• 岩波新書編集部

新書で歴史を読む 第3回 小川幸司さん(長野県高校教員)

最終更新: 2019年8月14日


「新書で歴史を読む」第3回は、小川幸司さんにお話を伺います。小川さんは、高等学校の世界史の教員として、長らく教育に携わってきました。22年間の講義に基づいて書き下ろした『世界史との対話――70時間の歴史批評』(全3巻、地歴社、2011-12年)は、宇宙のはじまりからチェルノブイリまでを70講で描き切り、歴史を素材とした知の営みとして「歴史批評」を提唱、教育関係者の枠を越えて世界史に関心を抱く幅広い読者に迎えられました。



――2018年3月に高等学校の新しい学習指導要領が文部科学省より告示され、歴史教育にドラスティックな変化が起こるといわれています。いままでの歴史教育は何が問題だったのでしょうか。新しい歴史教育はどのようになるのでしょうか。


新しい指導要領の検討に当たっては、世界史教育の問題がありました。そもそも、世界史を高校での必修科目にする際の理想は、生徒が自分の生きているいまの時代を、世界史を学んだ視野でとらえなおし、これからどう生きていくか考える、というものでした。しかし、2006年に全国的な問題になった世界史の未履修問題が示すように、現実の教育現場は厳しかった。


私は、教科書が厚すぎること、厖大な量を生徒たちに教え込んで暗記させようとしていることが根本的に間違っているのだ、という問題提起を行いました(2009年度歴史学研究会大会報告「苦役への道は世界史教師の善意でしきつめられている」)。それは世のなかに少なからず衝撃をもって受け止められたようです。それまでにも同じようなことを主張した方はいましたが、私の提言は、世界史の教科書の中に盛り込まれている用語数がどれだけ増えてきたのかを具体的に数え上げたのですね。すると、高校生が覚えるべき用語が、50年間で約1,500から約3,500に、2,000個以上も増えたことがわかりました。それから、大学入試問題がとても難しくなっていることも、東大、京大の問題を過去にさかのぼって調べました。ここまで難しくする必要はないのではないか、と。理想と現実が乖離した、根の深い問題です。


暗記偏重になっている歴史教育、とりわけ世界史教育のあり方を見なおして再構築することをめざし、私自身も中央教育審議会の専門委員の一人として、指導要領の設計にかかわりました。新しい指導要領は歴史教育の大きな転換点になるだろうし、また、積極的に転換点にしていくべきなのだと思うのです。


どのような転換点か。一言でいえば、年号や人名や出来事を暗記するだけの無味乾燥な学びから、生徒が考えて自らの歴史像を構築する歴史教育へ転換する、ということです。これまで日本史と世界史を別の科目として勉強していましたが、二つを融合して近現代史を学ぶ「歴史総合」という科目が新たに加わることになりました。また、何を学ぶかというコンテンツベースだった学習から、歴史をどのように学ぶのか、学んだことをどう使うのかを重視するようになります。


新学習指導要領は2022年度からの実施なのですが、センター試験の問題などはすでに変わってきていて、以前のように暗記だけでは勝負できなくなりつつあります。変化はすでに始まっています。


本日は、「歴史総合」を教え、学ぶとき、教員と生徒双方に生き生きとしたアイディアを与えてくれる5冊をご紹介します。


――よろしくお願いします。


1冊目は、羽田正『新しい世界史へ――地球市民のための構想』(岩波新書、2011年)です。世界史とはどのような学問かを考えるうえで非常に参考になる、名著だと思います。


本書は痛烈な世界史批判から始まります。現在日本で学ばれている世界史は19世紀の国民国家成立期の世界観を引きずっている、一国史が束になっているだけだ、と述べます。国家や地域を乗り越えて、地球に生きる私たちが実現するべき共通の価値があることを考えるのが世界史のはずなのに、「世界に生きる私たち」という発想が、現状の世界史からは生まれてこない、と。


羽田さんは、世界史を描くときに「中心」を想定しないこと、筒状の国別に構築された歴史を乗り越えること、世界史は多様な描き方があってよいことなど、いくつかの斬新な発想に基づき、特定の時代の人間集団を横に並べて特徴を比較したり、人間集団同士の交流・結合を分析したりして、共時的な世界――いわば横にスライスした世界史の切断面――を把握し、それをレイヤーのように重ねていくことで、各国史の寄せ集めではない、新しい世界史を構築するべきだと主張します。


「歴史総合」では、近現代史の三つの大きな歴史の転換点に着目して、焦点化された通史学習を行います。18世紀後半からの「近代化」、20世紀前半の「国際秩序の変化と大衆化」、20世紀後半以降の「グローバル化」が転換点です。転換点の世界の共時的構造を3+αのレイヤーに重ねることにおいて、「歴史総合」の学習は羽田さんの主張に学ぶところが大きいと思います。


私たちはいま、国同士の対立が深刻化している時代に生きています。したがって世界が「ひとつではない」現実について高校生が学ぶことは必要です。それでも、一段上のレベルから見ることによって、対立を乗り越える道を見つけなければなりません。羽田さんの「世界はひとつ」という発想は依然重要だと思うのですね。過去に私は、本書を批判しつつ高く評価する書評を書きました(「「世界はひとつ」を語るのが世界史教育なのだろうか――羽田正『新しい世界史へ』をめぐって」『歴史地理教育』811号)。それは、羽田さんの主張が歴史学の根幹を問うていると思うからです。


「世界はひとつ」であり、また同時に、「ひとつではない」現実があります。それは、歴史を見る主体にはさまざまなレベルがあるということとつながっています。日本国民としてのまなざし、地域に生きる人間としてのまなざし、そして何よりも「私」のまなざしがあります。そのようななかで、国や地域を越えて「地球に生きる人間」として歴史を見るという位相があるべきであり、そうしたトレーニングがこれまでの世界史教育には決定的に足りなかったのではないか。だから私は基本的には羽田さんのおっしゃる新しい世界史に賛同しています。ただし、対立を乗り越えるためには、世界は「ひとつではない」という人間観に立った相互理解の作法も必要だと、私は考えています。


2冊目は、三谷太一郎『日本の近代とは何であったか――問題史的考察』(岩波新書、2017年)です。非常に多くの読者を得た本ですが、決して簡単な内容ではありません。しかし、高校生の歴史の学習をとても豊かにしてくれる書物であると私は考えています。


これまでの高校の歴史学習は、おおむね次のようなストーリーを描いてきました。イギリス、アメリカ、フランスが、世界に先駆けて市民革命、産業革命を行い、近代化に成功した。日本をはじめとするアジアの国々が後発して、それらの国々に追いつこうとした。日本の近代は、産業革命については上からの力で展開させたが、天皇主権という特徴をもった明治憲法や寄生地主制の成立などにより、古いものを払拭できず、政治と社会の近代化を完遂できなかった。それがアジア・太平洋戦争の悲劇につながってゆく――。


対して三谷さんは、19世紀イギリスのジャーナリスト、ウォルター・バジョットに学びながら、世界各地の近代は前近代と断絶するだけではなく、前近代のある要素をよみがえらせることによって革新を進めてきたのだ、と指摘します。日本においても、維新革命は王政復古によって前近代の要素、天皇をよみがえらせました。


考えてみれば、ルネサンスにしてもフランス革命にしても、革新は復古と裏表の関係です。まったく新しいアイディアが生まれるのではなく、それ以前の何かをよみがえらせて革新が始まり、進んでゆく。本書を媒介にすると、ルネサンス、フランス革命、明治維新がつながって見えてきます。


また、高校の歴史や法律の学習は、明治憲法と日本国憲法とを並べて、天皇主権と国民主権という対比でそれぞれの本質をとらえてきました。しかし、では天皇主権の明治憲法下で天皇が陣頭指揮を執ってどれだけ日本の政治を動かしてきたのかというと、その具体例は高校の教科書にはまったく出てきません。考えてみるとおかしなことです。


三谷さんは、維新革命の所産としての議会制の大きな特徴は、王政復古の理念の下で、権力分立制を実現したところにあり、権力分立制と天皇主権はコインの表裏の関係になるものであったと、実に鋭い指摘をされます。「不可侵」である君主に責任を問えないわけですから、実際の政治は分立した権力主体が担うしかありません。これはドイツ帝国の政治と似ています。その際の大きな問題点は、分立した権力を統合する制度的な主体を欠いていたことでした。権力統合についての制度を欠きながら、日本の場合は、まずは藩閥、つぎに政党というふうに、実体が移り変わってゆき、さらに1930年代に政党による議会政治を否定するものとして専門家支配が生まれました。


三谷さんは、1930年代に世界各地で共通して見られた政党政治批判の風潮が、日本においては独特の悲劇に突き進んだことを分析しています。近代日本のあり方を設計した明治の人々は、欧米におけるキリスト教、すなわち市民の精神的統合をはかる「市民宗教」にあたるものを、天皇制に見出しました。これが、政党政治を否定する軍部が政治を動かすときの非合理的なフィクションに利用されたわけです。三谷さんは、日本の隘路を「民主主義を欠いた立憲政治」と表現し、これは現代世界にも通じる課題であると指摘します。


つまり、近代を見るときに欧米と日本のどちらがより発展しているかという物差しで測らず、近代の政治がもったさまざまな特徴について世界各地の様子を比較し、世界に共通した歴史の特徴を緯糸、日本に独特な歴史の特徴を経糸にして、織物のような複合的構造を描き出しています。本書が権力統合の主体とか、政党政治否定の風潮とか、市民宗教といった緯糸の存在に着目しているからこそ、共通する歴史課題に立ち向かう各国の歴史主体の努力が見事にたちあがってくるのです。


「歴史総合」によって日本史と世界史と融合する学習が始まります。そのとき、「世界史はこうで、そのころ日本はこうでした」と、付け足しのように日本が言及されるだけでは意味がありません。まして、近代化を「追いかけた」「抜いた」というイメージで陸上競技のように語るのも不適切でしょう。大きな社会変革に際して、人々がどのような課題に直面し、どのように乗り越えようとしたのかに着目し、日本と外国とを比較しながら、どのように多様な歴史の描き方ができるのかを考えることが重要です。そのときの豊かな視点を本書は教えてくれるのだと思います。


3冊目は、木畑洋一『二〇世紀の歴史』(岩波新書、2014年)です。1870年代から1990年前後まで、木畑さんの言葉では「帝国世界」が形成・再編され、やがて解体してゆくまでの、長い20世紀についての世界史叙述です。エリック・ホブズボーム『長い20世紀――両極端の時代』は翻訳で上下2巻本ですから、20世紀を新書で描き切るという木畑さんの試みに敬服するばかりです。なんと、この一冊で「歴史総合」が扱う近現代史を一望することができます。


私は、本書の歴史叙述が、世界史の大きな流れをたどるのと同時に、アイルランド、南アフリカ、そして沖縄という三つの「周縁」における「定点観測」を組み合わせた工夫に感心させられました。国別の歴史を寄せ集めて記述が膨大になってゆく世界史を変革するとき、陥りがちなことは大国の動向のみに着目してしまう大国史観です。しかし、木畑さんは、帝国支配の形成・再編・解体を時間軸で縦につなげつつ、定点観測によって、あたかも羽田さんが提唱するような、横から輪切りにしたレイヤーによって、単に「中心」が「周縁」を支配するだけではなく、「周縁」の側にも「中心」の介入を招く相互依存関係や支配・被支配の重層関係があるという、「周縁」から見た世界史をいきいきと描き出しました。


本書は、第2次世界大戦後の世界史を帝国支配が解体する過程として見ます。イスラエルの「独立」や、インド・パキスタンの分離独立問題などに表れた、支配を終わらせようとする側の責任能力の欠如について、今日における世界の混迷を生み出した淵源として厳しく批判しています。そして、支配の終焉の過程でアメリカの「非公式の帝国」化や、植民地なき植民地主義のように、別の新たな帝国的なものが出てくる過程を描きます。そのうえで、木畑さんは、帝国支配は本質的には解体したと述べ、支配された側が被害を告発する動きが世界に広がってゆき、帝国支配が是認される時代ではなくなった、つまり抑圧された者たちが抑圧に甘んじる時代は終わったのだ、というところに力点を置きました。はたして帝国支配が本当に終わったと言えるのかについては学界に賛否両論ありますが、抑圧される側に立って歴史を特徴づけていき、後戻りできない正義の観念の確立に歴史の大きな画期を措定する本書の発想に、私は深い感銘をおぼえました。


さらに、沖縄では例外的に帝国支配そのものが終わっていないという現実が、最後に読者に突き付けられています。その現実を、どのように私たちの世界史認識につなげてゆくのかが、問われているのです。


20世紀の壮大な歴史を新書サイズに見事にまとめ、しかも、そのなかで世界史の中での日本をたえず問題化している、すぐれた世界史叙述です。


以上3冊が、新しい高校の歴史科目「歴史総合」の羅針盤になるような新書です。4冊目は少し見方を変えて、私が歴史教育を志す原点になった本、岡村昭彦『南ヴェトナム戦争従軍記』(岩波新書、1965年。のちに、ちくま文庫、1990年)です。


本書は、1962年12月から64年まで、南ベトナムの戦場、朝鮮戦争の傷跡が生々しい韓国、そしてふたたび南ベトナムに行って人々を見つめた、写真家によるルポルタージュです。1966年生まれの私が生まれる前に刊行された本ですが、ベトナム戦争の授業をするときには必ず取り上げてきました。もちろん写真は心に刻まれるようなインパクトのあるものばかりであり、さらに岡村さんの語り口が心に響きます。戦場カメラマンは往々にして文章の名手揃いです。そのなかでも岡村さんの文章に、私は大きな影響を受けてきました。


――本書はどのように歴史教育とつながるのでしょうか。


岡村さんが本書のなかで繰り返し言っているのは、何の罪もなく命を奪われていった戦争の犠牲者たちに、自分がカメラを向けることでその悲しみを世界に伝えてゆく、そのために命をかけるのだ、ということです。なぜそこまでするのか。まえがきの最後のところにこうあります。「つぎにめぐり会う日、おたがいにさらに絶望をくぐりぬけた人間として、やわらかく抱きあえますように」。そのために自分はカメラを向け続けるのだ、と。


このことは、私たちが歴史を学ぶということの意味につながっています。世界に命を奪われ、傷つけられた人々の悲しみがあるかぎり、私は私の方法で、悲しみをくぐりぬけた連帯を目指し続けたい。歴史の授業をやめるわけにはいかないと思うのです。世界史教員としての私の原点です。


――小川さんは、カメラの代わりに授業ノートとチョークを持ったわけですね。


教壇に立ちはじめてからしばらくはそうでした。のちに、ノートを手に生徒たちと世界史について「語り合う」ようになると、それで十分なことがわかりました。「教える」ためのチョークはあまり使わなくなったのです。これが最後に紹介する本の内容にもつながります。


5冊目は、暉峻淑子『対話する社会へ』(岩波新書、2017年)です。本書は歴史教育のあり方を考える際のヒントにもなる本です。


暉峻さんは、社会の中に対話が存在するということがとても大事だとおっしゃっています。「戦争・暴力の反対語は、平和ではなく、対話である」――名言だと思います――という世界観から、対話から社会を創造してゆくということの大切さを、さまざまな事例をもとに書いています。


歴史教育の話に引き付けますと、知識を教えこむのではなく、どのように歴史を描くかについて、教員と生徒が対話をしながら、ともに考える授業に転換することが最大の課題であると思っています。暉峻さんは、対話の条件として、結論を無理に出そうとしない、対話のプロセスで新しい発見や新しい思考を進めることに意味がある、ということを強調しています。歴史の授業こそそうなのだろうと思うのです。完結不可能性を自覚した、アイディアを育む培養地としての対話、そういう対話を授業の中で実現していきたいのです。教師自身も授業のなかで生徒と一緒に学んでいくのです。実は、本書の前に挙げた4冊は、どれも完結不可能性を持っています。対話に開かれている本だと思います。


――広い視野を持つ新書が必然的に持つ、さまざまな「突っ込みどころ」が、「歴史総合」には役立つ、ということでしょうか。


そうですが、もちろんそれだけではありません。広い視野と長い時間軸で物事を論じると、大きくて深い問題を扱うことになります。羽田さんの「世界はひとつ」は簡単なものではないはずです。三谷さんの「民主主義を欠いた立憲主義」は、1930年代の日本だけではなく現代の世界にも遍在する危機ですが、どうやって乗り越えたらいいかはこの本からはわかりません。木畑さんの本でいえば、沖縄の問題を抱える私たちが、これからの世界をどのように構想するべきなのかは見えてきません。岡村さんの世界の悲しみをどのように越えるかは、もちろんわかりません。


歴史家もわからない、高校教員もわからない。だから対話をしながらその先を考えていくのが、これからの歴史の授業だと思うのです。世界の問題を解決する唯一解はあり得ません。しかし、少しでも解決に動かせないか、そうした問いを授業の一時間のなかで探るのです。「歴史総合」がそのような試みになれば、と願っています。


歴史に限らず、現代の問題についての解決の道筋は一筋縄ではいきません。専門家だけで解決できるような問題ばかりではない。だからこそ、専門家だけではなく、一般の人々が誰もが解決のために考え、自分にできることをやっていくべきだと思うのですね。どのような人にも、大きくて深い問題を考える糸口を与えてくれるのが、新書だと思っています。


――本日はありがとうございました。


2018年8月26日、岩波書店会議室にて




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