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執筆者の写真岩波新書編集部

「在野に学問あり」特別編 韓国文学翻訳者・舘野晳

この連載は在野で学問にかかわる人々を応援するものだ。


インターネットの発達で、誰でも簡単に情報にアクセスでき、発信できる時代である。そのことを前提として、本連載では在野で研究や学問にかかわる方たちに、研究のノウハウを聞いてきた。ただ疑問に思ってきたことがある。気軽に情報にアクセスできないそれ以前の時代、どのような学問とのかかわり方をしてきたのだろうか。


2019年10月、ある出会いがあった。韓国文学を翻訳する出版社で書店でもあるクオン/チェッコリが企画する「文学で旅する韓国 - 大邱(テグ)編」に参加した時のことだ。このツアー参加者20名ほどの懇親会を兼ねた夕食の席で、ある男性が隣に座った。


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その男性が、ずっとみんなから「先生」と呼ばれていたので、ビールをついでもらっている隙に、「どうして、先生って呼ばれているんですか」と聞いてみた。


「ここでは、みんなよりも先に生まれているからですよ!」


と、その方は笑いながら言い、ちょっと自慢めくんだけどと断り、東京都庁に勤めながら韓国の出版状況の紹介、文献翻訳の仕事などをやってきたと教えてくれた。素晴らしい在野研究者だったのだ!


今は定年退職して、ますます翻訳や執筆に励んでいるという。「定年後の方が忙しくなりましたね」と楽しそうだった。



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今回の「在野に学問あり」では、ここで「先生」と呼ばれていた、翻訳者の舘野晳(たての・あきら)さんにお話を聞いた。舘野さんは1935年生まれ、現在87歳になる。


日本に韓国の情報がほとんど入ってこない1970年代初頭から韓国を訪ねるようになり、言葉を学び、執筆や翻訳で韓国の出版に関する情報を日本に紹介してきた。公職勤務時代から、今までに編集・執筆・翻訳をした韓国関係の書籍はなんと50点に達するという。1989年からは雑誌『出版ニュース』(2020年に休刊)に毎月「海外出版ニュース・韓国」欄を、30年間担当した。一度も穴を空けたことはなかったと言う。これらの仕事が認められて、韓国の文化観光部(省)から2001年に「出版文化功労賞」を贈られた初めての日本人でもある。


舘野晳(たての・あきら)

◇満州で生まれて


――「在野に学問あり」という企画で、在野で学問や研究にかかわっている方にお話をうかがっています。


私のやっていることが、研究や学問の範囲に入るのでしょうか。でも在野であることは確かでしょうね。


頑張ったとか、努力しましたねとか、一生懸命やったとかその類の言葉がよく使用されます。けれども、そうした言葉や脈絡で、私のやってきたことを理解しようとするのは的外れです。


私はこれまで「これをやろう」と思い立ち、目標を定めて、それに向かって懸命に努力してきたというのとは違うんです。うまく時流に乗ったわけでもないし、それなりに苦労はしていますが、目の前の課題に取り組んでいたらこういう結果になっただけの話です。そういう環境の中で育ちましたから。


翻訳の仕事だって、今はやろうと思えば勉強する場はたくさんありますが、かつては自習するしかなかった。朝鮮語を教えてくれるところは限られていた。訪ね歩いて、やっと見つけて、こちらが食らいついたというか。


――まず舘野先生の生い立ちからお聞きしたいのですが。


まず、その「先生」というのは止めてください(笑)。


――分かりました(笑)。舘野さんは、中国の大連のお生まれなんですよね。


そうそう。私は中国の大連で1935年に生まれました。父が満鉄で働いていたんです。その後、父親の転勤で河北省北戴河に移り、現地で敗戦の日を迎えました。しかし、その年の10月に親父が病気で亡くなり、収容所暮らしを100日ほど体験してから、12月に母と弟妹4人で天津港から佐世保へ辿り着きました。そして身につけた荷物だけを持ち、母親の郷里の山形県庄内に、引き揚げてきた。


親父が中国で死んだので、母は苦労しましたし、私も中学を卒業するとすぐに働きはじめました。鶴岡市の町工場で働きながら、工業高校の夜間部に4年間通った。そんな事情があったため、十分な基礎教育を受ける機会は乏しかった。いわゆる世間的な常識とか、基礎的な学力の面では足りないと自覚することがありますからね。だからもっといろいろと勉強したいという欲求を、強く持っていました。


高校を卒業して上京するのが1955年3月、東京でも昼は工場で働いて、1年後に法政大学経済学部(2部)に通いはじめました。奨学金はもらえなかったので、学費や生活費などすべて自力で。1958年頃からは中国事情を知りたくて日中友好協会という民間団体に出入りするようになります。大学のサークルも中国研究会に入りました。その頃は朝鮮/韓国よりも中国に関心を持っていたんです。


もともと生まれ育った場所なので中国に馴染みがありますし、エドガー・スノー(Edgar Snow)やアグネス・スメドレー(Agnes Smedley)などアメリカのジャーナリストが描いた、中国の革命から新国家建設に至るルポルタージュを読んでかなり感化されました。


「新しい国ができるんだ! あの中国でとんでもないことが起きている!」とね。1949年10月1日の新中国建国からそれほど経過していない時期だったのですが、当時の日本ではその状況について詳しく報道されてはいなかった。日中友好協会やサークルの中国研究会に行けば、さまざまな情報も得られるし、資料に触れる機会もあって、非常にありがたかったんです。


1960年3月に大学を卒業し、東京都庁に就職しました。でも、まだ中国については知りたいことがありましたし、日中の国交回復が急務だと考えて、日中友好協会の支部活動は続けました。当時、生身の中国とは、横浜中華街の在日中国人と交流する程度で、中国人はそれほど身近な存在ではなかったのですが、熱心に「中国」に入れあげていました。


そして1966年に文化大革命が起こります。旧来の権威支配システムを破壊し新たな秩序を打ち立てようとした。その影響で日中友好協会においても、文革支持派と反対派に割れました。今になって考えると浅はかな判断だったと思うのですが、私は文革支持派になりました。それから日本人同士で激しく相手を批判するようになり、武力を用いた衝突もありました(善隣学生会館事件/1967年3月)。


そんな事件もあったりして、文革も終末を迎えつつあった1977年、私にも中国に行く機会が訪れます。それまで散々「文革によって旧来の仕組みが変わり、新しい中国人が生まれた」と聞かされてきた。だから興味津々、期待を抱いて訪中したのですが、実際に行ってみると、私が幼少期に体験した中国社会と中国人の暮らしは、ほとんど変わっていなかった。


イデオロギーで生活や思考は大きくは変わりはしない。今思うとそれは当然なことですが、当時の私はかなりショックを受けました。その前から「なんでも壊せばいい」というのはどう同意しがたいと思っていたこともあって、日中友好協会などの活動から離れるようになり、そちらには足を向けなくなりました。中国に行ったための皮肉な結果になったわけです。


若き日の舘野さん

――そんな中、韓国に興味を持ったきっかけは?


中国に入れあげていた時期と少し重なるのですが、1968年に都庁の仕事の関係で韓国を訪ねました。


ここで今まで抱いていた韓国のイメージがすっかり変わった。今の人は想像ができないかもしれませんが、当時の日本では多くの人が、北朝鮮を理想的な国、社会主義の優等生と理解していました。メディア報道も、北朝鮮は金日成主席の指導のもとに朝鮮戦争の戦禍から急速に回復し良い生活をしているというもの。


一方で韓国については、独裁政権で国民は食うにも困るような貧しい生活を強いられていると報じていた。北を良く見せるために、南を貶めるのが当時の日本のマスコミの常套手段でした。今では真逆になりましたけどね。


しかし実際に韓国に行ってみると、どうも報道されている姿とは違っている。確かに貧しけれど人々は懸命に生きている。庶民の活力と秘められたエネルギーに圧倒さました。加えて韓国で出会った人のすべてが魅力的でした。たまたま都庁の先輩職員に、「女学校時代に教わった韓国人の先生がソウルにいるので訪ねてみたら」と、高校教師である朴恩玉先生を紹介されました。とっても面倒見のいい方で、いろんなところを案内したり、たくさんの知り合いを紹介してくださいました。


皆さん私よりも10歳くらい年上で、植民地時代の教育を受けていた方たちでした。日本に留学された方もいて、文学や教育関係者がほとんど。アルコールも良く飲んで、いっぱい話を聞いて、それが面白かった。それで韓国と韓国語を本格的に勉強しなければと思うようになりました。


それ以降、毎年のように韓国を訪ねています。通算すると200回くらいになるかな。ほとんどが自費旅行です。自費だから、自分の行きたいところに勝手に行けるし、会いたい人を訪ねて話を聞くこともできる。


――人に惹かれて入っていったところがあるんですね。


人の縁ですね。当時はまだ韓国から日本には自由に来られなかったので、あちらから来日する際の身元保証人になったり、注文リストをもらって必要な本を買い求めて送ったりもしました。



ソウルの酒場で、文芸評論家の姜凡牛氏(右端)と日本の友人

◇朝鮮語に辿り着く


――そこから韓国の本を訳すようになるまで、どのような経緯があったのでしょうか。語学の勉強をはじめたのはいつ頃からですか?


1968年に韓国に行ってからですね。私は韓国語が全然できなかったから、これはダメだなと思ってね。いつまでも日本語で喋っているのは限界がある。相手にも失礼にあたる。言葉ができなくても、バスに乗って旅行はできるかもしれない。でもそれでは認識が広がらない。もっと韓国のさまざまな人たちと話をしたい、旅行の幅を広げたいと思ったんです。


勉強をしたかったけれど、その頃の日本では朝鮮語を教えてくれるところがほとんどなかった。やっと探して辿り着いたのが、当時お茶の水にあった「日本朝鮮研究所」です。一般向けに朝鮮語の公開講座をしているのを見つけたんです。1970年頃だったでしょうか。


――日本朝鮮研究所とはどのような場所だったのでしょうか。


1961年に設立された民間団体で、1965年の日韓条約批准の反対運動にも前向きに取り組んでいました。そこでは日本人の立場で朝鮮研究をすることが重視されていた。というのも、戦前の朝鮮研究は言語にせよ経済研究にせよ、みんな植民地支配の道具だったからで、それへの反省が基礎にありました。


戦後になっても、植民地時代の差別意識が残っていたこともあって、「朝鮮研究は日本人がやるものではない」という考えが強かった。そうした風潮への反省があっから、日本人の立場を強調していたのだと思います。日本朝鮮研究所については『検証 日朝関係60年史』(和田春樹、高崎修司編著、明石書店)を読んでください。


――どのような授業だったんですか?


学校みたいに緻密に教えるわけではない。1週間に1回か2回、毎回2時間程度でした。私が習ったのは、上甲米太郎さんからです。朝鮮総督府のもとで、公立学校の先生をしていた方でした。そこで身につけた朝鮮語を教えてくれた。


市販の入門書や教材はほとんどない状態だったので、先生お手製のガリ版刷り教材で勉強しました。辞書は養徳社から出ていた『現代朝鮮語辞典』(天理大学朝鮮学科研究室) しか手に入らなかった。あとは簡単な手引きみたいなものしかなくて、学生向けの『朝鮮語四週間』(石原六三、青山秀夫共著、大学書林)というのもありましたね。この講習会には1年ほど通いましたが、それだけではぜんぜん身につかない。


それからしばらくして、朝鮮語文学研究者の安宇植(アン・ウシク)先生に出会って、7、8人の仲間と一緒に学ぶようになります。2週間に1回、蕎麦屋なんかを転々としながら教わって、先生にはだいぶお世話になりました。一時は朝日カルチャーセンターにも通いました。1984年にやっとNHKで「アンニョンハシムニカ・ハングル講座」が始まり、それからはラジオでの勉強が主になりました。


さらに京橋に三中堂書店がオープンします。韓国の出版社が日本に初めて本屋を出したんです。勤務先に近かったので、昼休みによく通いました。そこの支店長として赴任してきた方と親しくなり、たまたま住まいも近かったので、韓国出版の話を聞いたり、不明な韓国語を教わったりしました。よくお酒も飲みに行きましたよ。


――今だと教材もたくさんありますが、当時は教材もほとんどないまま言葉を勉強していったんですね。


確かに。そう思うと、よくやったよね。


――30代から40代にかけて勉強したと。


もちろん役所の仕事もきちんとやっていましたよ。安先生の翻訳の下訳もだいぶやりましたが、これは良い勉強になりました。


――都庁でのお仕事との両立はどうされていたんですか?


私は町工場に9年間働いていた経験があるので、仕事の処理が早いんですよ。自分で言うのもはばかられますが、次の段取りを考えながら働いている。町工場の働き方とデスクワークとはかなり違うんだよね。デスクワークというのは、働く時間を伸ばそうとすればいくらでも伸縮できる。残業代稼ぎにわざと伸ばしているやつもいる(笑)。


でもそんなことは時間の無駄でもあるわけで、私はしなかった。また職場の仲間との付き合いや、酒やマージャンはほとんど断って過ごした。それに今より健康で元気だった。昼休みのランニングで皇居を2周するくらいは平気だったし、登山も野球もサッカーもやっていた。


言葉が身につくようになったのは、現地で恥と汗をかきながら動き回ったからでしょう。個人旅行すると頼る人はいないし、時間も手間もかかるけれど、得るものは大きいように思いますよ。それに親しい友人の存在も大きかった。


――都庁のお仕事でその語学力が生きたことはありましたか?


1985年に世界の大都市の首長が集まって討論する「世界大都市サミット会議」が開かれました。東京都の主催です。参加する世界大都市の首長の世話役を職員から募集することになり、私はソウル市担当に手を挙げました。都庁職員には英独仏語、ロシア語、中国語などができる者ははそれなりにいるのですが、韓国語がある程度できるのは私しかいなかったんです。この会議の縁でソウル市庁の職員と親しくなり、そのうちの数名とはいまも付き合っています。


その時、参加の首長が皇太子(今の上皇)夫妻に表敬する機会があり、ソウル市長付きの私は対面の通訳をしました。「初めまして」「ソウルは近頃どうですか」程度の簡単なやり取りでしたが、周囲の緊張ぶりは面白かったな。まぁ、私は天皇制反対論者なんですけれど(笑)。


その後、1988年のソウルオリンピックを前にして、ソウル市と東京都は友好都市提携をします。私は経済局勤務で担当ではなかったのですが、国際交流部に韓国語が出来る者がいなかったこと、ソウル市庁とのつながりもあったので、だいぶお手伝いをしました。やり取りの文章のアドバイスや、通訳をしたり、あちらから来る職員の世話をしたりですね。締結後はソウル市の職員が派遣されてきて日本の大学で学ぶこともあったので、アパート探しや日本探訪の手伝いをしたりというふうに。当時の知り合いはもうみんな定年退職したようです。


白頭山山頂、中国側。対岸は北朝鮮

◇韓国の出版事情を30年間レポート


――舘野さんがかかわった本は数多くあり、最初の翻訳は、1981年に出ていますね。それまでの日本における韓国/朝鮮の出版事情はどのようなものだったのでしょうか。


在日の朝鮮/韓国人グループとして、北朝鮮系の朝鮮総連と、韓国支持の韓国民団とがありますね。総連は傘下に朝鮮大学校を持っていて、朝鮮大学には専門研究者がいましたから、朝鮮文学の翻訳や紹介についても、その方々が主に担当していました。1945年以降、50年代の早い時期から日本語での翻訳が出ています。


けれども南側の出版物、韓国のものはほとんどやる人がいませんでした。先ほどもいったように、日本における韓国のイメージは、「独裁政権で、国民は食べるにも困るような貧しい生活をしている」といった認識で、紹介に値する作品はないと思われていたのでしょうか。


韓国社会のルポルタージュとしては、1965年に李潤福『ユンボギの日記』(塚本勲訳、太平出版社) が翻訳出版され、話題にもなりますが、これは貧しい少年の苦労話で、ますます貧しい国のイメージを強めることになったように思います。韓国文学に関する情報が決定的に不足していましたし、韓国語を読めて、かつ文学事情にも詳しい日本人研究者はほとんどいませんでした。


1973年に「朝鮮文学の会」の編訳で『現代朝鮮文学選』が刊行され、北と南、双方の文学作品が紹介されます。この「朝鮮文学の会」で翻訳を担当されたのは、翻訳を仕事にしている人々ではなく、普段は学校の教師だったり、会社員だったりと、別の職業を持っていた人たちでした。日本人が朝鮮文学を翻訳し、韓国の現代文学を紹介した意味で画期的な仕事だったと言えるでしょう。機関誌「朝鮮文学」を10号ほど刊行しています。これを契機に韓国の文学作品についても、日本人が相次いで翻訳するようになっていくのです。


それでも原資料が入ってこない。資料集めも大変でした。まだ自由に往来できる状態でもなかった。1987年の民主化以前には韓国国内での出版規制もあったりしたので。


――そうして1989年から韓国の出版事情についてレポートするお仕事もされるようになりますよね。


『出版ニュース』誌の「海外出版レポート・韓国」という見開き2ページの欄ですが、89年から30年やってきました。毎月1回、ちょうど平成の30年間に相当します。それまで韓国の出版事情について紹介してきた人はいなかったようです。


民主化以降もそれ以前も、日韓の出版交流が高まり、とりわけ韓国の出版市場では翻訳された日本書が人気の的になっていたのですが、誰も取り上げて紹介しない。それなら自分で紹介しようと考えました。特に執筆に自信があったわけではないんですが、「私が書きますから、担当させてください!」と『出版ニュース』の編集長に頼み込んだんです。


書くとに決まれば、ネタを集めなければならない。韓国を訪れて、出版関係者や翻訳家、研究者などに会い、出版学会の研究会に出席したり、セミナーや図書館、ブックカフェ、ブックフェア、いろんなところを訪ねました。来日した作家・評論家・研究者へのインタビューもしました。

「ソウルブックフェア」会場にて

◇翻訳、執筆、出版社への紹介


――それと平行しながら、翻訳や執筆をされていたのですね。


そうですね。翻訳や執筆もかなりやったし、日本にも韓国にもお互いにまだ知らない本があるので、そうした本の紹介を心がけました。商業的に売れる本を紹介したこともあります。例えば塩野七生作品を韓国の出版社に紹介したのは私です。『ローマ人の物語』をはじめ主な塩野作品は韓国でヒットしました。たぶん韓国の出版社は(原著者も)かなり儲かったはずです(笑)。


一方で、商業的な価値は乏しくても、大切な本もありますよね。ですから日韓のいずれでも編集者たちと親しくなると、「この本出しませんか?」と売り込みをしてきました。これは特定の版元に頼まれてやったのではありません。相互理解に必要だと、自分が勝手に判断した結果です。


やはり言葉が不十分だと、翻訳本を出す時には内容よりも売れゆきだけで本の価値を判断しがちなので、中身について説明できる人がいないといけない。エージェンシーがありますが、そこも商売なので限界がある。説明しても、分かる人は分かるけど、分からない人には分からないでしょうね。でもこれは仕方がない。


そうして私は翻訳や紹介をしてきて、報酬をもらうと、すぐに旅費、宿泊費、飲み代、資料代に使って消えていく。その繰り返しをしてきたようなものです。


いろいろやってきたから、「これをやったよ」という決定的なものがないような気もしますね。もっと早くから、きちんと範囲を決めて集中的にやってりゃよかった。もう終わったことだから、悔やんでもしょうがないけれど。


――そもそも韓国語翻訳の担い手が少なかったからですか。


そうね。今は翻訳をやりたい人が増えてきましたね。女性の翻訳者も多くなって活躍している。語学留学の経験者も増えました。書店にはたくさんの韓国関係の本が並ぶようになりました。以前は韓国関係の本は出たら必ず入手するように努めていましたが、今では刊行に追いつけないほどです。


小説やエッセイだけではなく、専門の研究書もかなり出るようになりました。研究書だと5000円、7000円にもなるので、高価なものは区立図書館に申請して買ってもらうようにしています。3000円未満なら買うけれど、それ以上になると、公立図書館依存になりますね。近頃は個人の財布では追いつけないほど増えている。


昔は「舘野さんの翻訳したものを読みましたよ」と言われることもありましたが、最近は言われなくなった。それだけジャンルが広がり、沢山のものが翻訳された結果、読む分野が多様化しているんでしょうね。翻訳は韓国側もやるし、日本人もどんどんやっている。この広がり方については隔世の感があります。


――ちなみに大変お忙しかったと思うんですが、家庭の理解は得られていたのですか?


妻は、韓国に行くなとは言わなかったですね。一緒に旅行したことは何度もあります。また妻の知り合いなど10人程度のグループを募ってツアーを企画して案内してきました。中国の朝鮮族自治区にも出かけました。わりに評判は良かったですよ。


――友達も一緒に連れて行ってもらうと、楽しいかもしれないですね。難しい質問かもしれませんが、特に印象に残っているお仕事はありますか?


韓勝憲(ハン・スンホン)弁護士の本を翻訳したことです。『韓国の政治裁判』(サイマル出版会、1997)、『ある弁護士のユーモア』(東方出版、2005)、『分断時代の法廷』(岩波書店、2008)の3冊を訳しました。


韓先生は韓国の軍事独裁政権のもとで、民主化運動をして犠牲になった被告の弁護をし続けたことで知られています。権力に迫害された弱い立場の人たちを懸命に弁護された。「韓先生に弁護士を依頼すると、必ず敗訴する」という悲しむべきジンクスがあったほどです。それほど権力にマークされ厳しい裁判をやってこられた。民主化が進んで、金大中政権では監査院長に就任されました。金大中大統領がノーベル平和賞を受賞した際には、オスロで代理受賞もされています。


2022年にお亡くなりになりましたが、先生には翻訳打ち合わせを口実に、よくソウル明洞の事務所を訪ねました。先生は著作権問題の第一人者でもあったので、出版関係者の知り合いが多く、その縁で韓国の出版関係者を何人も紹介していただきました。


2、3年に一度くらいの頻度で東京に来られていたので、その時は知り合い20名ほどが、韓先生を囲む会を開くのが通例でした。韓先生は植民地時代の日本語を知る最後の世代なんですよ。「私の日本語が下手だったとしたら、日本の植民地教育が行き届かなかったからで、私の日本語が上手だったとしたら、日本の植民地教育が『成功』したからです」と冗談をおっしゃっていました。


洒脱でユーモアとウイットあふれる方でした。囲む会の最後はいつも「昔の日本語」での講話一席がありました。参席者一同、爆笑・苦笑しながら韓先生の日本批判を拝聴したものです。


2001年韓国の文化功労章受賞のお祝いの会。韓勝憲弁護士(右)

◇「やっぱり、面白いんですよね」


――日本には韓国を植民地にしていた歴史もあり、政治的に日韓関係が悪化することもあり、そうした歴史を踏まえながら、舘野さんはどのように韓国とかかわってきたのかお聞きしたいです。


基本的には、日本が過去になにをやってきたか、きちんと勉強してから相手に臨まなければならない。よく「日本人はタクシーに乗せない」「店に入ったら出ていけと言われた」なんて文句言っている人がいるけれど、私自身はそういう経験は一度もないですね。


今の日本の政治や外交政策に対して批判を受けることはしばしばあるけれど、それは私を直接批判しているのではない。日本社会や日本政府を批判しているのです。なぜ批判するのか彼らの真意を率直に理解するように努めるのが手始めでしょうね。それに対して同意と思ったらそう言うし、間違っていると思ったらそう伝える。彼らには彼らなりの信念があります。思い込みもないとは言えませんが、でも一般的に、日本人のほうが遥かに歴史の勉強をしていないと思います。


本当に残念ですけど、民間レベルはともかく国と国との間はなかなかスムーズな関係にはなりにくいのかもしれません。でも韓国の歴史を学び、現況について真面目に知る努力をすれば、どこかで聞いたようなエセ情報を鵜呑みにするのは、恥ずかしいと考えるのが普通じゃないでしょうか。


実はこの間、入院したんですけど、70代くらいの男性患者が大声で、SNSに出ているような陳腐な外国人批判をしているんですよ。みんなが食事を待つ席で。そういう年寄りがいるのは困ったもんだと思いました。


その病院でサポートするスタッフにはベトナムの人もいたし、中国人も、韓国人もいた。患者も病院も外国人労働に支えられている。いい年こいて、そんなこと言うなんて本当に嫌な気持ちになりました。今の70才くらいじゃ、昔のこと知らないのかもしれない。勉強もしてないから、そういう俗っぽい話ばかりを鵜呑みにして、出まかせな発言をしているんでしょう。


――舘野さんがそうならないのは、なぜなんですか。勉強をしているから?


まぁ、そうかもしれない。そうかもしれないけど、そもそも人間一般を信用していないからかな(笑)。いろいろなことを体験してきたので、主観的に軽率に物事を判断してはいけないという、習慣が身についたのかもしれない。引き揚げ体験が大きいかもしれなませんね。


今は「戦争反対」とは言っても、戦争関連の匂いが取り上げられることはなくなりました。けれども私は兵隊の匂いをまだ覚えていますよ。そういう世代なんです。私より5歳年下だったら分からないと思う。汗とね、馬とね、革の匂い、混じりあっているの。兵隊の身体に染みついた匂い。苦力(クーリー、肉体労働者)の匂いはそれよりもっと強烈です。私はその匂いを記憶している最後の世代に属しているんです。


この記憶は意図的にとか、後天的に学んでどうこうというよりは、図らずして身についたものなんですよ。いろんな人間がいて勝手なことを言うのも聞いてきた。戦後の苦しい時代のこともまだはっきり覚えている。それらを自己流で乗り切ってもきた。だから、最初に言ったけれど、努力しろとか、頑張ればいいんだとか、そういうことは言いたくないし、言われたくもない。


――それは、時代によってどうしようもなく大変なことをしてるからですか。


そういうのもあるし、いろんな人間がいて、あれこれ言うのは当たり前だから。うーん、いろんな人がいるんだよ。たまたまそういう時代を生きてきた。そんなに一生懸命にやったという意識があまりないですね。やれと言われてやったことでもないし。もちろん、やらない自由もあったわけだし……。


――翻訳するのが嫌になったことはありますか。


時間との勝負はあります。時間が足りなくてイライラしたこともある。でもベストセラーみたいに、時間を争って出さなきゃいけないものではないから、途中で投げ出すことはありません。いろんなものをやりました。節操がないのかな。なんでもかんでもやった。


――なぜこんなに長く続けることができたと思いますか?


やっぱり面白いんですよね。やってみたいという気持ちがあるから。それにいくら売れなくても、本は2000、3000人には渡るわけでしょう。図書館に入ればもっと。そうすると手紙をもらうこともあるし、読んでくれているのだと思うと嬉しくなる。


あと日本人が歴史的に中国や韓国をどう見てきたか。それはすごく気になるんですよ。『韓国・朝鮮と向き合った36人の日本人』(明石書店)とその続編で合計72名を取り上げて本をつくりました。有名人も無名の人も含めて。結構面白い仕事でしたね。


もし今私がなにか編集するとしたら、中国や韓国に渡った日本女性のことをまとめてみたい。昔は国の方針で、中国人や朝鮮人に嫁いだり、心ならずも移住を強制された日本女性がいたわけですが、それ以降にも、いろんな理由で中国や韓国で暮らした女性たちがいる。そういう人に関する資料を集めたり、まだ存命だったらお話をうかがいたいですね。






●記事執筆者

山本ぽてと(やまもと ぽてと)

1991年、沖縄県生まれ。早稲田大学卒業後、株式会社シノドスに入社。退社後、フリーライターとして活動中。構成を担当した本に『経済学講義』(飯田泰之・ちくま新書)、『憲法問答』(橋下徹、木村草太・徳間書店)、『16歳のデモクラシー』(佐藤優・晶文社)など。「STUDIO VOICE」 vol.415「We all have Art. 次代のアジアへ――明滅する芸術(アーツ)」では韓国文学の特集を担当。B面の岩波新書で「在野に学問あり」を連載中。


*連載「在野に学問あり」

第1回 荒木優太

第3回 逆卷しとね

第4回 辻田真佐憲

第6回 読書猿

第7回 山下ゆ

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