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  • 執筆者の写真岩波新書編集部

社会科学を語る言葉/語る人(新書余滴)

宮永健太郎




「地球温暖化問題に関心はありますか?」

突然ですが、みなさんは地球温暖化問題に関心はありますか? インターネットの大海原からわざわざこうしたページへと辿り着くくらいですから、少なくとも知的な関心はお持ちなのだろうと想像します。しかし広く世の中や社会に目を移すと、関心など微塵もないという人はいくらでも探せることでしょう。


なぜこんなことを尋ねたのかというと、以前次のようなグラフを見つけ、いろいろ考えさせられたからです。

図表 気候変動を個人レベルで脅威に感じている市民の割合(2015年→2021年)(出典:ピュー研究センターホームページhttps://www.pewresearch.org/global/2021/09/14/in-response-to-climate-change-citizens-in-advanced-economies-are-willing-to-alter-how-they-live-and-work/)

このグラフは、アメリカにあるピュー研究センター(Pew Research Center)というシンクタンクが世界各国で行った、地球温暖化に関するアンケート結果の一部です。それによると、気候変動を個人レベルで脅威に感じている市民の割合が減っている国は世界でただ1つ、日本だけでした。


その理由については、いろいろと想像を掻き立てられます。そしてその解明自体、1つの研究テーマになり得るかもしれません。しかし、このたび上梓された拙著『持続可能な発展の話――「みんなのもの」の経済学』との関連でいけば、次のような理由を考えてみたくなります。



まず、地球温暖化の進行や今後の対策の進展が経済や社会にどんなインパクトをもたらすのか、多くの日本人にとってまだ明確ではないのかもしれません。地球温暖化がこのまま進むと、経済や社会にどんな影響を及ぼすのか? がんばって二酸化炭素排出を削減したその先には、どんな経済や社会の姿が待っているのか? 今後再エネや電気自動車がますます普及していくとして、例えば再エネだけで本当に電気をまかなえるのか? 電気代はどうなるのか? 電気自動車は高くてとても買えそうにないし、自宅の駐車場には充電設備もないのだが、大丈夫なのか?――これらに関してある程度見通しが得られるかどうかで、人々の意識も変わってくる可能性があります。


別の見方をすれば、環境問題を経済や社会のあり方とセットで考えるための、社会科学的な分かりやすい知識が求められているということです。私が拙書の執筆を構想したモチベーションの一つは、まさにそこにありました。


桑原武夫と「国民の言葉」

そしてもう1つ、私が気になっているのは「言葉」の問題です。つまり、環境問題について語る社会科学者が発する日本語が、人々にきちんと届いていないのではないか、という疑問です。新書を書くのは、私にとって今回がはじめてのことでしたが、最初に頭をよぎったのが実はこの問題でした。


1971年8月、仏文学者の桑原武夫氏(1904-1988)は、小説家の司馬遼太郎氏(1923-1996)との対談の中で次のような言葉を残しています。


「いまの社会科学者や歴史科学者の文章、あれはまだ人々を感動させる国民の文章にはなっていない感じがしますね。」

「人民について人民のために書くための言語がまだちゃんと成立していない感じですよ。」

「政治や社会科学の言語は、……人を感傷的にではなく、知的に動かすような構造をまだ持っていませんね。」


明治政府の成立と「国語教育」の誕生。初代三遊亭圓朝(1839-1900)の落語速記本が契機となった「言文一致」への流れ。夏目漱石(1867-1916)をはじめとする「国民作家」の登場。「新書」という出版文化の生誕(岩波新書!)。戦後実現した高等教育の大衆化。……それらを経てもなお、社会科学の言葉は「国民の言葉」になっていない、ということなのでしょう。


そしてその対談から、さらに50年以上が経ちました。にもかかわらず、社会科学の言葉と人々の言葉の距離は、縮まるどころかますます離れている――そう感じるのは、私だけでしょうか。その構造や背景を的確に言語化する能力を私は持ちませんが、とりあえず思いつく卑近なトピックとして、ICT(情報通信技術)の発達とSNSの普及、文化的グローバリゼーションの進展、そして後述する社会科学の研究者側の事情を挙げておきます。


拙書の執筆にあたって、凡庸な職業研究者である私にできることといえば、ひとまず「大学の初年次生」あたりを読者としてイメージし、言葉は平易なものを選び、その言葉は粒立てて使い、文章と文章がスムーズに繋がるよう気をつける、というくらいのものでした。ちなみに、日本における環境経済研究のパイオニアである宮本憲一氏(大阪市立大学名誉教授ほか)も、難渋な文章に頼りがちな社会科学者を反面教師とし、分かりやすい文章を書くことを心がけてきた、と聞いたことがあります。


ただ私の場合、難渋な文章からの脱却は、実はそれほど大きな問題ではありませんでした。研究成果を英文学術ジャーナルに投稿することが一般化し始めた、私くらいの世代の社会科学者は、学術論文用の機能的なアカデミック・ライティングのクセが染み付いています。したがって私にとっては、機能的な文章からの脱却の方がむしろ課題でした。機能的すぎる文章もまた、人々を社会科学の魅力から遠ざけてしまうと考えたのです。


社会科学の創造――不安と希望

社会科学の言葉と人々の言葉の距離がさらに遠ざかっているのではないか――それは、研究者の世界を見ていても感じることがあります。


特に若い研究者がそうなのですが、そして海外の国際学会もそうなのですが、近年の学会研究発表を聞いていると、実に手堅くソツのない報告が増えたな、との感を強くします。しかし別の見方をすれば、よく似た発想や考え方を持つ研究者が大半を占め、多様性に乏しいということです。スーパーの鮮魚コーナーに行っても、並んでいるのはいつも鮭やマグロ、エビやイカばかりで、調理に手間のかかる魚や珍しい魚をとんと見かけなくなった、と例えればその雰囲気をご想像いただけるでしょうか。


そしてその理由なのですが、社会科学系環境研究の場合、構造的な要因が大きいように思います。大学院生向けの教科書(テキストブック)がかなり整備されてきたこと。博士後期課程(3年間)の終了後直ちに博士号を取得するのが一般化し(「課程博士」)、指導教員の側としても比較的成果の出やすい研究テーマを推奨せざるを得なくなっていること。研究者の労働市場(ジョブマーケット)の自由化・逼迫化がもはや既定路線となり、若手研究者の側も成果が出にくい研究テーマを忌避するようになったこと。大型研究費を使ったプロジェクト型研究スタイルが社会科学分野でもすっかり定着し、若手はもちろん中堅すらも研究組織のパーツとして動く局面が増えていること。個々のレベルでユニークな研究アイディアを持っていても、プロジェクト型研究や日々の仕事に忙殺されて、それを成果にするだけのゆとりを持てないこと。――こういったあたりでしょうか。


私が気になるのは、そんな研究環境で研鑽を積み、「社会科学の言葉」を習得して独り立ちした研究者が、はたして「人々の言葉」も習得しているのだろうか、という点です。社会科学の言葉の使い手と人々の言葉の使い手の分断が蔓延するのではないか、という不安です。適切な例えかどうか分かりませんが、銀座で酒を飲む人と浅草で酒を飲む人の断絶が進んでいるようなものでしょうか。銀座でも浅草でも酒を飲む姿が様になっているであろう、ビートたけし(北野武)氏や志村けん氏のような方々が、日本の社会科学の世界からどんどん姿を消しつつあるような気配を感じるのです。


そしてさらに厄介なことに、日本では社会科学の存立そのものが少しずつ脅かされ、社会科学者の再生産(あまり好きな言葉ではありませんが)の基盤も縮小しつつあります。そして技術開発やその実装といったテーマに、研究関連のヒト・モノ・カネが集中する傾向にあります。例えば拙書で紹介した「コモンズの悲劇」ですが、最近世間受けがいいのは、資源そのものを技術的に増やせればコモンズの悲劇など起きないではないか、といった発想なのです。それに対して、資源の希少性を与件とし、その資源を維持管理する制度や仕組みをチマチマ(?)考えるコモンズ論や環境ガバナンス論のようなアプローチは、日本ではなかなか広い関心を集められません。


ではこうした事態の打開に向けて、何か光明は見当たらないものでしょうか? ここで参考までに、大学文系学部の昨今のゼミ事情についてご紹介しておきましょう。


私が現在勤務する京都産業大学経営学部では、ゼミ活動報告大会というイベントを毎年開催しています。そこでは学部の全ゼミが参加し、普段の研究・活動成果を発表し合うのですが、ここ最近は環境問題に関する報告が増えている印象があります。しかも特徴的なのは、経営管理論のゼミが食品ロス問題を扱う、あるいは広報のゼミが昆虫食をテーマに選ぶというような、ある種の越境現象が見られることです。それに対して私が学生だった頃は、「環境問題のゼミは環境問題を扱う」「しかしそれ以外のゼミは扱わない」といった状況がまだ根強かったように思います。


その背景ですが、まずやはり何と言っても、拙書でも紹介したSDGsの影響力を感じます。また別の背景として、企業とコラボして商品開発に取り組むようなゼミが経営学部にはしばしば存在するのですが、商品開発そのものを学生に任せてくれる企業はなかなかないので、代わりに「商品のSDGs的な側面をどうPRするか」といった部分で関わらせてくれることが多い、という事情もあるようです。


そんな学びを経た学生たちは、卒業後さまざまな道に進んでいきます。そして若い彼らが将来、それぞれの現場で自分の言葉で環境問題について語り始めた時、何かが変わるのではないか――そんな希望に私は賭けてみたいと思います。かつて経済学者の内田義彦氏(1913-1989)は、「社会科学は絶対に作り手に任せておいてはいけない。創造に一人一人が参加するのでないといけない」と述べたことがあります。大学という組織の1つの責務は、そんな参加者を育むこと、つまり「人づくり」なのだと改めて襟を正した次第です。そして、拙著がその1つの礎になることができたならば、望外の喜びです。


宮永健太郎(みやなが けんたろう)

1976年生まれ.京都大学大学院経済学研究科博士課程修了.博士(経済学)

現在、京都産業大学経営学部准教授

環境ガバナンス論専攻

論文―Miyanaga, K. and Nakai, K. 2021. Making adaptive governance work in biodiversity conservation: lessons in invasive alien aquatic plant management in Lake Biwa, Japan. Ecology and Society 26 (2):11.

Miyanaga, K. and Shimada, D. 2018. ‘The tragedy of the commons’ by underuse: Toward a conceptual framework based on ecosystem services and satoyama perspective, International Journal of the Commons, 12(1), 332-351.

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