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  • 執筆者の写真岩波新書編集部

在野に学問あり 第3回 逆卷しとね

記事執筆:山本ぽてと


この連載は、在野で学問に関わる人々を応援するものだ。


第1回は荒木優太さん、第2回は吉川浩満さん・山本貴光さんにお話をうかがった。両者とも学問に触れる場として、勉強会や読書会に参加することを勧めていた。でもそれって、東京だけの文化なんじゃないの? 地方の人はいったいどうしたらいいんだろう。沖縄の片田舎で育った私はそう思った。


そんなとき聞いたのが「文芸共和国の会」の噂だ。福岡・広島・山口を中心にして、「専門知と専門知、アカデミアと市井をつなぐ会」を開催しているという。


その内容は、ユニークで豪華だ。シンポジウムでは、「印象」「記憶」「災害」「技術と人間の協働」「性とモノ」など、各回にひとつのテーマが設けられ、文学、宗教、哲学、人類学、演劇、科学論などさまざまな専門家が登壇し議論しあう。読書会では、ダナ・ハラウェイ『猿と女とサイボーグ』や、ジュディス・バトラー『アセンブリ』の翻訳者を招く。参加費は無料で、入退場は自由だ。


主催者は福岡在住の逆卷しとねさんだ。逆卷さんは参加者の心構えについてこう書いている。


偉い先生のお話を拝聴しにくる、という態度は巌に慎んでください。壇上にいようとフロアにいようと、参加者それぞれが考える主体です。年齢も性別も地位も関係なく、専門家の発表をとっかかりとして一緒に議論しながら考えるための場です。もちろん、発言しない自由はあります。強制はしません。しかしそれでも、自分も考える主体であるという点だけは忘れないでください。
予習をしてもいいし、しなくてもいい。会が終わったあと、関心を持ったところから学び始めてもいい。みなさんが今回の会に参加することで、なにかを考え、学び始めるきっかけになったとすれば、これ以上の僥倖はありません。
(2017-06-24第6回文芸共和国の会@広島開催のお知らせhttp://republicofletters.hatenadiary.jp/entry/2017/06/24/021517


(謎の多い逆卷さんのTwitter。どんな人なのだろうか)

そんな逆卷さんが上京しているとの噂を聞き、大塚の居酒屋で開かれた飲み会に参加した。お会いするまで女性だと思っていたが、ハットをかぶり、サングラスをかけている男性、それが逆卷さんだった。端の席でニコニコと話を聞いているが、ただものではない雰囲気がある。


在野研究というテーマでインタビューをしたい旨をお話しすると、なんと翌日にお話をうかがえることになった。逆卷さんは携帯電話を持っていないので、当日参加する予定だという「森崎和江研究会」の会場で集合しようと告げられた。誠に不勉強ながら私は森崎和江を一冊も読んだことがない(というか、それまでお名前も存じ上げなかった)。なにがなんだかわからないまま、私も朝9時から夕方5時まで森崎和江研究会に参加することになった。インタビューは、研究会のお昼休憩のあいだに行われた。


(逆卷しとね 学術運動家、野良研究者。異分野遭遇/市民参加型学術イベント「文芸共和国の会」など、数々のトークイベント・読書会を企画、運営している。専門はダナ・ハラウェイと共生論・コレクティヴ。「喰って喰らわれて消化不良のままの「わたしたち」――ダナ・ハラウェイと共生の思想」『たぐい vol.1』(亜紀書房)そのほか『現代思想』2019年3月号、『ユリイカ』2018年5月号、2月号、『アーギュメンツ#3』などに寄稿。撮影:iPhone)

◇「質疑応答」ではなく「対話」

――お忙しい中ありがとうございます。


いえいえ。


――逆卷さんのご専門はなんですか。


もともとは、英米文学の研究をしていました。いまは生物学や科学技術論からフェミニズムを展開してきた思想家のダナ・ハラウェイに関心があります。ダナ・ハラウェイは文系や理系の区別を無関係に研究していますので、思想を理解するために、生態学や生物学も少しずつ勉強しているところです。もっと勉強して、文芸共和国の会でも文系と理系が同じ舞台に立って議論できるような場にしていきたいですね。


――文芸共和国の会は本当にユニークな取り組みですよね。


最初は地方で誰でも気軽に行ける学術イベントをつくろうと思ったんです。でもやっているうちに、もっと異種格闘技戦みたいなもの、それも素人・玄人の別なく、講演者と聴衆の区分けなどなく、有象無象の「誰や君」状態をつくりたいな、と思うようになりました。というのも、大学院生時代、学会に参加していても物足りなさを感じていたんです。


――物足りなさ?


まずは異分野同士の交流がない。英米文学では、哲学や歴史学の手法を取り入れます。しかしその分野の専門家からの視点がないまま展開していますし、人文学の知は哲学や歴史学以外にもありますよね。


それに学会発表は送り手と受け手がはっきり区分けされている。プレゼンする人がいて、それに対して質問をして、プレゼンした側がそれに応える責任を持つのが主流です。そうすると「今日は面白い話を聞いてきたぞ」と受け手の側が知識を得て帰るだけになることもある。


それでは、発表者の問題意識の中にその人が巻き込まれているとは言えない。フロアの側が発表者の問題意識も引き受けて考えていかないとダメなんです。そのためには「質疑応答」の時間ではなく、「対話」の時間をつくる。フロアの側は質問がなくても、自分の考えたことを発表していいことにしています。


―― 一般的なイベントの場では、「質疑応答」の時間で質問をせずに、自分の考えを発表する人が批判されますよね。文芸共和国の会の場合、それを推奨していると。


ぼくは一切コントロールしません。仮に面白くない感じになっても、ぼくのせいじゃないし、君たちのせいだぞ、と投げっぱなしでやっています。実際、そんなに有意義な感じにはなりません。


――ならないんですね(笑)。


はい。それでいいと思っています。イベントそのものが充実していたら、そこで完結してしまって、人は学ばない。本当に有意義にしたかったら、問題設定を厳密にしたらいいんですよ。それも大事な方法ですが、文芸共和国の会では、学術的な思考に身体的に参加することが重要だと思っています。会で考えたことを家にもって帰って、登壇者の本を読んでもいいし、他の学びが芽生えてもいい。


――すごく開かれた感じがしますね。


ぼくはもともと完璧主義なんですよ。大学院で論文を書いていたころは、一字一句こだわって、ものすごく消耗するような書き方をしていました。第一回に登場した荒木優太さんが「教壇には立ちたくない」と言ってましたけど、ぼくも同じ。教える側に立つと、自分の理想を押し付けるようになると思う。パワーを持ったらパワハラするタイプだと自覚しています(笑)。


だからこそ、文芸共和国の会は真逆の方向で運営しているんです。できるだけ、いいかげんにする。自分に対するセラピーのようなところもある。「開かれた感じがする」というのもコントロールしていないからだと思います。


(逆卷しとねさん、撮影:iPhone)

◇自分が楽しいこと、自分にとって意味があること


――セラピーですか。文芸共和国の会に至るまでの、逆卷さんの経歴をうかがってもいいですか。


1978年に東京で生まれます。6歳のころに両親が離婚して、母の実家がある宮崎に移住します。古墳群がある田舎です。とにかく家を出たくて、北九州の大学に進みました。


英米文学に興味を持ったのは、当時付き合っていた彼女がアメリカ文学のゼミに入っていたからです。思えばぼくは、流される人生を送ってきたなと思います。大学院に進んだのも、先生が大学院の存在を教えてくれたからで……悪魔のささやきですよね(笑)。


それで広島大学の大学院に入ります。最初はキャサリン・マンスフィールドやヴァージニア・ウルフといったモダニズム期のイギリス文学を研究して、トニ・モリスンに出会い半年でアメリカ文学に転向します。自分の中では最悪の出来だった修士論文ですが、先生の勧めで原形をとどめないほど改稿したうえで学会誌に投稿したら採用されました。


博士課程に進んでから、論文を発表したり、シンポジウムに出たりして研究を続けていたんですけど、なんのために研究していくのか、だんだんわからなくなっていきました。研究が好きだからやっているんですけど、論文を書けども書けども、誰が読んでいるのかわからない。


学会の会員でさえも、読むのは自分の関心のあるところだけ。英米文学の分野では、日本語の文献を無視する人もいるわけで、そう考えて行くと、日本語で書くことの意味もよくわからなくなっていった。


周りは大学に就職したり、教職の免許を取って高校や中学の先生になったりしていきました。非常勤や就職の話もあったけれども、ぼくは教師になることが想像できなかった。


だんだん病んでいって、本が読めなくなっていきました。幻覚に近いものも見えるようになったし、お店で店員さんに話しかけられても、10秒たたないと気づけなかった。認知機能が明らかに衰えていた。病院にいって、薬をもらって……。よく思い出せない空白の時間が、7年くらいあります。


論文を書くのはやめてゴロゴロして、アメリカ文学だけではなく、哲学や世界の文学を読み漁っているうちに、だんだんよくなって、人と会えるようになってきました。それで学会に行こうと思うんですが、最初は行くだけでパニックになって、会場に入れないことが続いて、近くのホテルには居るんだけど、学会そのものには行けない。でも少しずつ学会の会場に入れるようになって、発表をひとつ聞けるようになって……と段階を踏んでいきましたね。リハビリみたいなものです。


そうやっているうちに2015年あたりから文芸共和国の会の構想について大学院時代の先輩に話せるようになってきて、2016年の2月に九州工業大学で第一回を開催します。


文芸共和国の会は、人と会うのが苦手で、本当なら家でゴロゴロと本を読んでおきたい人間が、ショック療法的に世の中に出ていき、社会と関わるための手段だったんです。すごく個人的なもので、ボランティアでも社会のためでもない。ぼくが楽しいこと、ぼくにとって意味のあることをやっていると、たまたま他の人たちも面白がってくれているという感じです。


(文芸共和国の会のフライヤー。2018年は、広島、福岡、鹿児島で開催された)

◇登壇者はTwitterで突撃!?


――ここから、具体的な話についてうかがいます。逆卷さんはTwitterで積極的に発信しているイメージだったのですが、スマートフォン、というか携帯電話自体を持っていないんですよね。


持っていません。使っているのは主にパソコンです。


――「文芸共和国の会」のフライヤーなどはご自身でつくられているんですか?


基本的には自作です。MS-Wordのポテンシャルを最大限に引き出して(笑)、つくっています。


――Wordでフライヤーつくれるんですね。


配布については、会が行われる現地の方にお願いします。会場の確保をはじめとする各種手続きも現地の方にお願いしています。


たとえば鹿児島でおこなう場合は、鹿児島大学の方、広島でしたら広島近隣の大学関係者の方と連携しています。場が異なれば協力してくださる方は異なりますが、継続的にサポートしてくださる方が大半です。やはり、ひとりではできません。


――そうした人脈はどうやって作り上げたのでしょうか。


最初は大学院時代の仲間にお願いしました。彼らがいなかったらこういう発想は具体化していませんからひたすら感謝あるのみですね。あとは出会いを重ねていくだけです。登壇者はツイッターから突撃するのが基本です。


学者さんを会に呼ぶために、Twitterは非常によいツールです。Twitterを介してお誘いした方に断られたことは基本的にありません。その研究者の研究に関心があって、してほしい話があれば、Twitterで繋がって、そこからお願いすることは簡単にできます。


――とはいえ、そもそもの繋がりをつくるのが難しい気がします。


そこは勇気をもって突撃ですよ。強い関心さえ相手に伝われば、無視されることはありません。ぼくも薄い繋がりでしかないですよ。濃い絆のようなものは一切つくっていません。文芸共和国の会でも毎回メンバーが違います。アソシエーションではなく出会いの場なので。


文芸共和国の会は、予約もないですし、誰が参加するかはわからない。ひょっとしたら、誰も来ないかもしれない。そういう一回性、一過性のイベントです。毎回、テーマも人も異なるし、それがたまたま続いているように見える。全ての会に参加しているのは、ぼくだけだと思います。



◇ノイズの排除と串刺し検索


――逆卷さんは最近『現代思想』や『ユリイカ』にも寄稿されていますよね。執筆や本を読むための、場所や時間は決めていますか。


決めていません。ルーティンがあるわけではなく、原稿があるときには力尽きるまでやって、寝て、またやる。起き上がりこぼしのような感じです。書いているときは集中していますが、読んでいるときは散漫です。10冊ほど平行して読んでいて、家、喫茶店やファミレス、電車の中、どこでも読みます。


本を読んでいるときも、別の本のことを考えていますし、すぐに飽きてしまう。文体に飽きることもあるので、1章読んだらすぐおなかいっぱいになります。最初から最後まで一冊通して一気に読む経験は少ないですね。


――資料は膨大だと思いますが、どのように整理していますか。


ぼくは整理整頓ができない人間なので、あまり参考にならないかも……。体系的とは言えない状態で、ぐちゃぐちゃに並んでいます。常に混沌としていて、それがぼくの頭の中そのものです。ぐちゃぐちゃの中から、たまたま手に取った本が面白くて、今まで考えてきたことと意外な形で繋がることもあります。


論文を書くときは、自分の周りに論文コーナーの山ができます。でも論文を書き終わったらその山が壊れて、また違う山が生まれるという感じです。


(逆卷さんの本棚 逆卷さんTwitterより)

――資料はどのように集めていますか。


歴史研究者は国会図書館に頼ることもあると思うのですが、ぼくの専門の英米文学の場合はWEB上で読めるものも多いんです。19世紀の文献で版権の切れているものであればWEB上のアーカイブ、たとえば、HathiTrustなどで読めますし、Google Playでは原本をスキャンしたものに無料でアクセスできます。


(画像出典:Google Play)


論文はなるべく無料で手に入れようとします。まずはGoogle Scholarで検索します。おおむね、日本語論文も英語論文もこれで存在の確認はできます。問題はどうやって手に入れるかですね。pdfで公開されている場合はこの段階で手に入ります。それでも手に入らない場合は、研究者が自分の書いた論文を個人的にアップしているサイト「Academia.edu」を使います。

無料で読む手段としてはOpen Access books on JSTORもありますね。手に入らなかったら、最寄りの図書館を通じて複写依頼をするか、雑誌を所蔵している図書館で自ら複写するか、著者に連絡をとって論文を送ってもらうとか、いろんな手段があります。


書籍は、オープンアクセスになっているもの(たとえばCornell Openのような大学出版局が公開しているものやOpen Humanities Pressのようにそもそもオープンアクセスの媒体)以外はなるべく買いますね。


基本的には紙の本で買いたいタイプですが、電子書籍も利用します。研究対象にしている場合は、電子書籍で買うことも多いです。著作権の切れているものはWEB上で見られますが、それよりもKindleで手元に持っていた方が使いやすい。版権が切れていると、著作集が数百円で売られていたりするんです。たとえばDelphi complete worksシリーズなどを購入しています。


電子で買うといいのは、検索できる点です。本というよりは、データのような感覚で使います。たとえば、同世代の作家の著作集をそろえ、同じキーワードで検索してみると、実は同じことを考えていたことが見えてくる。

――検索はWEBでも出来ると思うのですが、kindleにするのはなぜですか?


WEB上の検索では、どうしても他人の関心だったり、広告宣伝のたぐいだったりが含まれてしまいます。それが面白い方向にいくこともありますが、研究のときにノイズをできるだけ排除することは重要だと思っています。


他にも、キーワード検索をするときには、Googleブックスに登録されている本の中からそのキーワードがどれだけの頻度で使われているのか可視化できるGoogle Ngram Viewerも使っています。これは翻訳家の高橋さきのさんから教えてもらいました。たとえば、workとjobという似たような言葉があるとしたら、それがどのように使われているのか、西暦1500年~現在まで可視化してくれます。


(画像出典:Google Ngram Viewer)

それだけではなく、この画面の、たとえばworkの列の「1500-1629」をクリックすると、その時代のworkという語を使用した本をgoogle booksがずらりと並べてくれる。実際に例文のかたちで触れることができるし、それぞれの本の中身を確認することもできる。こうやって研究テーマや書こうとしている論文に合わせてコーパスを限定して、自分だけのデータベースをつくることが大切ですね。


データは単独で持っていても仕方がないので、どのように関連付けるか、そしてノイズを排除して使いやすくできるのかがすごく重要だと思っています。


あと、翻訳をするときには、例文が必要です。実際にその単語がどのような使われ方をしているのか、購入済みの電子辞典/事典の例文を複数串刺し検索できるブラウザにEBWIN4があります。これに青空文庫のデータベースである青空WINGをかけ合わせることもできます。高橋さきのさんのこの記事を読むとよいでしょう(高橋さきの「辞書の向こう側:生きた用例と辞書を往き来する」カレントアウェアネス・ポータル)。



◇大学の外にも研究がある


――「在野」という言葉について考えていることはありますか。逆卷さんはご自身のことを「独立研究者」と名乗っていますよね。


ぼく自身は特にこだわりはないです。インディペンデント・スカラー(Independent Scholar)が在野研究者のひとつの名称として海外で流通していて、それが「独立研究者」と訳されているので、そう名乗っているだけです。最近、人類学者の奥野克巳さんと出会ったのが縁で、「野良研究者」と名乗るようになりました(詳細は『たぐい』にて)。


名称についてはおいておくとしても、これからは在野研究が重要になると思っています。大学がかつてのような力を持つことはなく、良くても現状維持でしょう。それでも大学の人たちはキュウキュウとしていて、教育と研究に力を割くことができず、もろもろの雑用に力を奪われている状況です。その中で、大学に所属してそこで給料を得て研究をしている人たちとは別の存在の仕方として、在野研究者があると思います。


今は、大学が沈んでいくこと=研究が沈んでいくこと、になっていますが、大学の外に研究があれば、そうはならない。アーティストのほとんどがアートで飯を食っているわけではない。研究も同じように、研究で飯を食う必要はなくなっていくのかもしれません。大学でも大学でなくても、選択肢が広がっていく方が感性も豊かに広がっていくし、生き残っていく可能性があるとも思います。


(在野については『現代思想』2019年3月号に掲載した檄文「卒業は実在しない――学び続けるパートナーたちのために」と、明石書店から近刊予定の論集に寄せたエッセーで詳しく執筆している。)

――逆卷さんは、生活の糧をどこから得ているのですか?


妻です。妻が大学の先生をしています。ぼくが博士課程の時に結婚をしました。

――主夫をされている?


世間的にはそう説明しています。でもそう一般化はできないですけどね。最初からうまくすっきり行っているわけではなく、いろんな戦いがあって、長い時間をかけて、今の態勢に落ち着いています。お互いがお互いのことを知るのに10年以上かかりました。


たぶん二人ともフルタイムで教員をしていたら、すごく殺気立っていたんじゃないかな。うまくやっている人も知っていますけど、自分たちはできないなと思った。自分たちにとってベストなやり方を考えていって、今の形になりました。ぼくにも人の話を聞く余裕ができたし、研究の相談や論文を見たり、資料収集の手伝いをしたりそういうサポートもできますし。


――パートナーの方も研究者だからこそ、逆卷さんの活動に理解があるのでしょうか。


ぼくのやっていることは、研究者でも理解できない人が多いと思うんです。「大学に所属すればいいじゃん」と思う人が大半でしょうし。だからまあ向こうの度量が広いのだと思います。


――応援してくれるんですね。


いや、放っておいてくれる、っていうのが正しいかも。


◇「貧しさ」から生まれた発想


――地方から東京に出てきた身としては、文芸共和国の会の噂を聞いて、東京や大阪だけでなく、地方にも文化があるんだと新鮮に感じました。


じゃあ、東京に文化があるんですかね。ぼくがやっていることはきっと、東京でもやられていないことだと思います。もちろん交通の面を考えると東京や関西でやるのが、一番効率はいいですよ。


ぼくは対面の重要性をすごく考えています。学会の中には原稿を読み上げて、質疑応答をするだけの場所も多くて、それのなにが面白いんだと思っていました。Skypeやメールで簡単につながれる時代に、対面の重要性が欠けている。同窓会的に再会する場所になっていて、学問的な新鮮さや斬新さがどんどん薄れている。


それに大学院生はお金がないし、出張費も出ないので、学会に行けません。そうすると、やたら年齢層が高くて活気のない学会になり、いつの間にか院生は研究をやめている。


だから文芸共和国の会では、ストリーミングでは代替できないことをやりたい。学会の場に自分が参加している感覚を味わえる場をつくらないと意味がない。ストリーミングで流す気はなく、東京の人も参加したいなら福岡まで来てほしい。


勉強するだけならひとりで論文や本を読んでおけばいい。でもわざわざ読書会を開いたり、学会を開催したりするのはなぜか。わざわざ「会」を開くのであれば、オンライン授業やYouTubeにアップされている講演の動画では経験できないこと、情報を得る以上のものがあることをやるべきだと思うんですよ。身体的な出会いで生まれることはなにか、常に考えています。


――「東京でもやられていないこと」とのことですが、一方で逆卷さんは福岡だけではなく、広島や山口、鹿児島でも会を開催していますよね。「地方」であることに強い思いがあると感じているのですが、地方だからこそ、できることはあると思いますか。


地方だからできることか……。特にないんじゃないかな。でも目立ちやすいとは思います。東京であれば学会やイベントが乱立していますけど、ぼくの住んでいるところでは、学術的なイベントがほとんどないので。特に誰でも無料で来ていいよというオープンな学術イベントは、まあ地方にはないですよね。オープンですよ、と謳っていてもハードルが高い。


ぼくが異種格闘技戦みたいな文芸共和国の会にしたのは、たぶん、消費されないものをつくりたかったのかな、と思うんです。そういうことは、出版文化のお膝元であり、大学や文化施設が潤沢にある東京では思いつかないのではないのかな、と。なんでも与えてくれる人たちがちゃんといるので、待っていればいい。


地方はやっぱり、出版社もほとんどないですし、書店の数も少ないし、学者の数も少ない。大学どうしの距離もわりと離れているので、ぽつんぽつんという感じなんです。だからといって、地方都市に書店の数を増やして、ハコモノをがんがんつくって、大学をもっと増やせばいい、とはなりませんよね。そもそも需要自体がありませんから。


大学生はそこそこいても、院生はほとんどいない。学術書をもっとも読む主体である院生は、東京や関西に行く。だから需要をつくるのが先になる。そして供給できる人も限られているわけだから、需給両方賄える人を増やさないと。東京だったらありがたいお話を聞く立場に置かれている人が、ただの消費者じゃなくて、自ら生み出し面白いものにとびつく学術のアクターになるしかない。


学術イベントをつくるというのは、待っているだけでは与えられない、地方の貧しさから生まれた発想ですよ。消費したいけど消費する対象がそもそもないという貧しさ。でも東京の真似はそもそもできない。だから東京にないものをつくるしかない。貧しさから生まれた発想は消費されないんじゃないですかね。そういうものこそが、真に豊かなんじゃないかな、と思います。


(撮影:iPhone)

〈逆卷しとねの研究術〉

  • 既存の学会に納得いかなければ、自分で学術イベントを主催する。

  • イベントに呼びたい人が見つかったら、Twitterから依頼をする。

  • ノイズを排除したデータを自分でつくって、串刺し的に活用する。

  • 自分が楽しいこと、自分にとって意味のあることをやる。


◇追記


言われるがまま参加した「森崎和江研究会」だったが、そのテキストは面白く、今年の目標は「森崎和江の本をたくさん読む」になった。そして気が付けば、会の打ち上げにも参加し、なぜか2次会の店の予約までしていた(!)。結果的に、身体的に学問の場に参加する楽しさを実感することになった。逆卷さんの意図にまんまと巻き込まれたのかもしれない。森崎和江研究会のみなさん、本当にありがとうございました。



●記事執筆

山本ぽてと(やまもと ぽてと)

1991年沖縄県生まれ。早稲田大学卒業後、株式会社シノドスに入社。退社後、フリーライターとして活動中。企画・構成に飯田泰之『経済学講義』(ちくま新書)など。


*連載「在野に学問あり」

第1回 荒木優太

第3回 逆卷しとね

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