• 岩波新書編集部

「No」と言わない英国人と「おはよう」が言えない僕

ロンドン・コーリング

〜芸大生になったライターの「ロンドン紀行」〜 連載第1回


森 旭彦


この記事を書いている7月6日、ロンドンではUK最大のLGBTQコミュニティによるパレード「PRIDE」が開催されていた。街中をレインボーのカラーが彩り、地下鉄の駅にこんなメッセージが掲げられていた。「ここロンドンでは、誰を好きになるのも、何になるのも自由」。LGBTQに関連したメッセージであると同時に、ロンドンにいるすべての人へのメッセージになっている。

「そういえば、君の国の言葉も間接的だったね」


月曜日の眠たい目をした学生が並ぶ教室で、ロバートが僕を見つめて話す。彼はロンドン芸術大学の語学スクールの講師であり、青い目をした英国人だ。


「間接的だったね?」と言われても、日頃から直接的か、間接的かを気にして日本語を話してきたわけではないので「え?」と聞き返してしまう。人は言葉でできている、とよく思う。言語を学べば、その国の人がどのようにできているかが分かる。薄々気づいていたが、英国人と日本人は似ているところがある。たとえば、ものをはっきり言わないところや、少しまわりくどいところ、あと「No」を言わないところが。



遠い国の似た者どうし


ロンドン芸術大学に入学してからだいたい1ヶ月が経った。修士課程のコースへ進む前に、僕の場合は約3ヶ月の語学スクールのコースを受講している。約4時間の英語の授業が週5日あり、たっぷり宿題や課題が出る。英語でのプレゼンテーションやディスカッションなど、イギリスの大学院で必要になる基本的なスキルを集中的に学んでいる。


語学スクールで教えられる英語は、これまでに日本で学んできた英語とはまったく異なるものだった。その特徴は「学問として英語を学ぶ」ことだ。


たとえば話し方だ。言語はコミュニケーションのツールであると同時に、その国の文化でもある。ロバートに言われて改めて気づいたが、日本人は間接的な表現をよく使う。つまり直接的なものの言い方をしない。的外れなアイデアも平然と「独創的だね」と賛美し、考えるつもりがなくても「考えておくね」とにこやかに言い、もう会うつもりもないのに「またの機会に会いましょう」と愛想を振りまくのが日本人だ。僕の生まれ故郷の京都ともなると、その表現はもはや芸術の領域に達する。


とにかく日本人は「No」と言い切ることを避ける。相手を気遣う姿勢であると同時に、どこかはっきりしない印象も受ける。そうして僕たちは「察する」という感覚を共有することで、表現された言語以上のコミュニケーションを行う。


英国人というのは、そんな日本人に似ているところがあり、とにかく直接的にものを言わない。彼らも議論やビジネスシーンなどのフォーマルな場で「No」と言わないのだ。「Yes, but..」などが「No」の意味になる。「はい」と言っていながらも、butの後で本当に言いたいことを表明するわけだ。


ディスカッションで自分が何かアイデアを提示したとき、「Ah... Your idea is brilliant... I've never thought about that...(素晴らしいアイデアだね。これまで考えたこともなかったよ)」なんて英国人がにこやかに言っているときは要注意だ。たいていそれは本音じゃない。その後に続く「but..(でも)」や「however(しかし)」の後に彼ら彼女らの言いたいことがくる。


話を聞いてほしいときも「Everyone, listen to me(みんな、聞いて!)」なんてことは言わない。「If I might say a word here(ちょっと言わせてもらえると)」や「Could I jump in here a moment?(ちょっといいかな)」といった、回りくどく控えめな言い方をするとロバートは教えてくれた。


こうした英国人の作法を知らないと一体彼らが何を考えているのかさっぱり分からないし、議論の核にいつまでも入っていけない。なぜそんなにまどろっこしいことをするのか。日本語においてもそうであるように、それが彼らの話し方であり、流儀なのだ。語学スクールでは、ここまで知って、英語を学んだことになる。


とはいえ英国人は困り者でもあるようで、議論を始めたらのらりくらりと「君の意見は一理あるが、こっちのほうが…」「それもいいじゃないか、でもよりドラスティックに考えるとだな…」といった調子で議論が一向に進まないことがあるという。思えばそんなシーンにも、日本でよく出くわしたような気がする。


ロバートの同僚でカナダ出身の講師は、英国人と議論をしている最中にみるみる鬼の形相となり、突然机を叩き「で、結論は? 英国人!」と激怒したという。


ロンドン市内の中心部を通るPRIDEのパレード。ポートランド・プレースからオックスフォード・サーカス、ショッピングストリートの代表として知られるリージェント・ストリートを通り、「ナショナル・ギャラリー」などがあるトラファルガー広場まで続く。


言葉とはシグナルだ


少し前に東京の本屋で平積みにされている本を立ち読みをしていたとき、英語の上達法に関する本を手にとったことがある。そこにはこんな趣旨のことが書かれていた。


「きれいに話せなくてもいい。丁寧語などは用いず、ブロークンでもいい。英語では、コミュニケーションするために行動することが大切」


こうした解釈には一理あるし、良い面もある。僕を含む日本人は英語が苦手である上に、完璧になるまで英語を話さない傾向がある。それゆえ、「下手でもいいからコミュニケーションをしよう」といった趣旨の英語上達法を説くのが日本流だ。そう諭されると日本の読者は安心することができるからだ。ロバートも「日本人はなぜか話す言葉が脳内で確定するまで黙っている傾向があるけど、あれはなぜなんだ?」と不思議そうな顔をして困っていた。


僕は英語というのは国際的な言葉だと思って使ってきた。歴史的なことはさておき、世界中の人と繋がれることが英語の長所なのだし「自分なりに話せてコミュニケーションができればいい」と思っていたところがある。実際にそうして海外で友人をつくってきた経験もあるからだ。


しかしロンドン芸術大学の語学スクールでは、ブロークンな英語を話すこと、ましてや自己流の実践を奨励しない。むしろ「自分はブロークンな、幼稚な英語しか話せない程度の教養しかない」ということをアピールするシグナルになると教えられ、ミスをするたびに徹底的に指摘される。主語を省略することなどありえるわけもなく、時制、人称が合っているか。立場が違う人に対して"Could"や"Would"を欠くことなどあり得ない。発音を間違えれば完璧になるまで復唱する。


「君たちはこれからアートやメディアなど、文化的で学術的な世界で生きていくことになる。それはときに、すべての人口の中のわずか2%のエリートの世界で生きることを意味する。これからは常に両手のポケットに言葉を分けて入れておけ。片方にはアカデミアの世界を渡るための、もう片方には日々を生きていくための。両方の言葉が大切だ」


英語には、一般的な語彙と学術的な語彙(academic vocabulary)とが存在する。たとえば、一般的に話し言葉で使う“help”はアカデミックな書き言葉では“assist”になり、“buy”は“purchase”になる。


言葉とは、コミュニケーションのためのツールであると同時に、自分と近い感性を持つ人同士に届くシグナルでもある。日本語でいいので想像してみてほしい。若い言葉やかっこいい言葉、かわいい言葉など、同じ日本語の中でもいろんな言葉がある。誰しも自分が好きで使っている言葉をよく話す人に対し「価値観が似ている」と安心を覚えるものだ。また、自分の知らない魅力的な言葉、新しい言葉を使いこなす人に好奇心やある種の憧れを感じる。


アカデミアやメディアの世界で生きるエリートたちも同じで、彼らは自分と同じ言葉を幅広く、さらによりクリエイティブに用いて話しているかどうかで自分が関わるべき価値がある人物かを判断する。彼らと深い知識を交換でき、交流してゆくためには、彼らが察知できるシグナルを出さなければならない。それが豊富な語彙(vocabulary)を持つ意味であり、語学スクールが教えている、学術的に有用な英語の真意なのだ。だからロバートは今日も「“get”などという幼稚な言葉を決して使うな」と吠えている。


ここまで読んで、ロバートがとても厳しい講師だと感じたかもしれない。実際、彼が厳しいことは間違いない。先日僕のエッセイが添削されて返ってきたが、“a”と“the”の抜け落ちを非常に細かく指摘され「料理における塩と同じで、大量に入れるとその料理の味を大きく変えてしまう。いくら良い料理をつくっても小さな間違いで台無しになることを忘れないように」と手厳しい。


しかし同時に、英国人らしいユーモアのセンスのある人物で、学生たちに絶大な人気がある。たとえば「“get”を使うな」と言った直後に、エリザベス女王に会った時のことを話してみせた。有識者や著名人が集まるパーティで、ロバートはエリザベス女王と挨拶する機会があったそうだ。


「緊張で僕の手は汗でベッタベタだったけど、さすがの女王陛下は僕のような輩のことはきちんと予測済みで手袋していたんだ」


と、クラスの笑いを誘いながら握手したときのことを振り返る。


「その時僕はたしかに聞いた。女王は“get”を使ったんだ。『ここまで来るのは大変だったでしょう(It takes long to get here)』という表現で確かに彼女はgetという言葉を使った。驚きだったよ」


女王はあえて“get”を使うことで、庶民と対話する姿勢を見せたのだろう。言葉の選び方と社会的な階級を考えることで、このエピソードの中での女王の意図が読みとれる。


僕たちはこうして、彼のユーモアに笑いながら、英語を学問として学んでいる。ユーモアを巧みに用いて常に学生を退屈させずに授業を進めるロバートの講義にはいつも驚かされる。彼の授業中に時計を見たのはこの1ヶ月で数回程度だろう。


女王といえば、PRIDEではこんな女王様も登場した。性別も、人種も、言葉も越えたパレードだ。ロンドンにおいては、LGBTQに対するヘイトも根強く、時折ひどいニュースが報じられるが、パレードに参加した人々はみな、明るく美しい未来を共有していた。


批判という創造


語学スクールでは、話し方だけではなく、書き方も学ぶ。大学院における評価で大きなウェイトを占めるのはエッセイや論文だからだ。


書き方の中で徹底的に叩き込まれるのが「批判的」であることだ。英国の大学においては、批判的ではない指摘は、それほど重要ではないと考えられるからだ。


批判に関する授業はライターにとっては感激もので、自分の文章スキルが根本から鍛え直されるような発見がある。英語としての文体について学ぶことが多いが、考え方の部分も多く、日本語の文章にも活かすことができる。ライターとして腕を磨くために留学するのはおおいに意味があると再確認した。その一端を紹介したい。


語学スクールの授業では、たとえばロンドン市内で開催されている、写真家であり現代アーティストのヴォルフガング・ティルマンスの展示に行き、ギャラリストへのインタビューなどを通してレビューを書くといった課題が与えられる。そのときに、ロバートは必ず「批判的に考えろ(Think critically)」と話す。


よく間違えて捉えられるが、批判というのは俗に言う「偉そうな態度」のことではない。つまりツイッターで人を罵倒したり、こきおろしたりすることではない。また、ゴシップや炎上に加担することを批判的態度とは言わない。


批判というのは、世の中にとって有用な視点をつくるクリエイティブな作業のことだ。


批判の具体的なプロセスは、分析と評価に大きく分けられる。よき批判を支えるのは、よき分析だ。物事を批判するためには、その物事を成り立たせている背景や、どのような議論が社会で行われているか、その物事におけるキー・プレイヤーは誰で、どのような関係性かといった詳細な分析が前提となる。


たとえば実際のメディアが出している展示のレビューを読んでみると、冒頭では印象的な言葉で読者を引き込みながら展示の概要が書かれ、序盤で作家の生い立ちやこれまでの経歴、作品の中で言及すべきポイントがまとめられている。該当する展示がどのように成立しているか、作家にとっての意義は何かを客観的に位置づける分析を行っているわけだ。


展示のレビューに限らず、新聞などでもそうだ。英国を代表する新聞メディアであるThe Guardianなどの書き方を見ていると、冒頭では事件や事象の起こっている全体像の説明があり、その後は関係者や有識者への取材、他の新聞メディアがどのように報じたかなどの事実関係を整理する報告を交えながら、客観的な分析・解説をしている。


そして評価とは、分析を行った上で、有用な指摘を行うことだ。その物事を社会のコンテクスト(文脈)と参照し「社会でまだ知られていないこと」「社会が知るべきこと」を有用だとして表明すること、とも言える。


大学のエッセイや論文で重要になるのが、アカデミックなコンテクストだ。つまり、過去に論文でどのように指摘されているかを言及し、評価する物事を通して過去の言及が有効であることを証明するか、反証するかの立場を明示する。


アカデミアの知見を適切に用いない、ただの思いつきを「面白い」と言っても、あっさりと否定される。「君は面白いかもしれないが、では君は数千年の蓄積があるアカデミアの歴史を否定するのかね?」ということになる。アカデミアに挑戦することはこちらでは推奨されていない。知識人の多くは、アカデミアの知見はゆっくりとしか変化しないことを知っているからだ。それゆえに、どの論文の言及を引用したかを記載するリスト、「Reference List」にも非常に重要な意味がある。


展示のレビューでは、世界の状況や社会課題を照らし合わせ、その作家の表現が現代の社会にとって意義があると伝えたり、あるいは美術史の中における「アート・ムーブメント」を引き合いに出したりして、その展示の美術界における意義について伝える。新聞などでは、類似する事件や事象、裁判における過去の判例などを引き合いに出して評価をすることになる。


こうしたプロセスを経て社会に新しい視点をもたらす思考そのものを「クリティカル・シンキング(Critical Thinking)」と呼ぶ。


ディスカッションなどにおいても同様で、人を辛辣な言葉で否定したり、まくし立てたりすることは批判的ではない。議論しながら、ひとりではたどり着けない新しい視点を生み出そうという姿勢のことを批判的と言う。


また、日本ではよく主観、客観という言葉が用いられ、主観的な表現というのは批判的ではないとされる。もちろん英国でも、書き手個人の感想などは不要で、客観的に論じることが重要と教えられる。しかし、僕は上記のスタイルを守って文章を書けば自ずとその内容は客観的にならざるを得ず、とくに主観、客観を考える必要は無いと考えている。


ロンドン芸術大学は、その名の通り芸術大学なのだが、アートの技術だけを学ぶ大学ではない。むしろアートを通して世の中を捉える方法を学んでいるという意味合いが強い。


こうして書いていて思うけれど、僕自身も上記の批判的な思考などについて、日本の大学や読書などを通して学んできている。僕は何も真新しいことは書いていないように思う。まだ来て1ヶ月だが、ロンドンで目にするメディアの記事を見ていると、名の通ったメディアでは、大学で教えられるこうした手法を踏襲し、洗練して記事が書かれている印象を受ける。社会における知の拠り所がシステマティックで分かりやすい。


しかし日本においてもロンドンにおいても、社会で有用な批判が適切に機能しているかといえば、案外そうでもなさそうだ。語学スクールの課題で、現在僕はフェイクニュースを取り上げているが、ますます有用な批判について考えさせられる時代に生きていると感じざるを得ない。メディアそしてジャーナリズムには、より重要な社会的役割が求められていくのだろう。


PRIDEのパレードの終着ポイントとなるトラファルガー広場周辺。普段は数多くの車が行き交う、観光名所でもあるこの場所ではステージパフォーマンスも行われ参加者の盛り上がりは最高潮に達していた。BBCの報道によれば、今年の参加者は150万人に達したという。


今日も僕は「おはよう」が言えない


慣れ親しんだ国を離れて生活していると、自分がとてつもなくひとりだということに気づく瞬間がある。


ロンドンの学生は毎晩パブに飲みに行って楽しんでいるイメージがあるかもしれないが、実際のところ、そのイメージはオフの休日のものだ。平日は大学の課題に追いやられるし、物価も高いので、飲み会は学生寮のダイニングで安いビールを空けて少し話すぐらいが多い。

現在は語学スクールだということもあり、週末に友人と外出する以外はほとんど自炊だ。毎朝毎晩、自分でつくって、ひとりで「いただきます」とつぶやく。


そんな日々を過ごしていると、ある日突然「おはよう」をふつうに言いたくなる衝動にかられることがある。「Good morning」ではなく「おはよう」という言葉の弾みのようなものが口にしたくなる。「おはよう」を日本の青空と、朝の空気を吸って、日本にいる親しい人、愛すべき人に言いたいと思うようになる。


地下鉄に乗って、仲良さそうに週末の予定について話をする恋人たちや家族の姿を見ていると、遠い日本で生きている自分の家族や友人は、何を思い暮らしているのだろうと考える。そして半年間、妻と娘を東京に残して留学する自分の選択は本当に合っていたのかと疑問に感じる。しかし連絡をしても、日本との時差は8時間。起きているときは、あちらが眠っていることの方が多い。


遠い国の孤独はときに心地よい。自分はもう過去とは何の関係もない今を生きているのだと自由を感じることができる。しかし日常の小さな孤独が積み重なっていくと、ひとりが耐え難いような重さになって押しかかってくる。たとえば帰り道の地下鉄の中などで──。


「君は美しい子だ。いいか、俺と約束しよう。君は好きに生きろ」


セントラルラインを走る、蒸し暑く薄暗い地下鉄の車両の中でレゲエミュージシャン風の黒人の男が話し始めた。


その日はベルギーのアーティストと進めていたプロジェクトが助成金の審査に落ち、大いに落胆していた日でもあった。なので彼の「好きに生きろ」という言葉は、地下鉄のけたたましい騒音の中でも明瞭な響きがあった。


彼はラッパーらしく小気味よく韻を踏みながら話す。きっと彼なりに優しく話しかけているのだろう。その男の視線の先、小指を握って指切りをしているのは、3歳ほどの小さな女の子だった。


「そう、たとえば科学者になりたければ、科学者になれ。あるいはもっと派手にいくとだ… おお、ワリいな。汚い言葉はだめだった。そうだな、プリンセスになりたければ、君はプリンセスになれ」


その男は「Fuckin'」という言葉を使って女の子に話しかけたことを隣にいる女の子の父親に詫び、握手を交わしてその手にキスをした。父親は「厄介なのに絡まれたな」という顔をしながらも、どこか憎めないこの男に、警戒しながらも優しく微笑みかけ「ありがとうね」と声をかけた。他の乗客たちも、彼をちらちら見てはその話しぶりに時折笑みをこぼしていた。降りていく人の中には彼に「すてきな言葉をありがとう」と小さく声をかけていく人もいた。


「世界から目をそらすなよ、いいな。約束だぞ。世界は君次第だ。君は美しい」


女の子はじっとその男の小指を握り、少し怖がりながら笑っていた。列車が次の駅に着き、ドアが開くと、女の子とその父親は降りていった。


僕はひとりで座席に座りながら、気づけば目に涙を浮かべていた。変わった男だったけど、彼の言葉に、あの女の子と父親、そして僕を含む周りの乗客が関わってひとつになれた。孤独な気持ちが少し和らいで、ほっとしたんだ。


地下鉄を降りると、空には深夜10時まで続く黄昏の空が広がっていた。


ロンドンでは時折、こうした何にも染まらない自分のスタイルを持って生きている人物と出会う。彼ら彼女らはみな、孤独ではなく孤高に生きている。


ひとりだと思っていたけれど、僕は地球でひとりぼっちのわけじゃない。この街に生きているひとりなんだ。そんなことを彼に教えてもらった気でいる。


彼の英語はとても拙い英語だった。ロバートなら間違いなく注意するだろう。でも、僕は彼の言葉をポケットに入れておこうと思った。


「世界は君次第だ」


いつか娘に言ってやろう。


(イラスト:森美紗子)


 * * *


森旭彦(もりあきひこ)

ライター。サイエンス、テクノロジー、アートに関する記事をWIRED日本版、MIT Technology Reviewなどに寄稿。2019年9月よりロンドン芸術大学大学院修士課程に留学。専攻は「メディア、コミュニケーションおよび批判的実践(MA Media, Communications and Critical Practice)」。


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