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ロックダウンのロンドンで起きていたこと 森 旭彦

執筆者の写真: 岩波新書編集部岩波新書編集部

ロンドン・コーリング

〜芸大生になったライターの「ロンドン紀行」〜

番外篇1


3月18日、乗客の少ない地下鉄「ノーザン・ライン」の車内。ロンドン市民の情報源である「イブニング・スタンダード」紙のヘッドラインには「ロンドン中心部がウィルスのホットスポットに」という文字がある。

緊急事態宣言が出されるとともに、東京などの大都市圏ではよりシビアな行動制限が求められるだろう。ロックダウンに近い状況に陥る可能性もある。今回はロンドンのロックダウンの真っ只中で生活していた目線から、その実情について書いてみようと思う。

「破局的流行」には前触れがない

「私、今のバイト辞めようと思うのよね」

冬真っ只中の2月上旬、僕はサウス・ロンドンのエレファント&キャッスルにある大学の教室にいた。“僕”というのは、2019年からロンドン芸術大学に留学し、メディアスタディを専攻している大学院生だ。

昼食を終えて教室で暇をつぶしていると、クラスメイトのEが話しかけてきた。Eはウェールズ出身で、アート作品の売買とメディアの関係を研究していた。興味関心が近い僕たちは、よく議論をともにする親友だ。

「いまバイト何やってるんだっけ?」

「ファッションブランドのスタイリスト」

「そうだった。次は何やるの?」

「ナニー(子守り)の仕事でも探そうかなって思ってる。私には年の離れた弟もいるし。それに君はお父さんだから、いろいろ教えてよ」

「はは、いいよ。慣れたらうちの子と遊ばせよう」

2月上旬のロンドンでは、まだ僕たちはこんなにも何気ない会話に満ちた日々を送ることができた。1月30日にWHOが「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」を宣言し、国際社会に地鳴りのような緊張が走っていても、である。

大学で作品制作に大忙しになることもできた。僕たちはメディアスタディーズ、ジャーナリズム、フォトジャーナリズムなど、専攻の異なる学生たち5人からなるチームで共同のアート作品をつくり、4月の展示会で発表すべく大忙しで作業を進めていた。

僕たちはAIの持つ「偏見」に関する作品を制作していた。AIというものは、万能ではない。スマートフォンの顔認識や音声認識など、身近なものにも使われているが、AIは特定の人種に対し、不利益な判定をする場合がある。僕たちはそうした偏見を持つAIが社会で使われたときにどのような社会問題を引き起こすのかを、オンラインの「就活ツール」で表現する作品を制作しようとしていた。こんな突拍子もないアイデアをどうやったら実現できるのか。毎日、科学者やジャーナリストが出している論文や論説を読みこんで、チームで議論していた。

ロンドン芸術大学の学生としての刺激的な日常がそこにはあり、それは僕たち全てにとって、今は失われし愛すべき日々だった。

それに僕たちだけでなく、2月上旬のUKに住む多くの人は、パンデミックの危機感こそ持っていたものの、まだまだ他人事だった。僕自身も「流行している中国やアジアからは離れているし、今から水際対策がされればUKは大丈夫だろう」という根拠のない自信を持って日常を生きていた。UKの感染確認者数もゼロに近かった日々のことだ。



情報というウィルス

ロンドンにおいて、“感染”は身体ではなく心から始まった。

2月16日、キングス・カレッジ・ロンドンに通う友人から「ホルボーンの駅近くで日本人が嫌がらせにあったらしい」というメッセージが送られてきた。暴力にまでは至っていない、囲まれて嫌がらせを受けた程度らしいが、アジア人が「ウィルス扱い」されたという事実に僕たちは心を痛めた。多様な人種がバランスを保って共存できることは、ロンドンの最高の魅力のひとつだ。ブレクジットの一連の動きから移民に対する態度が硬化していたのは知っていたが、人種差別が自分と同じ人種を相手に起きたのはとても悲しかった。

人種差別は急速にエスカレートしていった。2月24日にはロンドンで中国系シンガポール人の男性が集団暴行を受ける事件があり、骨折した顔面をとらえた痛ましい写真とともに世界中のニュース番組で放送されることになった。僕たち日本人にとってもまったく他人事ではなかった。この時期から、僕は日本人の友人と飲む時には、できるだけアジア人の多いパブを選ぶようになった。「もっとも恐ろしい感染力を持つウィルスは情報なんだね」そんなため息まじりの言葉が、友人と楽しく飲んでいるときでさえ、口をついて出るようになった。

メディア研究としても考えさせられる時期を迎えていた。買い占めも、さっき書いたような“嫌悪攻撃”も、新型コロナウィルスに関連した社会問題は情報の伝わり方が原因で起きる。メディアの視点に立つと、「COVID-19」という名前がつけられることの重要性がよく理解できる。人々に勝手な名前で呼ばせておくと、嫌悪攻撃のような、生まれなくても良いはずの社会問題が多発して収拾がつかなくなるからだ。

歴史が教えてくれることは重要だ。たとえばHIV(後天性免疫不全症候群)は今でこそ正式な名称があり、理解も進んでいるが、かつては「GRID」という呼称がついていた。GRIDとは「Gay-Related Immune Deficiency(ゲイに関連した免疫不全)の省略形だ。この名称の影響で、ゲイの人々はひどい誹謗中傷にさらされ、おまけに血液を介して感染が広がる危険性すらも見過ごされ、人々が危険にさらされる結果を招いた。パンデミックのような社会的異常事態にこそ、メディアは間違った情報発信によって社会問題が生まれる可能性や、不利益を被る社会的マイノリティのことを慎重に考えなければならない。

2月には、UKのニュースチャンネルである「スカイ・ニュース」も、「チャイナ・ウィルス」と堂々とテロップに掲げており、複雑な気持ちになったのを覚えている。こんなふうにして、2月は「なんとなく嫌な感じ」がじわりと生活に浸透していくことを感じながら終わっていった。当時のUKではまだ、新型コロナウィルスによる死者はひとりも出ていなかった。


2歳の娘、朝帆と毎朝散歩に来ていた近所の「ヴィクトリア・パーク」。普段は近所の子どもたちがチョークで描いたかわいらしいイラストがある場所には「手を洗え(WASH YOUR HANDS)」の文字が書かれている。
朝帆が毎日遊ぶのを楽しみにしていた公園も閉鎖された。休憩で立ち寄る公園内のカフェでも、店主が「アンチ・コロナ!」といって手に消毒液を吹きかけてくるし、コーヒーを飲んでいるおばあさんが「黙示録のようだわ…」と震え上がる。そんな光景が、僕たちの新たな日常になった。

魔の3月

3月に入ると状況は不気味な展開を見せた。まるで鍋の底が抜けたようにイタリアで感染確認者数が急増したのだ。その実感は、ある日突然、閑散としたイタリアの観光地の写真がソーシャルメディアに溢れかえるという現象によって知覚された。

3月10日、イタリア政府は国内全域に行動制限(事実上のロックダウン)を実施した。イタリアは僕にとって深い縁のある国で、海外の友達の大半はイタリア人だ。何度も訪れたヴェネツィアやミラノの風景から人がいなくなった様子を見ていると、辛い気持ちになった。僕はすぐに友人らに連絡をとった。旅の途中で出会った人にも、Facebookを通じて連絡した。幸い僕の友人らはみな、無事だった。3月10日のイタリアの感染確認者数は10,149名。死者、631名だった。

それからイタリアでは、あっという間に1000人単位で感染者が増え、100人単位で人が死んでいくことが日常になった。あまりにも突然だった。イタリアで最初の感染者の報告があったのは1月31日。BBCの報道によれば、それ以降は2月20日までに2人増えた程度だ。非常に緩やかな変化で、誰も3月の様子を想定することなど不可能だった。「なにかとてつもないことが起きている」ロンドンの多くの人にも急速に危機感が広まった。

3月11日、WHOが事態を「パンデミック」であると宣言。パンデミックというのは、世界各地で同時多発的に発生した感染症が、人から人へと急速に伝染している状態のことを言うと初めて知った。

3月16日、イギリスで行動制限を含む政府の新方針が発表される。集会を行わないこと、またパブやクラブ、劇場などに行かないようにボリス・ジョンソン首相が直接、国民に要請した。BBCの報道によれば、検査結果による感染確認者数は1500人以上、死者が55人だった。

3月17日、大学からメッセージがあり、僕たちが制作していた作品は展示できないことが明らかになった。展示会が中止になったのだ。僕たちチームはおおいに嘆いた。また同時期にロンドン芸術大学の来学期の全講義がすべてオンラインに移行されることが決定。卒業制作展や卒業式も続々と中止・延期が決まった。


3月17日の、スーパーマーケットの新聞コーナー。この時期はまだスーパーには自由に入店できた。

参照記事:

ロンドンから人が消えていく

3月18日、僕はバービカン・センターにある友人のSの家へ出かけることにした。彼の家で楽しむ、親しい友人同士のディナーは僕の生活における精神的支柱だった。ハイゲート付近の僕の家からは地下鉄で約30分。地下鉄はからっぽで、車両には何駅もの間、僕しかいなかった。ロンドンの地下鉄は古い。いつものけたたましいレールの金属音が不気味に響いていた。

Sは料理好きで、その日もローストポークや自家製のレーズンバターなど、こだわりを感じさせる料理がテーブルに並んだ。仲間はみな、ロンドンに満ちた緊張感に疲弊していて、いっときの休息を求めて集まっていた。しかしSが電話ごしに友人としている話を耳にすると、仲間は神妙な顔つきになった。

「○○がさ、家に呼んだ清掃業者がコロナにかかってたらしくて、来れないって」

Sが電話を切って、ゲストがひとり減ったことを告げると、仲間たちから「うわあ…」という驚きとため息が漏れた。新型コロナウィルスは「親しい友人の友人」にまで広がっていたのだ。

僕たちはワインを何本か空けてディナーを楽しみながら、これからどのように行動するかの議論を始めた。この日集まったメンバーは僕をはじめ、フリーランスや自営業を営む人が多かった。そしてコロナウィルスの経済的打撃は、それぞれの仕事に容赦ない影響をもたらしていた。

「今年の仕事、ほとんどキャンセルだよ…俺」友人のMが力の無い声でそうつぶやいた。彼はアーティストとして仕事をしていた。

展示やイベントが軒並みキャンセルされるこの状況下ではアーティストは仕事を続けることが非常に困難だ。3月17日には、テート(Tate)、ヴィクトリア&アルバート博物館(V&A)、ロンドン自然史博物館(Natural History Museum)といった有名な美術館、博物館の休館が発表されていた。

また彼には僕と同様、妻と幼い子どもがいた。僕たちが共通して考えなければならなかったのは医療問題だった。イギリスにはNHSという国民保健サービスがあり、これには外国人である僕たち家族も加入しており、平常時は原則的には無料で医療サービスが受けられる。しかしこれからイギリスが直面するのは未曾有の異常事態だ。

3月16日、イギリス政府は大きな方針転換を行い、以降はロックダウンを推進していくことになるのだが、このきっかけになった、強烈な死亡者数の予測値がある。理工系の名門であるインペリアル・カレッジ・ロンドンの対策チームよる数量モデルで計算された数字だ。

まずなにも対策をしない場合、8月までに51万人が死亡する。次に、感染しやすい人および症状を持つ人を隔離することを含み、ウィルスの低速化を行った場合、死亡者は25万人。そして学校の閉鎖や社会的接触の低下、および隔離対策を含むウィルス抑制を行った場合の死亡者は2万人だ。

この強烈な数字がイギリス政府を動かした。いますぐに行動を起こさなければNHSが破綻し、医療が崩壊することは自明だったからだ。

そしてこの数字は、子どもを持つ親にとっては深刻だった。これだけの数の重症患者が病院に殺到すれば「命の選別」を行わなければならない医療危機が懸念される。避けられたとしても、もしも自分の子どもが、新型コロナウィルスを含む何らかの感染症にかかり、治療が必要になるようなとき、その命は救われるのだろうか――。

僕たちに残された選択は日本への帰国か、ロンドンでの忍耐かという不都合な二択だった。メンバーのうち2人はすでに帰国を決めていた。当時、日本は欧米から見ると新型コロナウィルスの第一波を食い止めることに成功したように見えていた。また、これからロンドンが直面するであろう事態を考えれば「まだ日本の方がマシ」という感触があった。

「とくにロンドンに居なくても良いのであれば、日本に帰ったほうがいい」

「このままロックダウンが進行したら、世界中どこの都市にいても同じかもしれない」

その日、僕は考えるのに疲れていたこともあって相当に酔っ払い、Sの自宅に泊まらせてもらった。「困ったときにはいつもここに来て、泊まらせてもらったな」と窓から見える寂しいロンドンの夜景を見ながら目を閉じた。

翌朝、オフィス街と高級住宅街が密集したバービカンを二日酔いで歩いていると、妙な感覚をおぼえた。静かなのだ。正確に言えば、そこにあるはずの音が、ないのだ。

「今日は日曜日だったか?」スマホを見ると、木曜日の朝だった。バービカンはもともと騒々しい地域ではないが、普段であればスーツ姿のビジネスマンがイヤホンで大声で会話をしながら通りを行き来するといった風景がある。平日の午前中にひっそりとしているのは不気味だった。オフィスにも人気がなく、通りにも人がちらほら見える程度。カフェで遅めの朝食をとっている人は男性ひとりしかいない。

「これからロンドンは、ロンドンじゃなくなる」

静まり返った地下鉄に降りて、僕は自宅へと向かった。

バービカン付近にあるアパレルショップ。「通常通り営業中」の文字と、誰もいないひっそりとした通りと店内。

生活が“戦時下”に

僕たちの家族にはひとつの美徳があった。それは「おいしい食卓で毎日を終える」ことだ。

家族にはいろんな問題が起きる。ケンカもする。自分たちの力ではどうしようもないことも起きる。でも、その日をおいしい食卓を囲んで終わることができれば、きっと次の日はがんばれる。僕はそう信じて、毎日キッチンに立っていた。

とくに週末のディナーには力を入れていた。フードマーケットで買ってきたさまざまな種類のチーズ、ロンドン近郊の牧場から生産者が直接売りに来る牛肉をつかったロースト、農家の人が手売りする野性味あふれる野菜をつかった料理をつくる。美味しい食卓で毎日をきちんと終えて、家族に明日を大切に生きていく力を与えていくことが僕の使命だと思っていた。

しかしロックダウンの状況下で、僕たちの日々は一変した。自宅からも近い、ハイゲート付近やロンドン中心部のあちこちで行われていたフードマーケットは軒並み中止された。気のいい店員がその日のおすすめを教えてくれる近所のワインショップは閉店。唯一オープンしている大型スーパーは、食材こそあるものの、入店制限が敷かれた。客は2メートル間隔を守り、黙ったままで駐車場に長蛇の列をつくり、約2時間かけて入店する。その風景は、戦争の中で配給を待つ人々の行列に重なった。


近所のスーパー「ウェイトローズ」に並ぶ人々。広い駐車場で人々が黙って2メートル間隔で並んでいる風景は異様そのもの。中には諦めて途中で帰る人もいた。

「こんなときこそ」と、夕食は気合を入れてつくっていた。しかし食卓で口をついて出るのは新型コロナウィルスの辛辣な状況の話ばかりだ。美味しい食卓で毎日を終えることが、日に日に難しくなっていく状況が続いていた。

僕はある日、自宅のキッチンで突っ立って泣いていた。僕には夢があった。ロンドンで家族と楽しく暮らしながら、留学を完了するという夢をずっと見ていた。卒業後はオランダに家族で移住するという計画も進行中だった。その最中に誰も予想し得ない、地球規模の危機的事態が起きた。いい夢を見ているときに、急にたたき起こされたような気分だった。

僕の家族はこの留学の中で、ここ数年間でもっとも団結していた。僕たちは昨年の12月からロンドンで暮らし始めた。僕は昨年の5月に渡英している。昨年は半年間、僕と妻の美紗子、娘の朝帆は離れ離れだったのだ。その間、美紗子とは何度も過酷な議論をしてきた。彼女は朝帆の面倒を半年間、必死に見てくれた。だからこそ僕は勉強に集中できたし、12月からのロンドンの暮らしは、そんな彼女にこそ、楽しんでもらいたいという気持ちが強かった。そして12月からの3ヶ月間は本当に夢を見ているかのように楽しい日々だった。

美紗子もイラストレーターをしながら、ロンドンという場所をつかった新しい展開を模索中だった。そして2歳の朝帆は、ロンドンの滞在中に劇的な成長をしてみせた。保育園に通わせるお金がなかった僕たち夫婦は、ふたりで子育てを分担していた。その状況を察してか、朝帆も協力的だった。わがままは言うけれど、「本当に手に負えない」という状況には至らなかった。

ロンドンで暮らすことは、僕たち家族の夢を少しずつ叶えていく時間だった。この夢が終わるのが悲しかったし、いつも家族に感謝しながら夕食をつくっていたキッチンには、強い思い入れがあった。料理をつくるたびに増えていった調味料や調理器具が、僕たちの本当に楽しく、豊かな生活を無言で物語っていた。

僕は美紗子と「忍耐か、帰国か」という不都合な二択を毎日議論した。まず医療問題の点から考えはじめた。すると家族3人のうち、娘の朝帆と僕の2人が高リスクだと分かった。朝帆は幼い、そして僕には肺を手術した経験があった。日本でも感染拡大が懸念され、医療崩壊の可能性もあるため判断は難しかったものの、勝手のわかる国に身を置いておいた方がまだましだろうという結論になった。

次に経済的な問題を考えた。ロンドンで家族で暮らすとなると、月あたりの家賃は20万円程度になる。これに税金や光熱費、食費などを加算すると、ロックダウン中であることを差し引いても、普通の生活をしているだけで30万円程度の支出になる。大学の講義がオンラインになった上、美術館や図書館などの文化施設も閉館し、自宅待機が義務化されるとなると、月額30万円という高額の支出を行いながらロンドンにいる理由はとくにない。僕はこうした事態も想定して、東京の自宅はそのままに残してあった。そこに戻って体制を立て直して、ふたたびロンドンに戻ってくればいいというのは、それほど難しい選択ではない。


「日本に帰ろう」

決断には時間がかかった。しかしもうそれ以外の選択はなかった。3ヶ月という時間の蓄積しかないロンドンで、人類が経験したことも無いような未曾有の事態に対処していくことは、僕たち家族には不可能に思えた。

「こんな戦時下のような状況じゃあ、僕たちの生活は、ますます悪くなるばかりだ」

3月21日、僕たちは飛ぶかどうかも分からない、日本行きの飛行機のチケットを取った。こんなに悲しい旅立ちは、はじめてのことだった。イギリスの感染確認者数は5,018名、死者は233名に膨れ上がっていた。



(つづく)

※文中でとくに表記のない感染確認者数、死者の数は www.worldometers.infoの数字を使用。



 * * *


森旭彦(もりあきひこ)

ライター。サイエンス、テクノロジー、アートに関する記事をWIRED日本版、MIT Technology Reviewなどに寄稿。2019年9月よりロンドン芸術大学大学院修士課程に留学。専攻は「メディア、コミュニケーションおよび批判的実践(MA Media, Communications and Critical Practice)」

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2018年1月19日 配信開始

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