• 岩波新書編集部

 岡本隆司『曾国藩 「英雄」と中国史』刊行によせて

文明の傀儡(くぐつ)としての「英雄」


瀧井一博




人物の偉大さについて

司馬遼太郎の言葉と記憶しているが、「中国の陶磁器には神業を感じ、日本の焼き物には作者の個性を思う」との述懐に接したことがある。岡本隆司氏の『曾国藩』を読み、あわせてそれ以前に刊行されていた同じ岩波新書の『李鴻章―東アジアの近代』と『袁世凱―現代中国の出発』を読み直して、しきりにこの言葉を思い返した。


筆者(瀧井。以下同)は世間で、人物史を専門とする歴史研究者と目されているかもしれない。確かに、これまで筆者は伊藤博文の評伝を著し(『伊藤博文――知の政治家』中公新書、2010年)、最近も大久保利通の生涯について一書をものした(『大久保利通――「知」を結ぶ指導者』新潮選書、2022年)。人物への関心は強くもっている。このたび岡本隆司『曾国藩』を書評せよと白羽の矢が立ったのも、出版社が日中人物史の取り合わせの妙を思い立ってくれたからだろうか。だとしたら、光栄なことである。


書評というかたちでは異例であろうが、まず多少の自分語りをさせてもらいたい。実は、自分の評伝的研究が果たして歴史学の範疇に入るのか、忸怩たる思いがある。自らの人物研究を省みると、それは極力その人の内面に入り込み、そこからその思想と言えるものを抽出し再構成するというスタイルである。それは、ある人物の歴史に果たした役割を見極めるというよりも、その人の歴史を超えた知的遺産を発掘する作業なのではないかと強く感じる。


一言で言えば、筆者の人物研究は、思想研究なのだ。もっとも、そのなかでも自分の関心は、思想を生業とする学者や文人よりも、政治の実践の場にいる人々に向かっている。観照と体系化に努める理論家のテキストではなく、現実のなかで鍛え上げられた政治家の生涯を一冊の書物と見なして読み解こうとしてきたと言えようか。


筆者の人物研究は、個人を通じて歴史のある実相を明らかとするというよりも、その個人の生涯や思想が、歴史を超えて訴える価値を探求するものである。したがって、自分には人物の偉大さへのノスタルジアが拭えない。この点において、筆者の評伝と岡本氏のそれとの間には、大きな懸隔があろう。岡本氏が描く中国近代史上の人物には、必ずしも偉大さは脚色されない。人物の偉大さを描き出すことが目的ではない。『袁世凱』に至っては、「食わず嫌いはダメ」との思いで、「嫌いな人物に正面から向き合」った著作とのこと(同書「あとがき」)。歴史家であればこうでなくてはなるまい。自分の気に入った人物のことばかり研究している視野狭窄は、そこにはない。


自らを殺した「英雄」

最新刊の『曾国藩』は、ある意味、岡本人物論のスタンスが最もよくうかがえる著作である。本書は副題に「「英雄」と中国史」と付されている。「英雄」と括弧でくくられていることに含蓄がある。曾国藩は「英雄」であった。太平天国の乱という国難に立ち向かい、それを鎮めた。救国の「英雄」であり、同時に当代一流の文人であった。中国の統治を支える読書人的官吏の精華と言える。


だが、そのような表面的イメージとは異なる実像を岡本氏の筆は呵責無く描き出す。確かに、曾国藩は英雄であった。だが、それは、彼が自らの意思と責任で果断に事に処し、民を導き、そこに平安をもたらしたからではない。彼が英雄だったのは、自らを殺し、徹底的に仕えたからである。何に仕えたのか。君主にであり、中華という文明にである。


本書は、冒頭、在日清国公使館に勤務していた日本通の「外交官」黄遵憲と日本の漢詩人石川鴻斎との間に交わされた印象深い対話が紹介される。明治維新からまだ10年ばかりが経った時点での話である。そこで、黄遵憲は、「日本の文章は紀行・画跋・詩序にとても巧みながら、盛大広明な文は多くありません。近来の『曾文正公文集』のようなものは、日本ではとてもお目にかかれません」と語った。曾文正公とは、曾国藩のことに他ならない。彼の詩文を集めた書籍を掲げ、漢文の教養における彼我の違いを黄遵憲は大書した。


この挿話は、清国を代表する政治家曾国藩がまた同時に当代一流の詩人でもあったことを伝えるものだが、より正確に言えば、文人として傑出していたがゆえに、彼は偉大な政治家としても認められていたのである。そもそも、政治家なるものをマックス・ヴェーバー的な職業として、独特の使命を帯びた専門人として捉えてはなるまい。優れた文人であれば、それは優れた人間であり、そのような人間は政治家としても優れているに違いないのである。


だが、以下では近代的な価値観に則り、政治家としての実績を注視しながら、曾国藩の生涯を見ていこう。曾国藩は湖南省の生まれである。経済先進地である江南省の後背に控え、同省の繁栄を支える地であった。搾取される立場と言ってよいかもしれない。折しも中国は人口の増大期に入っており、湖南省は農産物を増産するための労働力として移民を受け入れ、また、隣省の経済活動の一翼を担うための人材を移出していた。貧困で後進的な地域だが、そこからは黄興、宋教仁、さらには毛沢東や劉少奇のような革命家が輩出した。自分の信念や才覚を頼りに、世に打って出ようとする有為の人を生み出しやすい土地柄だったのであろう。


曾国藩もその例に漏れない。ただ、彼はあくまで既定の出世コースの階梯を昇ろうとした。地主として富みを築いた家に生まれた曾国藩は、勉学にいそしみ、科挙に合格してエリート官僚の地位を得る。チャイニーズ・ドリームの実現である。中央政界において有能な官僚として働き、皇帝に諫言する注目すべき上奏を行ってきた曾国藩であるが、1851年に勃発した太平天国の乱によって、彼の運命は大きく変わることになる。



太平天国と湘軍、洪秀全と曾国藩

太平天国を興した洪秀全は、曾国藩とある意味見事なコントラストをなす人物である。二人は同世代であり、移民の末裔という出自を同じくする。立身出世を目指し、科挙の受験にいそしんだことも共通する。だが、曾国藩がその夢を実現したのに対し、洪秀全は挫折し、その憤懣を糧に体制に不満を抱く分子を広く糾合して反乱を起こした。体制に受け入れられなかったという洪秀全のルサンチマンは根深く、儒教を捨ててキリスト教に走り、それを換骨奪胎して自らを天王とする異教を樹立する。この点も、科挙に合格して、純然たる体制教学たる宋学を信奉する曾国藩とはまさに対照的である。


乱の討伐が曾国藩に命じられた。彼は、地元の名望家である郷紳たちとのネットワークを活かし、団練という郷土の民兵組織を束ねて湘軍と呼ばれる自らの軍事組織を結成した。清朝の正規軍が頼りにならなかったがためにとられた苦肉の策だが、これによって事態は態よく中国南東部の局地戦となったかの観を呈する。本書の論述から浮かび上がるのは、曾国藩の孤軍奮闘の様であり、王朝の護持を天命と心得て砕身する一人の官吏の姿である。


岡本氏によれば、曾国藩はお世辞にも有能な将帥ではなかった。緒戦は湘軍の地元で戦われたにもかかわらず、率いる水軍は天候不順で大打撃を受けたのみならず、彼の用兵ミスも加わり、全軍総崩れの憂き目にあう。ここで曾国藩がとった行動を岡本氏に語ってもらおう。「曾国藩は、軍旗をおしたて、「旗を過ぐる者は斬る」と大書し、自ら抜刀して仁王立ち、敵前逃亡を防ごうとした。しかし兵卒はかれを横目に、旗を迂回してどんどん逃げてしまう」(96頁)。このような体たらくを前に、彼は次のような芝居がかった挙動に出た。


曾国藩は憤激絶望のあまり、悄然として歩き出すや、目前の浙江にとびこんだ。しかも二度にわたってである。左右の者があわてて救いあげて、どうにか事なきを得た。(同前)

 

絶望のあまりの自殺未遂事件であるが、岡本氏が記すように、主将がいなくなっては軍の収拾はよけいにつかなくなる。兵を率いる者としてあるまじき軽挙妄動である。しかも、この後も、戦況が悪化したなか、彼は同じような行動をとることがあった。「ひたすらマジメに、思いつめてしまう」という性格によるものなのか、それとも狂言的なパフォーマンスなのか。いずれにせよ、そのようなリーダーをもった軍隊は悲劇だし、歴史の観客としては滑稽の限りである。


悲憤慷慨を繰り返しながら、曾国藩は戦い続けた。いつしか10年以上の歳月が流れ、1864年7月についに湘軍は太平天国を追い詰め、滅亡させる。曾国藩は勝利したわけだが、そこに英雄の凱歌は聞こえてこない。本書から髣髴となるのは、中華文明の使い走りとなって小心翼々と戦い続けた一臣僚の姿である。このことを際立たせるために、曾国藩と洪秀全との対比をもう少し続けてみよう。



伝統にとらわれた個性

二人が移民の末裔という出自を同じくし、科挙の受験を通じて立身出世を夢見ていたことは前述した。曾国藩がその夢をつかみ、清朝のエリート官僚の地位を得たのとは対照的に、洪秀全は挫折し、その鬱積から自らの王朝を建て、清国に取って代わろうとしたのだった。


二人が示す興味深いコントラストは、彼らが率いる太平軍と湘軍とを見比べてみた時、よりいっそう明らかとなる。そこにまず認められるのは、相違点よりも相似点である。


まず、曾国藩と洪秀全が組織した軍勢は、地域性を色濃く帯びていた。ともに地縁をもとに成り立った太平軍と湘軍は、その存立の基盤は長江以南で増幅していた人口激増に伴う社会不安にあり、太平軍はそれに乗じて勢力を拡大していた。これに対して、曾国藩は自らのネットワークを駆使して、地元の郷紳の加勢を得ることで湘軍を組織し、太平軍に対抗しようとしたのである。両軍の出自は重なるところも多く、その戦闘はさながら中国南東部を舞台とする内戦であった。


似通っていたのは、両軍の地域性や人的構成のみではない。そこでは厳しい規律がともに支配していた。キリスト教を標榜する太平天国では、独特の宗教的原理主義に基づき、男女の隔離、土地の公平や分配、規律違反への過酷な処罰が行われていた。独裁者による神の国の実現である。他方で、曾国藩も審案局という特別警察機関を設け、匪賊の取り締まりを行うと同時に、自軍の規律の維持を行った。その峻烈さは太平軍の人後に落ちなかった。即時処刑の権限を与えられた審案局の手により、ひどい時には半年足らずで200人以上が刑死となった。曾国藩は「曾剃頭(首切りの曾)」と呼ばれ忌まれたが、彼は厳刑峻法をもってひたすら残忍になり、もって頽風を挽回するとの覚悟だったという。


このような太平軍と湘軍との性格には、ともに清朝の腐敗に対するアンチテーゼが指摘できる。太平軍は、弛緩し堕落した清朝の統治を前にした庶民の不平不満の高まりをエネルギーとしていたのだし、湘軍もそれをわきまえ、自ら身を正すことによって、支配の正当性を取り戻そうとしたのだった。


本書を通して浮かび上がってくるのは、同じメダルの表と裏としての曾国藩と洪秀全である。二人はともに、清国、否、中国文明が産み落とした個性だった。曾国藩は科挙を通じて出世の階梯を駆け上がり、洪秀全は受験競争に失敗したが、その結果やろうとしたことは、時の王朝に代わる新たな政権の樹立だった。そこでは、やはり科挙のような人材抜擢の制度が導入されていた。キリスト教の神を信奉し、儒教の徹底的排斥を行った洪秀全だったが、その世界観は中国の伝統的な思考枠組みを踏襲したものだったのである。彼が成し遂げようとしたことは、つまるところ易姓革命に基づく王朝の交替だったと言える。


中国の伝統的思考枠組みにとらわれていたという点では、体制側に位置していた曾国藩はもっと自覚的だった。彼にとって太平天国との戦いは、西洋の邪教に染まった文明の敵を殲滅することであり、「中国数千年の礼義人倫・詩書典則」を護ることだった。彼自身の言葉を引用すれば、「これ我が大清の変なるにとどまらない。開闢以来、名教の奇変なり。我が孔子・孟子は九原(あのよ)に痛哭せられていよう。およそ書を読み字を識る者なら、何もしないまま拱手坐視などできるはずはあるまい」(88頁)ということになる。


このフレーズを引きながら、岡本氏は、「儒学名教の維持を強調しながら、忠君勤王にふれないこと、つまり曾国藩たちにとって、護るべきはあくまで儒教であり、清朝の存亡は第一の問題でなかったことがみてとれる」(89頁)と述べている。次のようにも言い換えられようか。曾国藩において清国の正統性は相対化されており、真に護らなければならないものは、清国もそのなかに組み入れられている中国数千年の文明のかたちだったのである、と。そうしてみると、曾国藩も洪秀全も思想像としては一卵性のものだったと解することが許されよう。洪秀全は中国文明を継承する新たな国家を建造しようとした。曾国藩は中国文明を守護するために、既存の国家の歯車となった。だが、二人がともに中国という世界観の枠内において、その伝統的秩序を体現しようとしていた点においては、異なるところはないのである。



文明の傀儡たち――曾国藩、李鴻章、袁世凱

中国史における「英雄」とは、不易なる文明の型を演じる人物である。岡本氏の旧著『李鴻


章』、『袁世凱』を併せ読めば、なおのことそう考えさせられる。李鴻章は、曾国藩の高弟として師と同様に団練を束ねて自らの私兵・淮軍を結成し、太平軍と戦った。その後も彼は、西洋列強や明治日本という対外的脅威と対峙しながら、海防に尽くし、洋務運動を唱道した。慧眼な彼は、西洋主導の国際秩序による世界支配が世の趨勢であることを感じ取っていただろう。


しかし、それでもなお、李鴻章は中国文明を守衛する先兵に甘んじた。師である曾国藩の「末世に危を扶(たす)け難を救う英雄は、心力労苦(あくせく)を以て第一義とす」を地で行く生涯だった。かたや袁世凱は、洪秀全をもっと矮小化したような存在である。科挙に背を向け、武人としての経歴をひた走った彼は、革命の気運高まる清末のまさに末世に乗じてのしあがった。権力の座に就いた彼がとった行動は、西洋風の立憲政治など不毛な議論ばかりで実効性がないとして国会を否定し、自らが皇帝となることだった。

こうしてみてくると、岡本氏の中国近代史人物評伝三部作を通じて感得されるのは、中国文明の磁場の強さである。歴史が人物によって作られるなど不遜な考えである。歴史とは不動で、繰り返されるものであり、人知を超えた天の則なのである。歴史に組み込まれて生き、それを守護することが、中国における英雄の生きざまなのだろう。自ら秩序を構想して国家の制度を作り上げ、歴史を作り変えようとするなど、悠久な時空間を知らない朴念仁の考えなのかもしれない。さしずめ日本史を対象とする筆者など、そのように歴史の作り手となろうとした英雄や悪党のざらついた個性を嘆賞することしかできない呉下の阿蒙というところか。


*冒頭の司馬遼太郎の言葉としたものは、同氏の次の文章のうろ覚えだった。

「まことに、日本は陶芸については風変わりな世界を確立した。中国陶芸をみて、

「玉のようだ」

と感嘆できないのは、下地としての伝統をもっていないことにもよる。〔中略〕

 むしろ、日本の茶陶美学は、陶磁器に対し、強烈に感情移入して、そこに人格を見るという特徴をもっていた」。

(司馬遼太郎『越前の諸道 街道をゆく⑱』朝日文庫、1987年、235頁)


(たきい かずひろ 国際日本文化研究センター教授)

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