• 岩波新書編集部

在野に学問あり 第2回 山本貴光・吉川浩満

最終更新: 2019年5月3日

記事執筆:山本ぽてと


この連載は、在野で学問に関わる人々を応援するものだ。


インターネットの発達により、誰もが簡単に情報にアクセスでき、発信できる時代になった。さらに働き方が多様になり、退職後の人生も長くなっている。これまでは大学に属していないと難しかった研究が、より身近なものになっていくのではないか。


在野の夜明けが来た!


というわけで、この連載では在野で活躍する人々に、どのような研究ノウハウを持っているのかインタビューをする。「研究」とまではいかずとも、自力で本や論文を読み、学問と関わりたいと思っているすべての人にとって、自分もやってみたいと思えるようなノウハウが聞けるはずだ。


第2回に話を聞いたのは「哲学の劇場」主宰である山本貴光さんと吉川浩満さん。インターネットを使った発信の先駆者だ。


二人は慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの1期生で、大学の共通のゼミで知り合った。卒業後に、山本さんはコーエーでゲーム開発、吉川さんは国書刊行会で営業・編集(のちにヤフーに転職)をしながら、1997年にインターネットサイト「哲学の劇場」をオープンさせる。


Wikipediaもない時代、豊富な作家情報や資料集が掲載された「哲学の劇場」は、人文書の読者・関係者から参照され続けてきた。岩波新書編集部のNさんも「人文系の本を読んで、わからない単語が出てきたら、『哲学の劇場』をチェックしていました」と熱く語っていた。


インターネットを使った発信の先駆者であるだけではなく、山本さんと吉川さんの執筆する範囲は広大だ。山本さんは、プログラム、ゲーム、文学、学術史を、吉川さんは進化論、ロボットと人工知能、脳科学、遺伝子について書いている。また二人での共著と共訳も多数あり、そこでは古代ギリシャ哲学、脳科学のリテラシーについて扱うなど、とにかく多種多様なのだ。


(左から山本さん、吉川さん。撮影:iPhone)

二人とも現在は退職し、他の仕事で生活の糧を得ながら、フリーランスで執筆活動を行っている。インタビューは19時から、新宿の喫茶店で行った。この喫茶店は、吉川さんが仕事帰りによく利用するという。



◇肩書はどうする?


――お二人は、SFCの1期生ですよね。ご卒業は?


吉川 1994年です。


――3年後の97年に「哲学の劇場」がはじまったんですね。


吉川 3年ほど虎の穴で修業して満を持して97年にはじめた、わけではありません(笑)。新入社員で忙しかったこともあるんですけど、94年当時はウェブブラウジング自体が一般的ではなかったんです。


――かなり最先端だったと。


山本 私たちがインターネットを使い始めた1990年ころは、広大な砂漠の中にときどきぽつんと家が建っているみたいな感じでした。商業方面のページもまだなくて、大学か研究機関のサーバーがちょっとある状態です。そこに論文や哲学の古典の電子テキスト――といっても、プレーンテキストなんですけどね――が置いてあって、よく吉川くんと二人で発見しては「おお!」と欣喜雀躍していました(笑)。ただ、通信は電話回線の時代ですから、ひとつのファイルをダウンロードするのに数分かかっていましたね。それをじっと待つんです。


――学生時代にミニコミをつくったりは?


吉川 しませんでしたね。学校に先輩がいて文化的に分厚い環境がある学校だったら同人誌をつくるサークルなんかもあったのかもしれませんが、われわれは1期生だったので。


山本 なんにもなかったね。


吉川 昔ながらのメディアや伝統的なコミュニティには縁遠かったです。でも大学ではUnixマシンが100台ほどインターネットにつながっていて、24時間自由に使える環境でした。


――そんな環境の中から、「哲学の劇場」が生まれてきたんですね。今回お二人に依頼をしたのは、この連載での「研究」の定義を、学会誌に論文を書くことだけではなく、幅広くとらえたいと思ったからです。


吉川 要するに、ふわっとさせたいわけですね。


――ご明察です。


吉川 ありだと思います(笑)。


――お二人は「研究されているんですか?」と聞かれたら、どう答えていますか。


吉川 そう聞かれると、「文筆業です」と答えるようにしています。それは単に話がわかりやすいからです。我々のやっていることも、広い意味では研究の一種であるとは思います。でも、文学や哲学を研究するのは、基本的に大学が正式な場だと思われていますから、それを我々がやっていると言うと、「研究」という言葉を説明しないといけなくなって……。


山本 ややこしいよね。


吉川 そういう過程をごまかして、とりあえず文筆業と自己申告しています。


山本 私も一緒ですね。何を研究していますか? という質問の文脈自体が、多くの場合アカデミアを前提にしているので、吉川くんが言ったような答え方になります。広く言えば研究かもしれませんが、大学の業績になるような形で論文を書いたりするわけではありません。ややこしいので、相手と質問によっては「研究はしていません」「面白いと思うことを調べて書いているだけです」と言ったりしています。


――お二人とも幅広い分野で執筆されていると思うのですが、専門分野ってなんですか? と聞かれたらどうしていますか。


吉川 「ないです」と言っています。でも、それでは許してもらえないときがあるので、「知識や技術と社会、道徳の関係について興味があって、その都度興味があることについて書いています」と答えます。


山本 私も「専門はない」と答えますね。そうね、許されない場合は「学術史です」「デジタルゲームです」「遊戯史です」などと答えます。その場に応じてめんどうが少なそうな答えを選びます。


吉川 われわれに共通するのは、肩書についてあんまり深く考えたくないというスタンスです。でも、肩書は我々の社会生活において大きな意味を持ちますし、そこに様々な思いが込められていることも確かです。また、その人やその人の書くものを同定する強力な指し手の一つになっているのも間違いない。わかりやすい所属先があれば肩書についてあまり考えずに済むんでしょうけれど、今回のように「在野」がテーマだと、意識せざるを得ないポイントだと思います。


(吉川浩満 1972年鳥取県米子市生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。国書刊行会、ヤフーを経て、フリーランス。著書に『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』『理不尽な進化』など多数。休みの日は卓球のコーチをしている 撮影:iPhone)

◇「在野」ってどこ?

――在野だからできる学問とのかかわりかたはあると思いますか。例えば、専門分野の枠を越えた研究ができるとか。


山本 それはおっしゃる通りだと思います。例えば、本を書く場合でも、一冊ごとにまったく違う分野について書いたり、一つの分野に収まらないような場合もあります。プログラムやゲーム、西周の学術論、夏目漱石の文学論、科学の本を書いたりする。吉川くんとよく「馬の骨モンダイ」と呼んでいるのですが、私たちは気ままな犬みたいなものかなと思っています。居場所が特定されていない。だからこそ、ある分野の専門家なら則を弁えて無闇にまたがない境界線を越えてあちこち移動したりもします。


吉川 原理的には、所属があろうとなかろうと、書くものの内容は変わらないはずです。でも実際には、アカデミアのコミュニティに属することには大きな利点がありますよね。研究者どうしで議論をチェックしたり切磋琢磨したりできますから。面倒なこともあるかもしれませんが。


山本 「在野」という言葉を自分では使わないのですが、この言葉については思うことがあります。「在野」とは「野」ではない場所を前提にしていますね。例えば現在なら大学に代表されるような場所が「野」ではない場所です。他方、そのつもりで歴史を眺めてみると、大学以外の場所でもいろいろな形で知的な営みがなされていたことが分かります。


例えば、ルネサンス期の人文主義者たちがいます。11世紀末にヨーロッパで大学ができたと言われていますが、そこではもっぱらお坊さんが神学の議論をしている。それを横目に人文主義者たちは、大学の外で自由に古典古代を研究した。これはいわば在野のひとつのモデルでしょうね。


あるいは17世紀の各種「アカデミー」も、大学に所属する学者というわけでもない好事家たちが、天体を観測したり、職業としては別のことをやりながら顕微鏡を覗き込んだりしていたわけです。楽しみ半分で自然を探究していたようです。


イギリスでは「ロイヤルアカデミー」にニュートンやフックが集い、科学の発見や議論が行われました。現在も続く世界最長寿の学術雑誌『The Philosophical Transactions』もそこから生まれます。そのような場所がイタリアにもフランスにもドイツにもありました。日本にでは、例えば大阪で酒造業を営みながら学芸のサロンのような場を主宰した木村蒹葭堂や、緒方洪庵の適塾のような私塾の活動の例も見られます。また、日本語には「民間学」という言い方がありますが、そういえば岩波新書には鹿野政直の『近代日本の民間学』という本があります。大阪の適塾も商人が行っていました。


このように歴史を見てみると、必ずしも大学に限られない知の在り方はむしろあちこちにあったようです。「在野」とは元来、野外にいることを意味したり、公職につかず民間にあることを指していました。学術や研究について「在野」という言い方がいつ頃からあるのか分かりませんけれど、大学が就職先となって以降のものの見方である可能性もありそうです。


(山本貴光 1971年生まれ。慶應義塾大学環境情報学部卒業。著書に『文体の科学』『「百学連環」を読む』『文学問題(F+f)+』『投壜通信』、共著に『高校生のためのゲームで考える人工知能』(三宅陽一郎と)など多数。座右の銘は「果報は寝て待て」 撮影:iPhone)

――実は第1回目が公開されたあと、「在野」という言葉についてSNSで議論がありました。正直なところ、私はカジュアルに「在野」って言葉がかっこいいなぁ、と思っていた面もあったので、連載の2回目にこのお話について聞けて良かったです。


吉川 これからの連載でも、在野と言う概念について色々と問い直しが進んでいく、今風の言葉で言えば「深堀り」されていくのだと思います。これまで私が「在野」という言葉を自分に対して使わなかったのは、この概念に重い意義を与えるとかえって混乱してしまうように思ったからです。前回の荒木さんの場合には、彼がやっている有島武郎研究は大学の研究者が主流の世界なので、「在野」と言うことに意味があるのでしょう。


山本 そう考えると「在野」という表現については、ひょっとしたら研究者の方が気にしているケースもあるかもしれませんね。在野は「学術的ではない」と線を引かれている感覚があるかもしれない。


吉川 中の人からの線引きですね。専門分化した世の中ですから、なにかを「ちゃんと」しようとすると、専門家集団の中でやらなきゃいけなくなることが多い。あえてそこに属さずになにかをやろうと思ったときに自分を表現するための言葉が「在野」でしょうか。


山本 その人の立場によって、ポジティブにもネガティブにもできます。アカデミーの職を得たいのに得ていない状況もある中で、「在野」は浪人のようなマイナスの状態としてとられることもあるでしょうね。


吉川 在野は肩書がないからイヤだと思うかもしれません。


山本 肩書に価値があると思っている人もいますからね。



◇強制力を調達しよう


――お二人ともとにかく様々な分野に精通されていますが、これは興味の赴くままにやっていった結果なのでしょうか。


山本 むかし柄谷行人さんが、「最近の物書きは編集者の注文に応じて書いているからダメなんだ」というようなことを言っていましたが、私はダメの典型ですね。お題が来たら考える。来たテーマを面白がりさえすればいい。その敷居が私はすごく低いので、よっぽど無関心じゃなければ応える。


――締め切りがないときは、自分の好きな本を読むのですか?


山本 ここしばらくは、なにもしない時間を取れずにいます。かつては読みたい本を楽しみのために読んでいました。その蓄積が10年、20年とあるので、いまになってみれば、たまさかやってくるリクエストに対して、かつて読んできた本から知識を取り出せる。とりたてて目的もなく、ただ面白いと思ってやってきたことが、最近は役立ってしまっているという感じです。西周の「百学連環」も、漱石の『文学論』も、よく分からないけど気になるから読み続けていただけで、それについて本を書くことになろうとは思っていませんでした。


吉川 これについてはひとこと言っておきたい。山本くんは外から見ると、編集者の注文に応えているように見えますが、そもそも誰のためでも何のためでもないものを、10年20年と続けられるような人なんです。そういう人は非常に少ない。そういう人は心配ないんですよ。


これは若干ひがみも含むんですけど、私は山本くんのように頼まれてもいないことを持続的にやってきたことがあまりない気がしています。現象面では同じように編集から頼まれた仕事をやっているわけだけど。私の場合には、原稿依頼のような強制力がないと本当にゼロになってしまうかもしれない。将来に対する唯ぼんやりした不安を感じることがあります。


在野研究者には「トンデモ」になる危険性があると荒木さんも言っていましたよね。なんだか寄る辺がなくなったときに、急いで藁をつかんでトンデモなところに行くかもしれない。

頼まれてもいないのに興味があって調べたり考えたりするようなテーマや方法があれば幸せでしょうけれど、そうでなければ、強制力をどう調達するのかは、在野でやるうえで重要な問題だと思います。


「続けていられないのは、好きじゃないからだ」と格言風にいうこともできますよ。半分は正しいのですが、それは本当に辞めてしまってから言えばいいと思う。もし「こうなりたい自分」のイメージがあって、それが研究である場合には、持続できるような強制力や環境をメンテナンスしていくことが大事です。


山本 縛りがあってこそ、なにかが出来るのは創作でもそうですね。ゲームをつくる場合も、「自由につくって」というよりも「将棋をさらに発展させたゲームをつくりましょう」というほうが発想がわきやすい。


吉川 そうそう。そうやって、研究が思うようにいかないときには、自分の環境が適切にメンテナンスされているかどうか、なるべく具体的なところを見ていくのがいいと思う。「そもそも在野とは……」とか「続かないのは……」とか、あんまり原理的なことへは行かないほうがいい。


山本 具体的であれというのはとても大事ですよね。あまり抽象的に行きすぎてもハマりこんでしまいますから。


吉川 「俺が抽象的なことを言い出したら、ここ(眉間)を狙ってくれ」って友達とかに言っといたほうがいいですよ。


山本 なにと戦ってるのよ(笑)。



◇デジタルか、アナログか?


――では、ここから具体的なことを聞いていきたいと思うのですが、お二人は膨大な資料を、どう管理されていますか。


吉川 私は数年前からなるべくデジタルにしていますね。家中を占拠していた本をほとんど自炊(書籍や雑誌を電子書籍化すること)してPDFにしています。新しく本屋で買った本もすぐ自炊します。自宅のMacとハードディスクとクラウドとiPadを同期して、1万数千点をこのiPadで見られるようにしています。なるべく少ない荷物にしたいんです。その代わり、しょうがないと思ってお金はかける。必要な本から電子化していきます。


(吉川さんが愛用するiPad)

メモなどはGoogleキープや、Evernoteに系統的にタグをつけて管理する。車や電車の中で思いついたことがあれば、iPhoneやiPadの音声入力でメモを取ることもあります。


――山本さんも膨大な資料があると思うんですが、置く場所はどうされているんですか。


山本 置く場所はもはやありません(笑)。数年前にも限界がきて、その際は古本屋さんに半分くらい持って行ってもらいました。そのあとは、吉川くんがいま言ったやり方がいいなと思って、1万冊くらい電子化しています。


でも基本は物理的に棚に置く方がメインです。例えば仕事机の正面には岩波文庫とちくま学芸文庫が並んで、右側にはソクラテス以前からプラトン全集、アリストテレス全集と哲学の歴史を追って並ぶ。ここには数学、そちらにはプログラム関連、という具合で本屋さんと同じように、空間でマップをつくるのが好みです。というとあたかもスマートに収まっているような印象を与えてしまうかもしれませんが、実際のところ書棚以外は混沌の渦。魔窟です。平積みというには少々高すぎる「書塔」が玄関から奥までずっと……最近はベッドの上まで浸食して、本と一緒に寝ています。いけません。



(山本さんの本棚の一部。6月9日Twitterより「私は魔女のキキです。こっちは岩波文庫のアカ。」と投稿)

また、吉川くんは必要な本を電子化すると言っていましたが、私はどちらかというと1回読んでみて、すぐには再読しなくてよさそうだと思った本を電子化しています。むしろ何度も読み返しそうな本は電子化しないで紙で持っておくか、電子化する場合でももう一冊買ったりしています。効率は悪いかもしれません。


真っ先に電子化したのは新書のコレクションです。新書はかなりの場所をとっていたので、軒並み電子化しました。多くのものは再読しない可能性があるとは思いつつ……。


吉川 でもその一回が大事だからなぁ。


山本 そうなんだよね。私は資料を全部Dropboxに入れていて、そこから見られるようにしています。論文は電子で読めるものも多いので、CiNiiJ-STAGEを活用しています。辞書を使いたいときはジャパンナレッジを利用していますQuestiaのような英語の本が定額で読み放題のサービスもあって、それも登録しています。


でも電子で読んでいるとまどろっこしくなって、結局は紀伊國屋書店とかで本を注文しちゃうんですよ(笑)。そう考えると、電子版を活用している吉川くんはニュータイプだよね。


吉川 本当のニュータイプかどうかは怪しいですよ。多くの人は、私と同じように、中身はオールドタイプのままだけれども、無理やり電子で読んでいて、結果的にろくでもないことになっている可能性もある。古い人間にとって、電子には「深く読めない」ところがあります。それでも紙と同じだけ読み込めていると勘違いしているかもしれない。それは危険だなと思います。


山本 私の場合は、論文にしても本にしても、マルジナリア(本の余白に書き込むこと)をしながら読みます。コンピュータでも書き込みできなくはないのですが、やはり違いますよね。私にとってこの装置(iPad)は、随分便利になったといっても、インターフェイスがまだストレスフルなのです。その不如意な感じよりは、紙に書くほうがしっくりくる。といっても、コンピュータの読字環境がよくなれば解決するかもしれません。


吉川 そこは悩ましいですよ。私も昔は山本くんのように資料に書き込んでいたのに、今は全然書き込まなくなりました。機械に合わせているんです。


山本 そういうことだよね。道具に自分を合わせるか、自分に合わせて道具を変えるか。


吉川 「人それぞれだよ」と言うのは簡単ですけど、それによって得る物と失う物を考えた方がいい。私はけっこう失うものが大きいと感じているのですが、もう引っ込みがつかない(笑)。機械が良くなれば……と思いながら、何十年も経っています。


テクノロジーは思いにすぐさま応えてくれるわけではありません。山本くんのように自分中心に考えて、自分の都合のいいことが出来るようになったら、取り入れていくのがまともなやり方だと思います。でもなかなか、そうはできない人がいるんですよ。新しい技術が生まれたら、すべてを捨ててそこに走ってしまうタイプ。私です。


山本 それ自体が楽しかったりやる気を生んだりするから、悪いことではないんでしょうけどね。


(吉川さんの書斎の様子は、2017年5月発売『atプラス』32号(太田出版)にて見ることができる。愛犬・マルティナと散歩しているグラビアもある)

◇「スーパーマンみたい」


――お二人とも文筆業のほかにお仕事をしていますが、その仕事についてはどのように選びましたか?


吉川 まずは食えるだけの金額。そしてあまりやりがいを感じず、終わったらすぐに切り替えられること。私の場合は贅沢で――といっても、世の中を見ればもっと贅沢な奴がたくさんいるので、ささやかだと思うんですけど――長時間勤務でなく、残業がない、かつ、どっと疲れない仕事。いまは編集事務の仕事をしています。


若い頃のように、工事現場で資材を運んだり、出版社の業務スタッフとして取次に本を運んだり、営業として書店や図書館を回ったり……大変立派な仕事ですけど、疲れすぎてこの年ではしんどい。だから頭脳的にも肉体的にも、仕事以外の時間が生きるような仕事を考えています。


山本 私も吉川くんと同じで、生活の基盤があって時間どおりに終わる仕事を選んでいます。会社員だったころは、休日もなく、終電で帰るような状態が何か月も続いたりすることもままありました。いまは朝10時にいって19時には帰れる。やることはちゃんとやるんだけど、あまり無理をしすぎない環境は大事だと思います。


吉川 私の場合は、昼はかなり冴えない人間です。じゃあ夜は冴えわたっているのかと問われても困りますが。理想としては昼も夜も冴えているのがいいかもしれませんが、乏しい認知リソースの配分の結果として、昼に冴えすぎて朝や夜に疲れてしまうという場合には、昼の冴えを少し抑えなきゃいけない。


問題は、その冴えない昼の自分を受け入れられるのかということ。私はけっこう受け入れやすいほうだと思うんですけど、プライドが高い人は難しいかもしれません。そう言いながらも、あまりに冴えないと私も落ち込むんですよ。仕事でミスしたり……。でも1年くらい前かな、山本くんと打ち合わせしたときに、「昼の仕事がめちゃくちゃ冴えなくて、でも夜は3本原稿書かないといけなくて……」と弱音を吐いたら、「スーパーマンみたいじゃん」と言われて。そうか! と。そういうふうに思えば、プライドが高い人でも、自分を保持しやすくなるんじゃないかな。


――本を読んだり原稿を書いたりする時間や場所は決めていますか?


山本 私は一週間、曜日によって仕事の時間割がまちまちです。いまは火曜と木曜に六本木にあるモブキャストゲームスというゲーム会社に行っていて、それ以外は空いています。そういう日に打ち合わせや対談を入れます。


外出する日は、移動中にiPadで仕事をしています。立っていても座っていても、読み書きができるのは便利です。それ以外は、家で仕事机に向かってやっています。だいたい午前3時から4時ころまでやってから寝て、8時、9時に起きるという感じです。


吉川 私は基本的に9時から5時まで働いているので、書く時間や読む時間は自動的に決まっていきます。原稿の締め切りがある場合は出来る限り早起きして、理想は3時間、実際は2時間確保しています。


――じゃあ、朝の5時くらいに起きているんですか?


吉川 そうです。いわゆるCEO起床です。


山本 かっこいいなぁ(笑)。


吉川 どれだけ昼の仕事をさぼったとしても、夜は絶対に疲れます。だから本を読んだり、映画を見るのは夜。最高出力を出さなきゃいけないことはなるべく朝にしています。書くのは外が多いですね。家には犬とか妻がいるので、なるべく外。職場の近くの喫茶店でやっています。


山本 会社勤めの人は吉川君のように、出勤前に1時間、帰り道に1時間喫茶店に入るといった、習慣化された行動とセットにして取り組むのはいいよね。私は以前、「入浴時と寝る前は自分の好きな本を読む時間」にしていて、それ以外は仕事の本を読むことにしていました。今は入浴中も仕事の本を読んでいるんですけどね。


――けっきょくずっと読んでいるんですね。


吉川 ちょっとインチキ臭いことを言いますが、「人はやる気によってなにかをするのではなく、やりはじめることでやる気がでる」という心理学の実験結果があるそうです。そしてルーティン化することによって、気分が乗らない時でもできるようになる。乗っているときにできるのは当然ですけれど、乗らないときにもできるようにするためには、ルーティン化するのはいいアイデアです。


山本 ローリングストーンズのドラマーのチャーリー・ワッツが言っていたんだけど、自宅で仕事をするときも、外に出るのと同じように、顔を洗ってひげを剃って着替えをする。そうすると仕事をする意識になると。それを読んで以来、私も家にいる日でも、外出するのと同じように着替えて仕事をするようになりました。それ以来、自宅でも仕事ができるようになった。これに限らず作家は、人によって執筆に向かう際にいろんな儀式を持っていたようですね。鉛筆を3本削るとか、お茶を入れるとか。そういう習慣づけをしていくのはいいかもしれません。


吉川 自由を過信しすぎないことです!


◇サードプレイスをつくろう


――共著や共訳も多いですが、最初からお二人でやっていきたいと思っていたのでしょうか。


吉川 サイモン&ガーファンクルみたいに、「俺ら二人でやっていこう」とか言ったわけではないんですよね。サイモン&ガーファンクルがどうだったか知らないで言ってますが。そういう形ではなく、成り行きですね。


でも二人で書くと、行き詰まったときに便利ですね。糸口を見つけやすいし、思い切ったテーマでも気が楽になります。


山本 こういうときよく思い出すのですが、ドゥルーズとガタリが『哲学とは何か』で「哲学には友が必要だ」と言っていましたね。ものを考えるには、話し相手が必要です。ただ、そうはいっても読んだ本の話をしようにも、聞いてくれる人は得難いし、なかなか見つからないかもしれません。

(共訳した『先史学者プラトン 紀元前一万年―五千年の神話と考古学』(朝日出版社)のメアリー・セットガストも在野の研究者だ)

吉川 実際に共著を出したりしなくても、興味をもったことについて話せる友達がいるだけでいいと思います。アカデミアにはそういうネットワークがあるけれど、在野の場合には自分でつくらないといけないことも多い。最近流行の読書会もいいと思います。


――前回の荒木優太さんも読書会や勉強会をおススメしていました。


山本 サードプレイスをつくるようなイメージですかね。家庭がファーストプレイス、職場や学校がセカンドプレイスだとしたら、それ以外の第三の場所をつくって時々赴いて、誰かと会ってしゃべる。これは正気を保つためにも大事ですね。


吉川 特定の研究をしたいと思っている人なら、サードプレイスと自分の研究が少しでもリンクするといいですよね。カラオケサークルやボウリングサークルもいいけれど、研究の話ができる集まりも必要でしょうね。とりあえずのおすすめは読書会で、猫町倶楽部(日本最大級の読書会)にあれだけの動員があるのは、サードプレイスを求めている人が多いことの証だと思います。そこから、より特定の興味関心に沿ったサードプレイスを自分でつくっていってもいい。


山本 以前、ブックデザイナーの中垣信夫さんが主宰するミームデザイン学校での授業で読書会を紹介したら、「やり方を知りたい」という学生がいたのでおつきあいしています。三、四か月に一度くらいのゆっくりしたペースですが、毎回違う本を選んでやっています。


あるとき参加者の一人が「会社では話す機会がないようなことも、読書会では自由に話せる」と言っていたのが印象に残っています。サードプレイスはそういう効果もありますね。今はそういう場もつくりやすいですよね。猫町倶楽部のような場所に行ってもいいし、自分でつくってもいい。


――サードプレイスはSNSではなく、その場に行くことが大事なのでしょうか。


山本 その場に行くことはけっこう大事です。


吉川 個人差はあると思いますが、SNSはあまり強制力がありません。人って弱い生き物なので、強制力が必要なのです。読書会に行くと本を読まなきゃいけないと強制されますし、目の前に話を聞いてくれる人がいるわけですから、何か言わなきゃいけない。リアルな場所に行くというのは、多くの人にとってのソリューションでしょうね。



◇「ここはガンダーラではない」


――最後に、お二人の最近の関心を教えてください。


吉川 最近『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』(河出書房新社)という本を出しました。いまの興味関心は、サイエンスやテクノロジーが我々の社会やものの考え方にどう関係するのかというところにあります。新刊では認知科学と進化論、つまり脳と遺伝子について書きました。我々は脳と遺伝子が大好きな時代に生きています。そういう社会の人間像ってどうなるんだろうということを、それこそ在野っぽく、学問的な成果と社会風俗の中間で考えました。


山本 近刊の『投壜通信』(本の雑誌社)は、この10数年の間に様々な雑誌に書いた文章を、編集者が選んでまとめた本です。吉川くんの本のようにテーマがあるわけではなく、とっちらかっているかもしれません。『考える人』(新潮社)のような雑誌で特集テーマについてのブックガイドを頼まれることが多かったので、「歩く」「数学」「ドリトル先生」など、様々なテーマで書きました。


本を使いながら世界をマッピングし、必ずしも専門家ではない読者に向けて、なにがしかの知を手渡す仕事です。学術論文ともまた違って、インターフェイスに気を使わないと読んでもらえません。それまでそのテーマに興味がなかった読者でも、たまたま雑誌でそうしたブックガイドを目にして、「なんだか面白そう」「どれ、1冊読んでみようかな」という気持ちそそると言いましょうか。


ちなみに『投壜通信』には、7月1日から7月31日までに買った本の記録を書いたのですが、計算したら238冊でした……。


――おそろしい。


吉川 いま山本くんがいった「インターフェイス」というのは、「なにやっているんですか?」と聞かれて、オシャレに説明するときに私も使います。


考え方や作法を共有していない人に向けてものを書くときは、インターフェイスのデザインが重要です。極端なことを言えば、インターフェイスさえうまくできれば、もっともっと先に行くことができる。我々の提示したインターフェイスを通じて、どんどん先に行ってほしい。我々の書くものは知識の終着点ではなく出発点であると。知識そのものは既知のものばかりでも、インターフェイスのデザイン如何で興味をもってもらえることもあります。この点、既知の蓄積に未知の貢献を加えるという通常の論文とは少し違いますね。


山本 ここはガンダーラではない。ここに行けばなにかがあるわけではなく、ここを通過していくと、その先を自分で探求したくなるようなゲートのようなものかもね。


吉川 正直なところ、新しい知見がなくてもいい場合もある。もうわかっていることに、あらためて注目したほうがいいという場合もありますから。


――「哲学の劇場」の更新は、2017年に止まっていますが、再始動の可能性はありますか?


山本・吉川 ……(笑)。


山本 やりたいとは思っているんですけどね、なかなか手が回りませんね。


吉川 老後にまたやってもいいんじゃないかな。シンギュラリティが起こって、本に意味がなくなっているかもしれない。そういった無意味な書物の情報を、哲学の劇場で取り上げていくとか。


山本 そうね、老後があったら、バンド再結成みたいな感じでやりたいね。


吉川 ABBAだって再結成したからね。




〈山本貴光・吉川浩満の研究術〉

  • 「続けられないのは好きじゃないからだ」などと抽象的なことを言わず、続けるための方法を具体的に考える。

  • 本を置くスペースは有限であるため、目的に合わせて自炊も検討する。

  • やる気が出るのを待たず、ルーティン化して執筆時間を確保する。

  • 「哲学には友が必要」、家庭と仕事場以外のサードプレイスをつくる。


●記事執筆

山本ぽてと(やまもと ぽてと)

1991年沖縄県生まれ。早稲田大学卒業後、株式会社シノドスに入社。退社後、フリーライターとして活動中。企画・構成に飯田泰之『経済学講義』(ちくま新書)など。


*連載「在野に学問あり」

第0回 「はじめに」に代えて父への手紙

第1回 荒木優太

第2回 山本貴光・吉川浩満

B面の岩波新書

2018年1月19日 配信開始

発行人 永沼浩一

発行元 岩波新書編集部

〒101-8002 東京都千代田区一ツ橋2-5-5

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