っておこう。

1950年代初頭には、李広田『小説 引力』〔青92〕、趙樹理『小説 結婚登記 他四篇』〔青133〕などの現代中国文学が何点か入っている。これには中国文学者の竹内好らが関わっている(「青版新書一〇〇〇点の歩み」)。日本文学では、井伏鱒二『川釣り』〔青103〕のような随筆も出している。ついでながら、西園寺公一『釣魚迷』〔青616〕の解説文には《著者の細心な、または豪快な川釣り、海釣り行脚は世界各地にくりひろげられる》とあり、岩波新書の厳めしいイメージを変えてくれる。

また、安倍能成、志賀直哉他『私の信条』〔青75〕は、『世界』に連載された各界の人物のアンケート回答を一冊にまとめたもの。『続 私の信条』〔青82〕もある。複数の執筆者が共通のテーマについて書く形式はその後も引き継がれ、『私の読書法』〔青397〕、『私の読書』〔黄246〕、『辞書を語る』〔新赤211〕、『本は、これから』〔新赤1280〕などが刊行される。

難産した企画もある。服部之総『明治の政治家たち』(上)〔青31〕が出たのは1959年だが、(下)〔青188〕が出たのは4年後だった。また、高見順の『昭和風俗史』のように企画に挙がりながら、実現しなかったタイトルもあった(「青版新書一〇〇〇点の歩み」)。

1970年3月からの青版には、「岩波新書について」という言葉が付されるようになる。戦後20年、青版開始から750冊という節目に当たって、「この双書の使命を思いかえしつつ、さらにさらに前進をつづけたいと思う」と記した。この背景には読者の変容があったと鹿野政直は指摘する(『岩波新書の歴史』)。また、いわゆる「教養新書」として、1962年に中公新書、1964年に講談社現代新書が創刊されたことで、岩波新書ならではの特色を打ち出す必要を感じたこともあったのではないか。



4 「黄版」の時代

黄版は1977年5月から1987年12月まで396点が刊行された。ただし、〔黄22〕の潮見俊隆『治安維持法』は盗作問題で絶版となり、『総目録』でも欠番となっている(『岩波新書の歴史』)。

黄版に付された「岩波新書新版の発足に際して」には、創刊40年、青版1000点を節目に、多層的、多元的な価値観に応じ、「現代に生きる文字通りの新書」でありたいと宣言する。

黄版では、時代の変化を受けて、山口昌男、中村雄二郎、田中克彦らそれまでの「岩波文化」の流れとは異なる書き手が登場した。「新しい知」への挑戦ともいうべき路線をつくったのが、のちに社長となる大塚信一だった。山口の岩波新書デビューは〔青774〕の『アフリカの神話的世界』だが、「企画を成立させるのは並みたいていのことではなかった」と述べている(大塚信一『理想の出版を求めて 一編集者の回想1963~2003』トランスビュー)。それだけに、〔黄204〕で山口の『文化人類学への招待』を刊行したときの熱が、《学問という形式を使って、知的に遠くへ行きたい人の書》という解説文からも読み取れる。

従来の「教養主義」が解体したことは、岩波新書からの読者離れを引き起こす。そのため黄版では、趣味の分野にまで企画を広げるとともに、椎名誠『活字のサーカス』〔黄389〕を出してイメージを大きく変えた(『岩波新書の歴史』)。

なお、1982年から岩波新書にカバーが付くようになった。岩波文庫も翌年にはそれまでのグラシン紙から紙のカバー装に変わる。これも読者のニーズに応じた改革と云えよう。当時は、岩崎勝海が文庫・新書の編集長を兼ねている(岩崎勝海『編集長二十年 古い机の引き出しの中から』高文研)。


5 「新赤版」の時代

冒頭で書いたように、1988年1月には「新赤版」がスタートする。2019年12月までに1820点と11点の「別冊」が刊行された。

新赤版に付された「岩波新書創刊五十年、新版の発足に際して」には、現代の日本は国際的に発展を遂げながらも、「混迷の度を深めて転換の時代を迎えた」とある。総刊行点数1500点という区切りでもあった。

鹿野政直は新赤版の読者層を、それまでの「進歩的」「知識人」「男性」に加え、「女性を不可欠の成員とする新中間層全体へと、大きく舵を切った」と指摘する。そして、これまでの旗印だった「教養」よりも、「常識」が前に出てきたとする(『岩波新書の歴史』)。

その「常識」派の筆頭が、永六輔の『大往生』〔新赤329〕で現在までの245万部という、岩波新書全体の売り上げ1位を誇る。なお、永は同書のあと、『職人』〔新赤464〕、『芸人』〔新赤528〕、『商人(あきんど)』〔新赤557〕など9点も刊行しており、著作数でもトップクラスだ。

もうひとつ、鹿野が指摘しているのは、21世紀に入ってから「何か」「どう変わったか」「何を見たか」「必要か」などの疑問形の書名(サブタイトルも含む)が増えたということだ。鹿野は「編集部はそれだけ、読者との対話ないし応答の必要性を痛感するようになった」としているが、率直に言えば、これらの書名のつけかたはやや安易で歯切れが悪い感じもする。これには、大塚信一が回想するように、『プラトン』(斎藤忍随)〔青836〕という書名が先にあったから、『プラトンの哲学』(藤沢令夫)〔新赤537〕という書名にせざるを得なかったというような事情もあるだろう(『理想の出版を求めて』)。

書名については、水木しげる『カラー版 妖怪画談』〔新赤238〕以降、「カラー版」を頭につけるタイトルが増えていく。また、「ルポ」「ドキュメント」という角書きがつくようになるのも新赤版の特徴だ。また、青版や黄版に比べると、サブタイトルのある書名が増えている。インパクトのある言葉で、読者に魅力を伝えようとする編集部の苦心が伺える。

『総目録』を読んでいて驚いたのは、東日本大震災の3カ月前に、河田惠昭『津波災害』〔新赤1286〕が出ていることだ(2017年に増補版〔新赤1708〕を刊行)。そして、6月には復興の現場に入る人や作家らが寄稿した内橋克人編『大震災のなかで』〔新赤1312〕を刊行。その後も、山秋真『原発をつくらせない人びと』〔新赤1399〕、徳田雄洋『震災と情報』〔新赤1343〕、添田孝史『東電原発裁判』〔新赤1688〕と、息長く震災・原発関係を出し続けていることには敬服する。


6 著者・編集者の苦闘の履歴

『総目録』に掲載された3400点の岩波新書には、1冊ごとに誕生までのドラマがある。

哲学者の池島重信は、岩波新書についてこう語っている。

「新書以前の岩波書店は、大まかないい方をすれば、良心的で堅実で慎重で、何というか肩のこる感じがあった。(略)新書の出現はそういう性格を包んで、なお自分から進んで手を握るといったような暖か味を加えた。書斎的から客間的になった、というより、書斎的に客間的が加わった感じである」(『岩波新書の歩み』)。

また、経済学者の内田義彦は岩波新書の特色について、「テーマは専門的ながら一般性をもち、文章も平明。専門語は可能なかぎり使われず、使われた場合は一般の読者にも解るように周到な配慮がされている。定価も段ちがいに安い。読者としてはいいことずくめで、こんな近づきやすい本はない」と絶賛する。しかし、書く側に立ってみると、その近づきやすさこそが執筆の重圧を呼ぶのだと嘆くのだ(「苦労ばなし」、『図書』1977年5月号〔岩波新書創刊40年記念号〕)。

医師であり、岩波新書でも多くの本を書いた松田道雄は、桑原武夫らとの座談会「「岩波新書」を語る」(『図書』1977年5月号)で、自然科学関係の中谷宇吉郎『雪』〔赤8〕や宇田道隆『海』〔赤36〕のように「その人が一生かかってやったことを一般の人に伝えたい」「一人の人が一冊しか書けへんという本」にうたれると述べている。

新書を企画する編集者も、著者とともに闘っている。ここまでで紹介した吉野源三郎、中島義勝、岩崎勝海、大塚信一の回想のほかに、小林勇、田村義也、緑川亨、安江良介が回想的な文章を書いている(これだけ多くの編集者が著書を持っている出版社は珍しい)。それらをひもときながら『総目録』を読めば、新たな発見があるだろう。

なお、岩波新書の販促用の目録は最初は刊行順だったが、青版1000点をめどに、1976年7月発行分以降はジャンル別になっている。そして、新赤版が1000点に達した2006年からは20項目のジャンルが採用され、現在に至る。

しかし、『総目録』は刊行順になっているため、ジャンルから調べることができないのはちょっと惜しい。たとえば、今回の新型コロナ・ウイルスの感染拡大を機に、細菌やウイルス関係がどれぐらい出ているかを知りたかった(1998年刊の『岩波新書をよむ』〔別冊5〕の時点では19冊)。


7 過去を未来につなげる

過去の出版物の目録を出す意義は、自社の歴史を記録するためであるとともに、これまでの遺産を未来に活かすきっかけになることだと、私は考えている。

岩波新書は赤版時代のタイトルでも需要に応じて増刷する。それとは別に、時折、「復刊」と銘打って、長年品切れになっている書目を増刷することがある。1988年、創刊50年に際してテーマ別の復刊を行い、翌年以降、「アンコール復刊」を行ってきた。

復刊によって、過去の名著を復活させたり、埋もれていた本を掘り起こせる。読者にとっては、「そんな岩波新書があったのか!」という驚きと新鮮さもある。

昨年10月には、〔赤34〕の本間順治『日本刀』が、オンラインゲームをきっかけに若い女性の間で沸き起こった日本刀ブームを受けて、76年ぶりに増刷。以降、現在までに5回増刷し、その間1万5000部売れた。

また、今年3月にはコロナを受けて、〔黄225〕の村上陽一郎『ペスト大流行』が復刊された。こちらも現在までに5回増刷し、2万2000部売れている。

最後に、『総目録』の解説文を読んで、私が復刊してほしいと思った書目を各期から1冊ずつ選んでみる。

  • 赤版 中谷宇吉郎『雷』〔赤46〕

  • 青版 シムチェンコ著、加藤九祚訳『極北の人たち』〔青844〕

  • 黄版 関山和夫『説教の歴史』〔黄64〕

  • 新赤版 高田宏『日本海繁盛記』〔新赤208〕

解説文だけで面白そうなものばかり。いずれも20年以上増刷していないはずだ。

読者のみなさんも、『総目録』で読んでみたい本を見つけたら、積極的に編集部にリクエストしてはいかがだろう。

また、新刊書店には『総目録』刊行を記念して、さまざまな角度から岩波新書を面白がるフェアを企画してほしい。古書店もこの機に、100円均一の棚にある岩波新書を並べ直してみると、意外な反応があるかもしれない。

岩波新書は創刊以来80年、知の世界への「出発点」であり、ときどき立ち返るべき「原点」である。今後もそうあることを願う。

***

南陀楼綾繁(なんだろう あやしげ)

1967年、島根県出雲市生まれ。ライター・編集者。「不忍ブックストリート」の代表として各地のブックイベントに関わる。著書に『一箱古本市の歩きかた』(光文社新書 2009)、『ほんほん本の旅あるき』(産業編集センター 2015)、『町を歩いて本のなかへ』(原書房 2017)、『本好き女子のお悩み相談室』(ちくま文庫 2018)、『蒐める人』(皓星社 2018)ほか。8月下旬に共著『本のリストの本』(創元社)が刊行予定。

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