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  • 執筆者の写真岩波新書編集部

在野に学問あり 第1回 荒木優太

記事執筆:山本ぽてと


高価で分厚く重い専門書の読書を支えるには、高いリテラシーと読書に割ける一定の暇と腰が痛くならない椅子が必要だ。しかし、それを手に入れられない者たちには研究にアクセスする資格がないのだろうか。私は断じて否だと思う。通勤しながら、労働しながら、夜風呂に入りながら、それでも可能な研究の形が存在しないと、一体誰が決めたのだろうか。(荒木優太「在野研究の仕方――「しか(た)ない」?」より2013年、マガジン航)

この連載は、在野で学問に関わる人々を応援するものだ。


インターネットの発達により、誰もが簡単に情報にアクセスでき、発信できる時代になった。さらに働き方が多様になり、退職後の人生も長くなっている。これまでは大学に属していないと難しかった研究が、より身近なものになっていくのではないか。


在野の夜明けが来た!


というわけで、この連載では在野で活躍する人々に、どのような研究ノウハウを持っているのかインタビューをする。「研究」とまではいかずとも、自力で本や論文を読み、学問と関わりたいと思っているすべての人にとって、自分もやってみたいと思えるようなノウハウが聞けるはずだ。


さて、在野研究者にインタビューをする企画をするならば、まず話を通さなければいけない人がいる。16人の在野研究者の人生と研究を描いた『これからのエリック・ホッファーのために』(東京書籍、以下『これエリ』)著者で、自身も在野研究者として活動する荒木優太さんだ。



荒木優太さんは1987年東京生まれ。明治大学文学部文学科日本文学専攻博士前期課程を修了後、在野研究者の道へ進む。2011年から論考を電子書籍で販売しはじめ、2013年には『小林多喜二と埴谷雄高』を自費出版する。


そして2017年には、在野研究者たちの人生と研究を描いた『これエリ』を発表し話題に。自費出版を再出版した『貧しい出版者』(フィルムアート社)、そして最新刊『仮説的偶然文学論』(月曜社)も絶賛発売中だ。また論文YouTuberとして「新書よりも論文を読め」と題した、論文解説動画を配信している。


在野研究者について書いた文章の先輩であるのと同時に、電子書籍やYouTubeを活用する荒木さんは、まさに新しい時代の在野研究者と言えるだろう。


『これエリ』の著者近影を見ると、坊主頭に横顔の写真で怖そうだったので、インタビューの際には、近所で一番高いモナカを持参した。ミスをしたときに取引先に持って行くタイプの菓子折りだ。予想に反して「みなさんでモナカを食べましょうよ」と言う荒木さんは、優しそうであった。


よかった、と安心していた矢先、同席していた岩波新書編集部のNさんが、「荒木さんは『新書よりも論文を読め』というタイトルでYouTubeをされていますが……」と先制パンチを繰り出した。油断ならない。


(取材した神保町のカフェの前で。iPhoneで撮影)

◇ディテールこそがアイデンティティ


――荒木さんの活動は多岐にわたりますが、「なにを研究していますか?」と聞かれたらどうこたえていますか。


第一に、有島武郎の研究をしていると答えます。有島はずいぶん蓄積のある研究対象で、私と同い歳の研究会があり、事典も出ている。けっこうやりつくされた感じはあります。


とはいえ、人々はテクストそれ自体を実は精読しておらず、ある種のイメージで文学を読んでいるのではないかと私は思っています。テクストのディテールをそぎ落とすと、理解が一面的になってしまう。細部に注目することによって、全体のイメージも換わり、新しい像ができるはずで、それは今日のグローバル社会において大きな示唆を持っていると思うんです。


――細部からグローバル社会ですか?


はい。いま有島武郎における地理学をテーマに研究しています。有島の小説、たとえば『生れ出づる悩み』や『或る女』には〈地球の上に生まれた人間〉というマクロな視点での語りが出てきます。有島はアメリカの大学で「日本文明の発展」という修士論文を提出しています。これは日本の文明が自然環境の制約のもとでどのように発展したのかを地理学的教養のなかで記述したものです。


そういうふうに振り返ってみると〈地球の上に生まれた人間〉という語りの視点が、その教養の中で出てくることがわかります。人間は電車や飛行機などの交通手段によって地理的境界という障害物を克服し、グローバル化はますますその傾向に拍車をかけているように見えますが、依然として私たちを決定づけている(ように感じてしまう)風土の力がある。有島文学はグローバルとローカルの衝突に関する稀有な報告として読み替えることができると思うのです。


また最新刊の『仮説的偶然文学論』(月曜社)では国木田独歩や中河与一などを扱っているのですが、そこでもディテールに注目しました。そうすると独歩の書いていることが哲学という営みと極めて深いところで結びついていることがわかります。


『号外』や『牛肉と馬鈴薯』では驚きたい願望、驚異願望について書かれています。実はプラトン、ソクラテス、アリストテレスといった、ギリシアの哲学者も驚異(タウマゼイン)の話をしている。驚異から愛知=哲学が始まる、と。そういった視角から、新しい独歩の読み方を試みてみました。


小さいものと大きいものは対立しているのではなく、小さいものは直ちに大きいものと繋がっているのではないでしょうか。昔の人は「神は細部に宿る」と言いました。神がいるかどうかは知りませんが、本当に個性的であろうとするには、ディテールを読むしかない。私らしさがあるとしたらそういうところでしょう。


また私の資質とは別に、様々な資料を集めて歴史の全体を俯瞰するような研究よりも、テクストを何度も読むことに重きを置く研究方法の方が在野研究向きだった、ということもあると思います。やはり資料を膨大に集めてストックしておくのは、在野研究者にとって様々な限界がありますからね。


◇資料の整理はどうしてる?


――とはいえ、資料は膨大になると思いますが、資料はどのように集めていますか。


図書館で集めています。私が属していた大学では、卒業すると「校友」の資格を得られて、大学の図書館で本を借りられるんです。私の場合は6冊を2週間借りることができます。大学にない本は国会図書館でコピーしています。他の在野研究者仲間には、大学の聴講生になり、その大学図書館を使っている人もいますね。


――聴講生制度という手があるんですね。国会図書館は検索機能が充実していますよね。コピーが多いということですが、買う本と買わない本はどう分けているんですか。


買う本は図書館にない本です。最近はプラグマティズムという思想の日本的受容に興味を持っていて、日本ではじめて訳されたデューイ『民主主義と教育』(『民本主義の教育』田制佐重訳、隆文館図書株式会社、1918年)が大学図書館にも、国会図書館にもなく、古本屋で探して高値でしたが買いました。一日の稼ぎが飛んじゃいましたね……。私の稼ぎが大したことないんじゃないかという話でもありますけど。


手に入らない本を探すときは手っ取り早いので「古本ドットコム」を活用しています。古本屋で散策するのも、本との出会いという点では重要ですけど、目的性がはっきりしているならば、インターネットがやっぱり便利ですね。


――資料の保管はどうしていますか。


国会図書館に行くと、コピーしたものを入れるビニール袋がもらえますよね。私は面倒なのであのビニールに〇月〇日とメモをして、そのまま部屋に積み重ねています。一日に様々な資料をコピーするのですが、テーマごとに分類するよりも日付の記憶のほうが私にとって確実で、ひとつの文献を思い出すと、あれもコピーしたな芋づる式に思い出す。バラバラな資料がビニールによって区分されていますね。


――では荒木さんの部屋はビニールに入った資料が積みあがっている。


そうですね。ある程度たまったら、それをスキャンしてPDFにして、パソコン上で管理しています。PDFは検索できるのがいいですよね。


――紙の資料は思い切って捨てられるタイプですか。


捨てられる方だと思います。物書きにはめずらしく、モノに対して執着のない方なんです。というのも、私は電子書籍からスタートしたという自負が大きい。物として結実していようが、WEBに浮かんでいようが、いいものはいいに決まっているだろうという感覚があります。


(荒木さんの部屋の本棚 撮影:荒木優太)

◇論文のメモはTwitterで


――研究する時間はどのように確保していますか。


私は清掃のパート労働をしていて、朝の4時半に起きて11時には帰ってくるような生活をしています。そこから研究したり、ものを書いたり、本を読んだりします。清掃は研究と全く関係のない作業であるのが、よいですね。賃労働中に頭を使うとか、無駄にコミュニケーションが多いとか、そうなると午後に疲れが残ってしまう感じがするのですが、単に肉体労働なのがいいです。


――研究とは直接関係のない仕事をしているんですね。いつもするルーティンなどはありますか。


あんまり関係ないかもしれませんが、最近は犬の散歩によく行っています。体重が全然落ちなくて、デブ犬になってきているので、減らさなきゃいけないんです。と、こういうどうでもいいこととは別に、どういうメカニズムかはわかりませんが、身体を動かすことで、けっこう執筆アイディアが浮かぶんですよね。清掃の機械的作業をしながらでも、色々と思いつきます。


――仕事の場所は一か所でやっていますか? それとも喫茶店などを転々とするタイプでしょうか。


一か所でやります。午前中は肉体労働なので、移動してあまり疲れたくないです。あと、持っているノートパソコンがポンコツで、内臓バッテリーが電池の用をなしておらず、電源のコードを抜いて起動できないということもあります。持ち出して仕事ができないという、ショボい理由です。もしかしてMacBookなんかを持っていると、するするとカフェなどにいける人間になるかもしれません。


――YouTuberをしているからといって、最新の機械を使っているわけではないんですね。思いついたことはメモなど取っていますか?


Twitterをメモ代わりにしているので、ほとんど紙のメモは取りません。自分のTwitterを見ながら、再度編集しなおしたりして、文章を書いていますね。本来の使い方ではないかもしれませんが、私にとっては有意義なメディアになっています。


(読んだ本の引用や、思いついたことのメモなどをしている)


――メモのついでに発信ができ、ファンが増えるから一石二鳥ですね。


私のTwitterを面白いと思ってくれる人がはたしてどれほどいるのかわかりませんが……多少なりともアピールにはなってるでしょうか。私はネクラと言いますか、コミュニケーション下手なところがあるので、ネット上で知らない人とお話するのはどうかなと思っていたのですが、140字くらいだとそこまで重いものにならず継続できてますね。私の投稿をきっかけに読書会やイベントに来たり、本を買ってくださる方もいるようですし。



◇論文YouTuberと、生れ出づる悩み


(論文YouTuberの様子。新書よりも論文を読め107 荒木優太「うるわしきリベラリズム」よりキャプチャー)

――論文YouTuberの活動をはじめたのはなぜですか。


物書きとしていろんなお仕事をいただくようになりましたが、別に俺って物書きになりたかったわけじゃないよなと思いまして。研究みたいな尖ったものが、一般の人に届くそのありそうもなさが私にとってワンダーなんです。そういう出会いを増やしたくて『これエリ』や他の本を書いたというのもあります。


『小林多喜二と埴谷雄高』という自費出版で出した本でも書いているのですが、多喜二は自分たちのテクストを読者に届けるために様々な努力を惜しみませんでした。たとえば、短くて読みやすい壁小説ですとか、大衆雑誌『キング』にこそ作家は書くことを目指すべきだというメディア意識ですとか。もし多喜二が今の時代に生きていたら、YouTubeを使って本の宣伝をしていたかもしれない、と思ったんですよ。


YouTubeで私のおしゃべりを見て、この論文が面白そうだと思ったサラリーマンや主婦や学生が、普段とは違うものを読んでみる経験があると、知の世界はもっと豊かになっていくと思うのです。


それにいまはオープンアクセスによって大学の論文がずいぶん手に入りやすくなりました。論文は貧乏に優しいんですよ。さらに論文はテクストそれ自体よりも、それに付随した参考文献を見るだけで勉強になるお得なものです。自分が見知らぬ領域で学ぼうと思ったら、論文をいくつか読んでみて、重複している書名や論点を見つけ出し、優先的に読むようにしています。


――「新書よりも論文を読め」は、ほとんど編集されていない素朴な一人語りですが、10分弱の短い動画で気軽に見れます。荒木さんが短い時間で伝えようとするのは、お仕事もしながら研究をしている在野研究者ならではなのでしょうか。


在野研究者というよりも、私個人の時間感覚に由来しているんじゃないでしょうか。私は、長生きできないんじゃないかと思っているんですよ。つまり、そのうち死ぬんじゃないかと思っていて、死ぬまでにアウトプットしておこうと思うと、悠長にやってられないな、と感じてしまう。


だから、私の執筆ペースはすごく早い。これって学者の世界だとバカにされるようなことです。つまり、思慮を深めずに、「しょせんウケ狙いだな」というふうに。そういう批判もわかるんですが、私に残されている時間もいつまで続くかわからないので、出せるものは出しておきたい、と。在野だから、働かなきゃいけないというのもあるんですけどね。


(これまで刊行した本。自費出版『小林多喜二と埴谷雄高』はしばしば12万円以上で取引されている 撮影:荒木優太)

――そのうち死ぬ、というのは、体調かなにか……


体調というよりは、私は昔から「生まれて来たくなかったな、この世界に」と思っていまして。


――なるほど、「生れ出づる悩み」ですね。


そういうふうに思っているやつが、意外と長生きしちゃうっていうパターンもあるかもしれませんが(笑)。


――そうですね。


なので、いつ死んでもいいなという気持ちでやっています。私ではなく一般に、在野の研究者はもちろん忙しいのですが、論文でポイントを貯めて学位をとって就職するという切羽つまった目標がないぶん、細切れでも研究を続けていける、そういうことは大きなメリットになるんじゃないでしょうか。



◇「トンデモ」にならないためには


――在野だからできる学問の関わり方はあると思いますか。


研究の対象が「高級な文化」に属さないと見られている分野では、在野の意義が発揮されやすいでしょう。たとえば、漫画研究などはもともと在野の蓄積がかなりある分野なんじゃないでしょうか。民俗学もそうですね。


――本当に自分の好きな研究ができる可能性がある?


うーん。うーん……。あんまり夢を与えるようなことばかりを言いたくないと思っていまして、というのも、現実は厳しいので……厳しい中でどうやって折り合っていくのかが大事です。


やはり大学に属していたほうが有利な点は多いですよ。ただ今は、院生は大学に就職できないし、運が良くても若手は非常勤講師として不安定なまま勤めねばならない。誰でも大学に属せない時代です。こういうジレンマに対応するような方向で、在野研究の必要性が求められていると思っています。大学にも頑張ってほしいのですが。


――在野研究者が生まれる背景のひとつに、若手研究者をとりまく大学の厳しい現状があると。それは、ちゃんと抑えておかないといけませんね。その上で再度聞きますが、在野研究者だから思い切った研究ができる面はあると思いますか?


歴史上、多くの在野研究者たちは、自分の説の大胆なオリジナリティでもって、アカデミズムにはない尖った価値をアピールしがちです。それは実際その通りだと思います。でも、それが「トンデモ」に陥りがちな心配はありますね。


在野だからできることとしては、研究会や読書会といったコミュニティを気軽につくれるので、専門領域を超えて人々をつなげるような場をつくれるのではないでしょうか。大学にいると、利害関心や様々な人間関係を背負いがちですから。そうなると他の分野から興味深いアドバイスを得られるかもしれません。


自分の大胆な説を守りながら、他人との出会いを恐れないこと。その両方があると、バランスよく在野研究できると思います。


――色々な人と意見を交わさないと、研究が客観的なものではなく、独善的なものになっていくのでしょうか?


私の理解だと、研究はもともとは協同作業で進むものです。参考文献をつけなといけないのは、みんなとの助け合いの中でやっている証。そういったネットワークをこれまでは大学が中心的に担ってきましたが、今これが弱くなっている。その代りに在野の人たちが頑張るというイメージです。


とはいえ、自分のやっていることが好きだとか、面白いと思っているから、というのも重要な基準です。研究を多くの人に認めてもらうことだけに執心してしまうと、見落とすものもある。自分の説は正しいのだと本人が本当に思っているのであれば、それはそれでいいのかもしれません。周囲にはスルーされると思いますけど、歴史が経つと「あの人は実はいいこと言ってたね」と評価され直すことも沢山ありますから。


それよりも自分の成果をいかに残すのかが重要だと思っています。考えていることだけではなく、アウトプットし、様々な手段で保存、伝達する。その努力を怠らない。そのアウトプットに対して色んな反応――「お前はトンデモだ」とか「いいこといってるじゃん」とか――が返ってくると思うので、そこでフィードバックしていくといいんじゃないかな。アウトプットをすることで、自分のことを客観視できると思います。


――荒木さんはかなり意識してアウトプットされていますよね。


私は大学院にいたとき、論文を人に届けるという意識が不足した世界に不満を感じていたんです。周囲からは変なやつだと思われてたかもしれませんね。ですが、ちょっと場所を変えるだけで、そういうやつの文章でも読んでくれる人が少なからず存在する。それが私にとって目からうろこの体験でした。私の文章を読む人がいるって奇跡的なことですよ。そして読んでくれる人がいたからこそ、今までずっと書いてこれたと思っています。


あと傲慢なことを言えば、私の本によって在野研究という営みが改めて注目され、盛り上がったような自負がある。この盛り上がりを大事にしたいんです。在野研究は、私個人の問題というよりも、人と知の世界を取り結ぶ大きな結節点で、これを一過性のもの、消費の対象にしてはいけないという意識があります。荒木があんなやつだから在野研究者だって……、みたいなことは言われたくないものです。


ちょっとトンデモっぽいことやアンチ・アカデミズムを言ったほうが、対外的に売れるというか、ポジションとしては明確だと思うんですが、私個人はできるだけ自制しています。ちゃんとコントロールできてるかどうかは自分でも分かりませんが。


(iPhoneで撮影)

◇「イタさを回避しない」


――つい在野研究者に破天荒さを求めてしまうので、私も自制的になろうと思いました。荒木さんが在野研究者について書かれた文章を読むと、荒木さん自身が荒木さんに言い聞かせるように書いていて、それを読むことで周りも励まされていく感じがあります。


たしかに『これエリ』について一部では「自己啓発的」だと批判的な文脈で言われることもあります。よく分かります。他方、自分自身を鼓舞していくことは大事だし、世界のハッピーは自分のハッピーから始めねばならず、とりあえず俺が元気な方がいいだろう、と。そういう性格が出たから自己啓発的に見えるのでしょう。


ひと昔前は「在野研究者」と名乗ったら、「なんだこいつ」って時代でしたから、今はずいぶん状況が変わったと思います。それは大学に属せないというリアリティがもっと一般的に深刻な仕方で広がってきたことにも由来しているでしょう。


ただ、依然として「自費出版」なんかの話ですと、出版社に騙されてかわいそうに、などと憐れまれる(そしてそれが正しい場合も多々あるわけですが)。その人に対して「ドストエフスキーの『悪霊』だって自費出版だったんだ」と言っても、「お前はドストエフスキーじゃないだろ」と言われて終了でしょう。在野研究ふくめ、他人からの憐みは基本無視するしかないんですけど、憐れまれたら「俺って変なのかな」って思っちゃうのものです。変な自己暗示は活動が鈍らせるだけだから、そういうのを解除できたとすれば自己啓発でも本を書いた甲斐があります。


――「就職できなくてかわいそうとか」在野研究者に限らず、そういう憐みにさらされる人は多いので、荒木さんの文章を読んで励まされる層は厚いと感じています。荒木さんが論文YouTuberになる過程を書いた文章に「イタさを回避しない」と出てきて、私個人はとても励まされました。


私、けっこう学校の先生に質問とかするタイプだったんですよ。ただ、先生に対して……あまり敬意を払わないタイプの学生だったので、「先生の言っていることは違うんじゃないんですか」と言って、「アイツなんなの」と思われていた。


しかし人に嫌われたくないからという下らない理由で質問を保留しても、世の中面白いことにならない。つまらないものと面白いものがあったら面白いほうがいい。人々に認められるより面白い世界を選ぶと、いまの私になる。私は自分を常に楽しい状態にしておくことに、すべての労力を割いているんだと思います。


ポジショナリティみたいなものを俯瞰して、ある種メタな視点に立てると思っている人は多くいます。しかしそのメタな場所それ自体も、どこか具体的な場所に依存しているんじゃないか。だとしたら自分の居場所を正面から引き受けて、その上で言いたいことを言う方が、誠実だし、最終的には強いはずだと私は思いますね。


(Twitterでは素朴なつぶやきもする。荒木さんTwitterより)



<荒木優太の研究術>

  • 大学図書館や国会図書館を利用し、集めた資料は日付ごとに管理する。

  • Twitterを論文のメモ代わりにし、ファンや仲間を増やす。

  • 電子出版者、論文Youtuberになる。

  • 憐みの情を無視して、常に自分を楽しい状態にしておく。



●記事執筆

山本ぽてと(やまもと ぽてと)

1991年沖縄県生まれ。早稲田大学卒業後、株式会社シノドスに入社。退社後、フリーライターとして活動中。企画・構成に飯田泰之『経済学講義』(ちくま新書)など。


*連載「在野に学問あり」

第1回 荒木優太

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