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  • 執筆者の写真岩波新書編集部

連載 私のコロナ史 第2回 2020年1月、武漢「封城」――史上最大のロックダウン(飯島渉)

更新日:2021年2月16日


「コロナは忖度してくれない」


COVID-19のパンデミックもほぼ1年です。本年1月末、世界の感染者数は1億人を超え(総人口の77人に1人)、亡くなった方も200万人以上にのぼります。感染者数が5000万人を超えたのが昨年11月上旬だったので、倍増にわずか2カ月半しかかかっていません(『毎日新聞』2021年1月27日、朝刊、3面)。国際的にも収束の気配がまったく見えない中で、日本の状況もシリアスです。今年になって、一部の都府県に緊急事態宣言が出されました。「歴史的事件」というのは、高級会員制クラブのようなもので、入れてもらうのは難しいのですが、COVID-19のパンデミックはその資格があると思います。けれども、何もしなければ、ひょっとしたら風化するかもしれません。とんでもない、こんな大事件を忘れるわけがない。でも、本当にそうでしょうか?


本年は東日本大震災から10年目です。昨年末から、福島の原発事故や東北三県をはじめとする被災地の現状を紹介する報道が目立ってきました。震災は決して終わっていません。行方不明の方々も2500人以上にのぼります。しかし、それに想いをはせることが少なくなってはいないでしょうか。開催はきわめて困難だと思いますが、東京五輪の目的が東日本大震災からの復興だったこともどこかにいってしまいました。


東日本大震災の当時、それを忘却することなどありえないと思ったはずです。しかし、時間の経過とともに風化や忘却は確実に進んでいます。COVID-19のパンデミックの中で、感染症のリスクに関心が集まり、過去の災害への関心やありうべき将来の災害への備えもかき消されている印象があります。一方で、風化や忘却にも意味があります。それを通じて、日々の生活を送ることができる場合もあるからです。


そんな想いの中で、年末年始を過ごしていると、日本の状況はかなりシリアスになり、私の住んでいる神奈川県にも再び緊急事態宣言が出されました。今回は、外出自粛などの全般的措置が要請されているものの、飲食店などへの営業時間の短縮要請が目立ちます。緊急事態宣言は、1月8日からは首都圏の1都3県、14日からは栃木、岐阜、愛知、京都、大阪、兵庫、福岡の7府県を加え、その期限はいずれも2月7日まででした。しかし、栃木県を除き、他の都府県の宣言は、3月7日まで延長されました。


2020年を振り返ってよくわかったのは、「コロナは忖度してくれない」ということです。私たちが活動を拡大すれば、それだけ感染の機会が増えるという現実、それは新たな感染者の数を見ているだけでわかります。新型コロナウイルスがいかにやっかいかということも明らかになりました。ヒトに感染する、そして、嗅覚や味覚の異常、発熱、嘔吐などの症状から肺炎へと、重篤な症状をもたらす場合もあれば、まったく無症状の場合も多いのです。ウイルスの側からすると、宿主となったヒトが亡くなってしまえば、感染が継続できなくなります。致死率の高さは感染者にとって大きな脅威ですが、感染の継続や拡大にとっても不利です。ところが、昨年末に登場した英国株のように、変異を通じて致死率が高くなる場合もあるとのこと(一般的なウイルスのメカニズムからすれば掟破り)、本当に困ったものです。無症状の感染者からも感染が広がるため、SARS-CoV-2は抑制がたいへん困難な、実に「スマート」なウイルスだということでしょう。


新しいウイルス感染症の病名はWHOが付けることになっていて、2020年2月11日、Coronavirus disease of 2019=COVID-19と命名されました。これは、特定の地域名などを用いることを避けたものです。また、国際ウイルス委員会は、武漢ウイルスや中国ウイルスなどと呼ばれることがあったウイルス名をSevere acute respiratory syndrome coronavirus 2=SARS-CoV-2と命名し、SARSやMERSと同じコロナウイルスのグループに分類しました(山内一也『新版 ウイルスと人間』岩波科学ライブラリー296、2020年9月、103–104頁)。



武漢の2020年1月


今回のターゲットは、COVID-19のパンデミックの起点となった中国・武漢の2020年1月前後の状況を整理することです。そのためには、次のような問題を考えてみる必要があります。


第一に、新型コロナウイルスの起源をめぐる問題です。SARS-CoV-2はいったい、いつ、どこからヒトの世界に入り込んだのか。この問題に関しては、どんな動物由来かにとどまらず、人為的につくられたもの、あるいは研究の過程で外部に流出したとする説があります。「中国科学院武漢病毒研究所」が嫌疑の中心となりました。「病毒」とはウイルスの中国語訳です。何人かの研究者の名前が挙がり、その一人である石正麗という女性のウイルス学者は疑惑を明確に否定し、中国メディアのインタビューに対して、研究によってむしろ病原体の特定に成功したと主張しました(日本経済新聞電子版、2020年5月27日)。


SARS-CoV-2は動物由来の可能性がきわめて高いとされていますが、自然宿主がセンザンコウだったのか、コウモリだったのかは依然として不明です。2002年に発生した同じくコロナウイルス感染症のSARS=Severe acute respiratory syndrome(ウイルスはSARS-CoV-1、重症急性呼吸器症候群)の時には、はじめハクビシンからの伝播が有力視されましたが、近年ではキクガシラコウモリだったという説が有力です。しかし、その調査研究にはかなりの時間を要しています。


「武漢華南海鮮卸売市場」がCOVID-19の感染に関わっているとされ、批判されました。中国では、野生動物が密猟され、食用や薬用に利用されることも多く、中国版グーグルの「百度」という検索ソフトには、「センザンコウ」とともに「野味」などの検索語がかなり入力されていました。そのため、COVID-19をきっかけとして、野生動物の捕食を禁止する措置がとられました(Yu, Wufei, Coronavirus: Revenge of the pangolins ?,The New York Times, International Edition, March 7-8, 2020, p.12)。


第二に、いったいいつ、この新興感染症の発生がわかったのかという問題です。中国政府がWHOに対して、「原因不明の肺炎」の発生を報告したのは、2020年12月31日のことでした(https://www.who.int/csr/don/05-january-2020-pneumonia-of-unkown-cause-china/en/)。しかしそれ以前から、武漢のいくつかの主要な病院では、原因不明の肺炎患者の治療が行われていたとされています。このため、湖北省や武漢市の政府や衛生当局の初期対応の遅れが指摘されています。もっと早くWHOに報告すべきであった、そうしていれば、より早い段階での封じ込めが可能だったのではないかという批判です。


第三に、COVID-19の流行が顕在化する中で、武漢の衛生当局は、しばらくの間は、ヒトからヒトへは感染しないとしていました。後にそれは否定されます。それでは、ヒトからヒトへの感染が確認されたのはいつで、中国政府や衛生当局はどのようにその情報を公表したのでしょうか。


ヒトからヒトへの感染が確認されていない段階では、武漢市長も市民生活の規制に消極的でした。例えば、感染が拡大し、流行が顕在化していた1月18日(旧暦の12月24日=正月を迎える準備を始める「小年」の日、ただし、19日とする資料もあります)に、武漢市の百歩亭社区(「社区」は地域の住民組織で、コミュニティーと翻訳されるのが普通です)では、旧正月に向けた大規模な宴会が開催されました。参加した人数は尋常ではなく、4万世帯とのこと。そのため、「万家宴」と呼ばれていました。百歩亭社区の人口については、いくつか数字があってはっきりしないのですが(定住人口と昼間の人口の差異かもしれません)、2キロ四方の土地に10万人を超える人々が暮らしているようです。都市部に高層アパート群が立ち並んでいる情景を想像していただくといいと思います。百歩亭社区は、9の「小区」から構成されており、後にかなりの数の感染者が発見されました。


総じて言えば、初発地であった中国、あるいはその中心となった武漢市において、もっと早くから適切な対応がとられていれば、現在のような深刻な状況となる以前にこれを封じ込めることができたのではないか、そもそも、SARS-CoV-2の起源は中国なのだからその責任は明らかだという批判が根強くあります。中国政府は、一連の責任論を回避する意味もあって、史上最大と思われる規模の「封城」=ロックダウン(都市封鎖)を断行しました。人口が1000万人を超える大都市を封鎖して、住民の行動を厳格に管理し、移動の自由はおろか、居住空間からの外出さえも制限する強硬な対策を選択したのです。



李文亮医師の告発


中国政府の公式報告書とみることができる、中華人民共和国国務院新聞弁公室『抗撃新冠肺炎疫情的中国行動白皮書』(以下、漢字は、日本の当用漢字になおします)(2020年6月)は、湖北省中西医結合医院(「中西医結合」とは、中国医学と西洋医学を結びつけるという意味、中国の大きな病院には、同じ建物の中に西洋医学の診療科と中国医学の診療科が一緒に入っている場合があります)が、武漢市江漢区の防疫センターに対して、原因不明の肺炎患者の症例を報告したのは、2019年12月27日のことだったとしています。COVID-19の流行が本格化する中で、WHOは中国政府と共同で、武漢やその他の地域の流行状況を調査し、Report of the WHO-China Joint Mission on Coronavirus Disease 2019 (COVID-19), 16-24 February 2020 を公表しました。この中で、病院名は示されていないものの、12月8日に武漢で症例を確認したことを示すグラフを掲載しています。これを根拠として、12月初めの段階で、中国当局は新興感染症の発生を確認していたとする指摘が行われています。


武漢市中央医院が、「武漢華南海鮮卸売市場」で働いていた65歳の感染者(男性)を受け入れたのは、12月16日だったとされます。「海鮮卸売市場」という名前から海産物マーケットを想像してしまいがちですが、実際には、さまざまな肉類を含む多様な食品を扱っているおよそ1000店舗からなる巨大市場で、武漢の中心の一つである漢口駅の近くにあります。食用あるいは中国医学の薬剤としての野生動物の捕獲(密猟が多くあります)や流通が、未知の感染症をもたらす可能性を高めることは確かだと思われます(Lian, Yi-Zheng, Why did the coronavirus outbreak start in China ?, The New York Times, International Edition, Feb.21, 2020, pp. 8,10)。中国科学院の院士(正式メンバー)である高福は、国務院での記者会見において、SARS-CoV-2とこの市場の関係を示唆していました(1月22日、http://www.cb.com.cn/index/show/zj/cv/cv13474141264)。


12月中旬には、武漢市中心医院、武漢協和医院、湖北省中西医結合医院などで患者の治療が行われていました。そして、SARSの再来ではないかと疑った李文亮という1986年生まれの若い眼科医が、12月30日、武漢で7人がSARSに感染したという情報をSNSの「微信」(WeChat、中国のIT企業のテンセントが開発しました)に流したのです。李医師は、東北の遼寧省の出身で、武漢大学を卒業し、2014年から武漢市中央医院の医師として勤務していました。李医師は、年を越した1月3日、誤った情報を投稿したとして訓戒処分を受けます。他にもほぼ同時に注意を受けた医療関係者がいました。


こうした経緯を経て、武漢における新興感染症の発生が公表されたのは、12月31日のことでした。その後、COVID-19の感染が拡大したと思われますが、しばらくの間は、ヒトからヒトへの感染はないとされ、中国政府はそれを前提として対策を進めました。「万家宴」という多くの人々が参加した宴会が開催されたのもそのためでした。


COVID-19をめぐる時間的な経過について、「衆志成城──2020中国抗撃新冠肺炎疫情紀実」(『経済日報』2020年4月1日)や上述の『抗撃新冠肺炎疫情的中国行動白皮書』などは、衛生当局がヒトからヒトへの感染を確認したのは1月20日だったとしています。中国人民解放軍が補給部隊を含めて大規模な動員を行ったのもこの日だったとされるので、1月20日が、中国の感染症対策の転換点だったことは確実と思われます。その背景となったのは、1月17日に、鐘南山医師(広州市呼吸器疾病研究所の所長として、2002年から2003年のSARS対策の責任者となり、中央政府の情報隠ぺいなどを批判して有名になりました)が武漢入りし、ヒトからヒトへの感染を確認したことでした。北京に移動した鐘医師が、そのことを、衛生行政を主管する国家衛生健康委員会(委員会という名称ですが、日本の厚生労働省に相当します)の馬暁偉主任(主任は中国語ではトップを意味します)や孫春蘭副首相に直接報告したことが中央政府の方針転換のきっかけになりました。1月20日、習近平国家主席や李国強国務総理(首相)が、「伝染病防治法」にもとづいて、COVID-19に対して抜本的対策を取ることを指示しました。この日、国家衛生健康委員会がCOVID-19のヒトからヒトへの感染を確認しました。


しかし、武漢市や湖北省などの状況については、事実関係がはっきりしないこともあります。それが、湖北省や武漢市という地方政府と北京の中央政府の関係の齟齬によるものなのか、行政機構における衛生当局と他の機構とのあいだのコミュニケーションの不足によるものなのか、解明にはなお時間を要すると思われます。1月16日から17日、武漢市では湖北省人民代表大会が開催されていました。このことも対応の遅れの背景だと考えられます。また、習近平国家主席は、1月17日から18日、ミャンマーを公式訪問しており、19日からはその帰国の途上で、雲南省の視察を行っていました。


こうした、中央政府や地方政府の動きの中で、中国の衛生当局は、1月10日に新興感染症が新型コロナウイルスによるものであることを確認し、11日には、武漢ウイルス研究所などが、ゲノム配列をインフルエンザ対策のためのデータベースを使って公表しました。これは、中国政府がその状況を隠蔽したことへの国際的批判が高まったこと、すなわち、「SARSのレッスン」によるものと思われます。なお、駐日本中国大使館のHPには、初期対応を誤ったという指摘への反論が掲載されています(http://www.china-embassy.or.jp/jpn/sgxw/t1788186.htm)。



数理モデルの世界――武漢の感染状況の推計


COVID-19のパンデミックの中で、私が参考にしているのは神戸大学の中澤港さんのHP「鐵人三國誌」です。中澤さんは、「鉄人28号」と漫画『三国志』の作者の居住地であった神戸市長田区にお住まいなのでこの名称とのこと。私と同世代(実際には私の方が少し上)ということがわかります。中澤さんとのおつきあいは、私がマラリア対策史に関する研究書を出したことがきっかけでした。


「鐵人三國誌」の情報は膨大で、COVID-19のパンデミックに関しても有益な情報が満載です。感染症の専門家が(中澤さんは「人類生態学」が専門と自己紹介しています。感染症は生態系から人間へのリバウンドでもあります)、どのような情報をどこから得て、現状をどう理解しているのか(いたのか)がわかります。正直に言うと、その内容を全部理解できるわけではありません。すみません、正直に言います。わかる方が少ないです。けれども、私にとって、「鐵人三國誌」は感染症の歴史学の研究対象なのです。


1月6日(11日追記)の個所には、「この段階での封じ込めに失敗するとPHEICになりかねないので、注意しておく必要があると思う」、「大晦日の初発報告から1週間ちょっと経って、SARSともMERSとも異なる新型コロナウイルスが原因と確定し、とうとう死者が出た(1月11日初報)大変心配。」とあります(https://minato.sip21c.org/2019-nCoV-im3r.html 以下は日付のみ明示します)。中澤さん、やっぱり注目していたんだなあ。PHEIC=Public Health Emergency of International Concernとは、「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」のことです。1月23日の緊急会合では、WHOはその宣言をいったんは見送りました。その後、1月28日、テドロス事務局長は、北京を訪問し、習近平国家主席や王毅外相と会談し、中国政府の感染症対応を称賛しました。こうして、WHOの対応が中国寄りだという国際的批判が高まります。1月30日になって、WHOはその宣言に踏み切ります。PHEICが宣言されたのは、過去には、豚インフルエンザA(H1N1)(新型インフルエンザ)(2009年4月)、野生型ポリオウイルス(2014年5月)、エボラ出血熱の西アフリカでの感染拡大(2014年8月)、ジカ熱のブラジルなど中南米での感染拡大(2016年2月)、エボラ出血熱のコンゴ民主共和国での感染(2019年7月)があります。


1月18日の個所では、英国のインペリアル・カレッジの研究グループが公表した武漢の患者数の推計が紹介されています。引用されているのは、Imai, N, Dorigatti, I, Cori, A, Riley, S, Ferguson, N, Report 1: Estimating the potential total number of novel Coronavirus cases in Wuhan City, Chinaです。数理モデルにもとづく感染者数の推計で、おそらく1000人以上になるという結論です。この論文が公開されたのは1月17日のことでした。中澤さんのHPが18日なので、時差を考えるとほとんど同時に情報が共有されています。人命を扱っているという意識があるのだと思いますが、そのスピード感に圧倒されます。こうした文章では、筆頭のImai, Nさんがファーストオーサー、最後のFerguson, Nさんがチームリーダーです。


1月20日(23日追記)の個所には、「たぶん北大の西浦さんのグループも今頃は夜を徹して論文書いているだろうなあ」という記述があります。この西浦さんとは、後に「八割おじさん」の異名で知られることになる西浦博さんのことです。『理論疫学者・西浦博の挑戦 新型コロナからいのちを守れ』(西浦博・川端裕人、中央公論新社、2020年12月)を見ると、2019年大晦日にその情報を得て、1月16日に最初の症例が日本で確認されると、「空間的逆計算」によって推計を行ったことがわかります。これは、1月16日に日本で症例が確認されるためには、どのくらいの感染者がいなければならないかを推計するものです。それによると、中国における感染者数の推計は846人(95%信頼区間は、141人から2614人)でした(同書19頁)。WHOが確認していた数字は、1月16日の段階で、中国全体で累計45人だったので、この推計は感染の規模はもっと大きいということを示唆しています。西浦グループの第1報は、The Extent of Transmission of Novel Coronavirus in Wuhan, China, 2020, J. Clin. Med., 2020, 9(2), 330で、1月22日に投稿され、すぐにアクセプト、24日に公表されました。そして、当時、北海道大学教授だった西浦さんは、国立感染症研究所の要請によって、何人かの大学院生たちといっしょに東京に滞在することになったのです。


COVID-19のパンデミックによって多くの人々が知ることになった数理モデルとは、こんな時間的感覚の中で処理されていたのです。2020年前半は、西浦モデルによって私たちの行動が制約されることになりました。私は、政府の言うことだからといってそれを聞くタイプの人間ではありません。私を直接知る人たちの苦笑する姿が目に浮かびますが、むしろ反対のことをしがちです。そんな私が、COVID-19のパンデミックの中で、行動変容の要請に従って生活したのは、西浦さんと昔からの知り合いで、「西浦が言うなら従わないといけない」と思ったのも大きな動機です。そのあたりの事情はまた別の機会としましょう。



1月23日、武漢でのロックダウンの開始


1月22日には、中国全体でCOVID-19の新規感染者数は152人、死者は3人で(この数字はWHOに報告されたもので、実際はもっと多かったと思われます)、その後、新規感染や死亡は急増します。この結果、重篤な病状の治療を行うことができる拠点病院に患者が集中し、医療崩壊の局面を迎えました。


上述した中国政府の方針転換(1月20日)に従って、武漢市政府は、1月23日、都市全体の封鎖に踏み切りました。武漢市は人口が1000万人を超える大都市ですから、これは史上最大のロックダウンでした。それは、「市新型冠状病毒感染的肺炎疫情防控指揮部通告(第1号)」(2020年1月23日00:00)として、「疫情防控指揮部」の通告という形式をとっています。その内容は以下のようなものです。硬い訳ですみません。


新型コロナウイルスによる肺炎の流行を改善し、制圧するためには、ウイルスの伝播を遮断し、蔓延を確実に防ぐことが必要である。人民大衆の生命安全や健康を守るため、以下の事項を通告する。2020年1月23日の午前10時より、武漢全市の公共交通機関、地下鉄、水運、長距離バスの運行をしばらく停止する。特別な理由がない場合は、市民は武漢から移動することはできない。飛行場や鉄道駅、武漢から離れるための道路をしばらくのあいだ閉鎖する。再開時期に関してはこれを別に通知する。市民および旅客の理解と支持をお願いする。


こうして、武漢市と他の地域の通行は遮断されます。ロックダウンの最初に行われたのは、武漢と他の地域との交通を遮断することでした。また、公共交通機関をほぼ全面的に停止したので、生産活動を含め市民生活には大きな制約がかかりました。


しかし、2月中旬には、中国政府(武漢市政府)より、いっそう市民生活の制限を強化します。「武漢市新冠肺炎疫情防控指揮部通告」(第 12 号)」(2020年2月11日00:00)にもとづき、「社区」を構成する単位である「小区」を封鎖し、武漢全市を対象として、感染者や疑似患者を所在の住宅において厳格に管理することとします。そして、必要な場合は、公安機関が法律にもとづき強制的措置をとるとしました。またそれを実行するため、2月14日、「住宅小区一律実行封閉管理」(2020年2月15日00:00)という通知が出されます。「小区」の出入り口を一つだけとし、難しい場合には、その地区をとり囲むように隔離が実行されます。その準備は2月14日以前に完了することとされ、一カ所に制限された出入り口に24時間人員を配置し、住民の出入りの際には体温検査を行い、医者にかかるなどの理由がなければ外出を認めず、外からの人の出入りを認めないこととしました。これは、都市部の高層アパートを対象としたものでしたが、農村などでも、以上の原則にもとづいて、市民生活を制限することとしました。


住民生活のための基層組織である「社区」(あるいは「小区」)を単位として、厳格な管理を行ったことが武漢市のロックダウンの大きな特徴でした。この問題については、すこし文章を書き始めているのですが(飯島渉「感染症対策における「中国方式」の行方――COVID-19のパンデミックとロックダウン」『中国研究月報』2020年12月号、Vol. 74 No.12(No.874))、もっとていねいにその状況を調べてみたいと思っています。しかし、実際に武漢に行くことが必要でしょう。その場に行って、その空気を吸ってはじめてわかることも多いと思うからです。


2月中旬に実行に移されたロックダウンの強化と前後して、湖北省トップの蔣超良が更迭され、かわって上海市長の応勇が湖北省党委員会書記に、武漢市トップの馬国強も更迭され、山東省の済南市書記であった王忠林が武漢市党委員会書記に就任しました。湖北省や武漢市におけるCOVID-19への対策が不十分だったことへの責任を取らされたものと思われます。


「社区」や「小区」は、住民の行動を厳しく管理するとともに、生活のために必要とされる物資の共同購入、独居老人などのケア、ロックダウンの下で増加したとされるDV(中国語では「家暴」)への介入など、生活を支える役割も果たしました。その様子は、ロックダウンの下での暮らしを描いたさまざまな文章(多くは、当初、ネット上に投稿されたもの)からも窺うことができます。後に台湾で出版されることになった、郭晶『武漢封城日記』(聯経文庫、2020年3月、稲畑耕一郎訳、潮出版社、2020年9月)もその一つです。



郭晶さんは一人暮らしの女性ソーシャルワーカーで、武漢には2019年11月に引っ越してきたばかりでした。『武漢封城日記』は、ロックダウンが開始された1月23日から3月1日までの日々の暮らしを詳しく記録しています。買い物の苦労、どんなものを食べたか、といった「小さな歴史」がたくさん書かれていて、ロックダウンのもとでの日常生活がどんなものだったのかを感じることができます(飯島渉「ロックダウンの下での「小さな歴史」」村上陽一郎編『コロナ後の世界を生きる』岩波新書、2020年7月)。



厳しい行動制限はとても息苦しいものでした。「外出の制限は本当にいやなものだ。また、恐怖感さえも覚える。……もし、規則を破ったとしたらどんな罰則があるのかわからないが、それが不合理だとわかっていても、規則を破るまでの代償を払うわけにはいかない」などの率直な気持ちが随所に書かれています(2月16日、中国語版191頁)。ロックダウンの下で、警察の巡回やドローンを使った監視なども行われました。もっと記録と記憶を集め、ロックダウンの規則や規制と実際の日々の生活がどのように調和し、何が調和しなかったのかを明らかにすることも私の課題です。


この時期、中国経済は停滞しました。武漢市は、中国の自動車産業の中心地の一つであり、外国企業も数多く進出しています。そのため、武漢のロックダウンによって部品の供給が停止するなど、諸外国の自動車産業にも大きな影響を及ぼしました。中国が世界の工場となり、経済的なプレゼンスを高める中で、COVID-19のパンデミックの影響は巨大なものになりました。その様子を示す中国国家統計局が発表した数値を一つだけ挙げると、2月の製造業購買担当者指数(アンケート調査)の景況指数は35.7で(50を下回ると景気の縮小を意味します)、リーマン・ショック直後の2008年11月の38.8を下回り、COVID-19の感染拡大による景気の悪化は深刻でした(『東京新聞』2020年2月29日、夕刊、4面)。



武漢への救援機の派遣


ロックダウンの中で問題となったのは、武漢で生活している日本人(日本旅券保持者)の安全をどのように守るかということでした。1月28日からチャーター便が派遣され(2月17日までに合計5便)、828人が日本にもどりました(『新型コロナ対応・民間臨時調査会 調査・検証報告書』「第2章 武漢からの邦人救出と水際対策強化」2020年10月、102頁)。


海外に滞在している日本人の生命財産について関心を持つことは、外務省および在外公館の最も重要な仕事の一つです。武漢市には自動車メーカーをはじめ日本企業が数多く進出しており、長期滞在者も少なくありませんでした。ところが、武漢には日本の在外公館がなかったので、滞在者の把握は難しかったようです。武漢から500キロも離れたミャオ(苗)族自治州にも留学生が2人滞在していました。結果として、中国大使館員が北京から高速道路で17時間かけて武漢に入り、チャーター便の受け入れ、日本人の配偶者となっている中国人の出国などを処理しました(『毎日新聞』2020年9月19日、朝刊、3面)。


米国や韓国なども同様にチャーター便を派遣しましたが、国際関係のはざまで、台湾政府がチャーター便を派遣しようとした時には、蔡英文政権の下で関係が微妙なことを反映して、その運用はスムースではありませんでした。台湾政府は、COVID-19の流行に対して機敏な対応を取り、感染拡大の抑制に成功しました。その背景には、中国との「間合い」の取り方、2019年12月31日の段階で、李文亮医師の告発も含め、いち早く中国の状況を把握し、的確な対策を進めたことがあります。この問題に関しては、機会を見てまとめてみるつもりです。


チャーター便について感じたことを一つ書きます。帰還に際しての費用は(エコノミー料金に相当する約8万円)、当初、自己負担とされていましたが、後に国が負担することになりました。この時、私はゼミナールの学生8人(学部3年生と4年生)に、費用は誰が負担すべきだと思うかを尋ねてみました。5人が政府負担、3人が自己負担という答えでしたが、私自身は自己負担が適切だと思っていました。COVID-19のパンデミックの中で、世界各地で生活している日本人の帰還のために、現地の日本人会や商工会議所が中心になってチャーター便をアレンジする動きが広がりました。その費用は自己負担だったようです。どうしても高額になりがちで、南アフリカなどの場合には40万円を超える金額になってしまうようでした。さて、みなさんはこの費用は誰が負担すべきだと思われるでしょうか(飯島渉「エピデミックの中で」事業構想大学院大学出版部『人間会議』2020年夏号)。


2020年1月の段階では、COVID-19は中国の問題だとの印象が強く、危機感は低かったように思います(感染症の専門家は別として)。一方、武漢では大規模な病院が急ピッチで建設されつつありました。わずか10日間で完成した「火神山医院」(1000病床をもつ感染症専門の臨時病院、「火の神」がCOVID-19に打ち克つという中国医学の考え方にもとづいて名前が付けられました)の様子を紹介する映像を見ながら、あまりに短兵急な対応に驚かされ、私もその意味がわかりませんでした。膨大な数の「方艙医院」(コンテナ形式の病院)も建設されました。その起源は、米軍がベトナム戦争のなかで配備した野戦病院とのこと。しかし、現在になってみれば、こうした病院の建設が何を目的としていたのがよく理解できます。


COVID-19の感染の拡大の中で、中国でも医療用マスクや防護服が不足していました。日本から物資を支援する動きもありました。大分市は武漢市と友好都市関係を結んでおり、マスク3万枚、防護服600着、防護用ゴーグル400個を送り、市役所には募金箱を設置しました。こうした動きは、水戸市と重慶市、広島県と四川省のあいだにもありました(『東京新聞』2020年2月1日、夕刊、6面)。日本から送られた物資の箱に「山川異域、風月同天」(山や川は違っていても、同じ風が吹き、同じ月を見ている)と書かれていたことが話題になったのもこのころです。これは、長屋王が唐に贈った袈裟に縫い付けられていた漢詩で、鑑真来日のきっかけになったとされるものでした(『東京新聞』2020年2月14日、朝刊、2面)。



李文亮医師の死を悼む


2月7日の午前3時ごろのことだったとされていますが、COVID-19の発生を伝え、処分された李文亮医師が亡くなりました。悲しいことに、COVID-19がその原因でした。批判の高まりと感染症対策の方針転換の中で、武漢市政府は、この時には死去を悼む公告を出しています(「武漢市人民政府公告」2020年2月7日00:00)。



李文亮医師の死は、武漢市民をはじめ多くの人々に衝撃を与えました。『武漢封城日記』の作者の郭晶さんは、このことを誰かに話さなければならない、李医師を記憶しておきたいと思い、武漢市内を流れる長江の川岸を歩いてみることにしました。しかし、その想いを顔見知りに伝えても、「よくあることだ」という達観した答えでした。散策している人数もいつもより少なく、わずか2人ほど。アパートに戻って、郭晶さんは、李医師の死を悼みローソクをともします。洗濯をしながら、携帯で繰り返し「インターナショナル」を聞き大声で泣いた、悲憤慷慨の気持ちはこれまでに経験したことのないものだったと書いています(2月7日、中国語版121頁)。


武漢の状況も含め、中国におけるCOVID-19のパンデミックについてはまだ書くべきことがたくさんありますが、それは次回以降とします。2月初め、COVID-19は日本にも影響を及ぼすことになりました。1月中旬から散発的に患者が発見されつつある中、それは予想もしなかったところからやってきました。ダイヤモンド・プリンセス号という巨大なクルーズ船が横浜港に戻ってきて、乗客乗員のCOVID-19への感染がわかったのです。このクルーズ船は、1月20日に横浜港を出発し、ベトナムと台湾をめぐり、那覇に寄港したのち横浜港に戻ってきました。ところが、1月25日に香港で下船した乗客の感染が明らかになったのです。2月4日、横浜港沖に停泊している同船への検疫の結果、10人の感染が確認されました。この事件が、多くの日本人にとって、COVID-19の衝撃を実感するきっかけとなったのです。


(つづく)



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飯島渉(いいじま わたる) 

1960年生まれ。青山学院大学文学部教授。「感染症の歴史学」を専門とし、東アジアのペスト史やマラリア史を研究してきた。『感染症の中国史』(中公新書、2009年)、『高まる生活リスク――社会保障と医療』(共著、中国的問題群、岩波書店、2010年)、『感染症と私たちの歴史・これから』(清水書院、2018年)など。長崎大学熱帯医学研究所客員教授、獨協医科大学特任教授、目黒寄生虫館理事。感染症対策の資料を整理・保存する「感染症アーカイブズ」(https://aidh.jp/)の代表もつとめている。 


本連載は偶数月に更新します。次回は4月中旬の予定です。



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