• 岩波新書編集部

新書で歴史を読む 第2回 松沢裕作さん(慶應義塾大学准教授)

最終更新: 2019年8月14日

「新書で歴史を読む」の第2回は、『自由民権運動――〈デモクラシー〉の夢と挫折』(岩波新書、2016年)を刊行した松沢裕作さん(慶應義塾大学准教授)にご登場いただきます。松沢さんは日本近代史専攻で、近世・近代移行期の村落社会史や史学史を研究されています。『自由民権運動』は、これまでの研究を幅ひろくふまえたうえで運動の新たな全体像を描き、話題になりました。




――松沢さんは『明治地方自治体制の起源――近世社会の危機と制度変容』(東京大学出版会、2009年)という専門的な研究書も刊行されています。新書は研究書とどのように違っているとお考えでしょうか。


同じ分野を研究している研究者同士のコミュニケーションに重きが置かれている研究書は、書き手の顔が見える必要はありません。しかし、新書の読者は圧倒的に数が多く、前提となる知識を著者と共有している人は少ないのですね。『自由民権運動』を書いた経験からも、新書は自分を出さないと書けないし、多くの読み手には伝わらないのだと考えています。「お前は何のためにこれを語っているのか」が出てこなければならない。そのとき、書き手と研究対象との関係、距離感がとても大事だと思うのです。本日は、そうした関係や距離感が興味深い4冊の新書を選びました。


――1冊ずつご紹介をお願いします。


1冊目は、大塚久雄『社会科学における人間』(岩波新書、1977年)です。





最初にいつ読んだのかは記憶にないのですが、最近、講義の準備のために読み直しました。このなかで大塚は、デフォーの『ロビンソン・クルーソー物語』を題材に、「ロビンソン的人間類型」、すなわち合理的な計算ができる自立した個人という類型の成立に、どのような歴史的背景があるのかを論じます。書かれている具体的な内容は、現在の西洋史研究の水準からは過去のものといえるでしょう。しかし、「ロビンソン的人間類型」を高く評価する大塚と研究対象との近さが、なぜ本書が書かれなければならなかったのかを語ってくれている。日本では「ロビンソン的人間類型」が一般的ではなかったということに重点が置かれ、戦後日本の社会科学が取り組まなければならなかった問題の切実さ、歴史家が対象と取り組むときの切実さを感じさせます。選んだ4冊の中でも、書き手と対象とが非常に近い1冊です。


今回読み直していて、いくつも深く考えさせられるところがありました。大塚は70歳のときに本書を執筆したのですが、キリスト者であった大塚にとっての信仰の大きさがとくに印象に残っています。あとがきに『新約聖書』を引きつつ「許しなくしては一羽の雀も地に落ちることのない、その御手の業をやはり強く感じるほかはありません」と書いているのが象徴的で、歴史家としての自分の使命をかけて書いた本なのだな、ということも分かります。


大学一年生に向けた経済史への入門の講義では、毎年、大塚とその業績を紹介しています。経済史を受講する学生、経済学部でこれから経済学を学んでゆく学生にとっては、それほど必要な知識ではないのかもしれない。しかし、過去の研究者がどれだけ切実に、人格を懸けて対象に取り組んでいたのかは、学生たちに知っておいてもらいたいと思っています。


――新書を読む、ということは、ある意味で書き手の熱にあてられながら読むということですね。客観的な記述だけではときどき物足りなさを感じてしまう。


そうですね。客観的な記述だけでは、研究者がなぜ対象に向かっているのかが読み手にとっては分かりにくいということがしばしばあると思います。ただし、そんなことばかりでもないのがわかるのが、2冊目の長谷川昇『博徒と自由民権――名古屋事件始末記』(中公新書、1977年。のちに平凡社ライブラリー、1995年)です。私が『自由民権運動』を書いたときに強い影響を受けた本です。


本書には、著者の姿は正面に出てきません。自由民権運動の研究者と対象との距離は近づきやすいのですが、本書では、対象への思い入れが語られているわけではなく、博徒が運動に参加するに至る過程をある意味淡々と、事実関係に絞って記述してゆく。鮮明な図式が打ち出されたり見事な解説がなされたりしているわけでもないのですが、しかし、歴史書のなかには、物事が淡々と綴られていることに引き込まれる、叙事の面白さのある本も確かにある。本書はそのようなものです。


「このテーマの資料を追い求めて、いつのまにか二十余年の歳月が経過してしまった。……もうこのテーマを避けては通れない運命的な関わり合いをもってしまった」とあとがきに書かれているように、絶対に書き残さねばならないという強い執念が、じつは著者にはあるのです。この本の中で行われている事実関係を明らかにする仕事は、じつはものすごく大変で、ちょっとやそっとで調べられるようなことではありません。長期間にわたってそれだけを追い続けなければ明らかにはできない。幕末維新期の社会の変化に翻弄される人たちの運命を、埋もれさせずに、正確に記録しておきたいという熱意がなければ書けない本です。熱意を秘めつつ、淡々と書ききっているところに、歴史書の一つの模範を見ています。


後進にその意味が十分には引き継がれずに研究史上に浮いていた本書を、私の『自由民権運動』ではあらためて研究史のなかに位置づけて論じました。余談ですが、私の新書を私の高校時代の恩師に差し上げたところ、彼の高校時代の恩師が長谷川昇さんであることがわかり、奇妙な縁も感じています。


そして3冊目は、池田嘉郎『ロシア革命――破局の8か月』(岩波新書、2017年)です。


この本を読んだときは、正直に言って嫉妬しました。ロシア革命という巨大な歴史的変革を一挙に描き切る力量があるんだな、池田さんには、と。くやしかったですね。


本書も対象を突き放して距離をとっているといえます。ロシア革命を突き放すときに最も簡単で思いつきやすいのは、レーニンを中心としたボリシェヴィキから距離を取る、ということでしょう。冷戦終結も遠くなった現在では、もちろんそう考える人が多いわけです。ところが、本書はそれだけではない。2月革命以降、自由主義者たちや他の社会主義者たちがどういう行動をとったかに焦点を当てるのですが、彼らにロシアを変えてゆく可能性があったのかという話すらしない。彼らは頑張ったけれどもあまりに力が弱くて、それ以前の歴史に規定されて、負けるべくして負けたことが克明に描かれている。


つまり、あらゆる勢力に対して冷たい記述なわけですが、それでもなお面白いのはすごいことだと思います。物事がどう起きてゆくかの描き方に大変な力量を感じます。それからこの本は人物描写が際立っていますね。レーニンとトロツキーの比較をするところなど、登場人物一人ひとりの姿が鮮明に描き出されています。


――「負けるべくして負けた人々」は、『自由民権運動』にも出てきますね。そうした人々の描き方に嫉妬を感じたわけですか。


そうです。破局に向かって急激にスピードを速めてゆく感じが、非常にドラマチックに描かれていて面白い。『博徒と自由民権』にもそういうところがありますね。本書にせよ『博徒』にせよ、読んでいると「歴史、なかなかつらいな」「歴史の流れって人間にやさしくないな」と思わされます。


池田さんはご自身の立場が鮮明で、「1917年のロシア革命が私たちに伝えるのは単純なことである。ひとは互いに譲りながら、あい異なる利害を調整できる制度を粘り強くつくっていくことしかないのだ」というのですが、このことをいうために、制度がまったく機能しない世界をひたすら描き続けるのですね。歴史家は研究対象に何らかの思い入れを持ったり、いいところを見つけたくなってしまいがちです。本書はいわば群像劇で、書き手は舞台全体を描く必要があり、個々人との距離は比較的取りやすいのだと思いますが、それでもなかなかここまで突き放すのは大変です。登場人物への愛がないわけではないと思うのです。しかし彼らに夢を見ない、彼らの営為から何かを救い出そうとしない潔さがあります。


――人物評伝というジャンルは非常に難しいとおっしゃっていましたが、それともかかわるお話です。


評伝は対象が一人です。また、歴史家の仕事は過去の誰かがやったことを伝えるということですから、伝えるに値しないと思った人物は対象には選びません。たくさんの人物のなかから選んで書くのですから、「こいつはけしからん」と思ったとしても、彼のしたことに何らかの意味があると考えているわけです。しっかりした座標軸を持って対象との距離を測らないと、書き手はすぐに自分を投影して、対象と「架空の友達」になってしまいます。


評伝の代表的な成功例として、たとえば、有泉貞夫『星亨』(朝日新聞社、1983年)があげられます。星という一見強面な政治家の弱い側面を丁寧に描きながらも、有泉さんの「地方利益誘導型の政治」という政治史的な枠組み、座標軸のなかに星という人物を位置づけることで対象との距離を保つことに成功しています。最後に星は暗殺されてしまうのですが、一篇の悲劇を見ているかのような印象を残します。


さて、最後の4冊目は、満薗勇『商店街はいま必要なのか――「日本型流通」の近現代史』(講談社現代新書、2015年)です。


満薗さんは1980年生まれの若い書き手で、通信販売、月賦販売などの研究を通して近代日本における消費のありかたを追究されています。すでに『日本型大衆消費社会への胎動――戦前期日本の通信販売と月賦販売』(東京大学出版会、2014年)という非常に密度の高い研究書を出されていて、その刊行後にさらに視野を広げて書かれたのが本書です。研究書を読んだだけではわからない、「なぜこのテーマを選んだのか」「このテーマのどこが重要だと思っているのか」ということを解説するかのように書いています。


本書は「百貨店」、「通信販売」、「商店街」、「スーパー」、「コンビニエンス・ストア」の5章構成になっていますが、タイトルが示すように、焦点は商店街にあわされています。商店街は単なる消費の場ではなく、売り手も買い手も同じ町に住んでいる、地域社会だといいます。そこでは一種のバランスの取れた流通、販売、消費が生活を成り立たせていたのだ、という趣旨ですね。「商店街という場において、消費の論理が、地域の論理や労働の論理と、ときに緊張をはらみつつも、総じてバランスをとりながら、モノの売り買いが行われてきた時代がありました」と評価しています。


その対極としてあげられているのがコンビニエンス・ストアです。コンビニのオーナーがフランチャイズ契約によって本部にいかに従属しているか、そこでの労働がいかに過酷なものか、消費者の便利のために商品を提供することで、地域や労働という領域とのバランスがいかに失われているのか、ということが論じられているわけです。そして281ページ。「実は、私の父は」と書かれ、ここで彼の実家がコンビニを経営していたことが明かされているのです。


満薗さんの本は対象に寄り添う、対象にとても近いと本だと思います。また、歴史学の現代性について自覚的に書かれている本でもあります。自分たちの生きているいまの世界がバランスを失っているという認識。現代に対する問題意識にもとづいて過去を再構成し、そこには現代と違うどういうあり方があったのかの探求。そこから現代と未来を見通す。われわれの立ち位置から歴史を見るとはどういうことなのかを身をもって示そうとしています。彼のいいかたでは、「歴史学の持つ可能性を信じ」るということですね。


――歴史学の現代性という点では、ご著書『自由民権運動』をどのようにお考えでしょうか。


私の新書は、2011年の東日本大震災、原発事故を契機に盛り上がった社会運動とその後を抜きには書かれなかった本です。脱原発にせよ、安保法制への反対運動にせよ、個々のイシューを取り巻く社会全体が先行きの不透明さへの不安を抱えていたのだと思います。不安を持つ人々が、不透明さに対して何らかのリアクションを起こそうとするところに、自由民権運動と非常に似たものを感じました。


そこでは、人々が新しい形での結びつき――私の本でいう「新しい袋」ではないですが――を模索する一方で、結びつきは排除をともなうので、「彼らとは違う、いっしょにしないでくれ」という話がいろいろなところから見えたり聞こえたりしました。民権運動末期の偽党撲滅の互いに罵り合うときや運動が最後にばらばらになっていってしまう成り行きに重なって見えましたね。極端なことをいう人や、本当かウソかわからない、情報を広める人も信じているのかどうかわからないような情報が運動の中で出てきてしまうというのも、不安を抱えた社会に生きる人々が起こす運動の共通の特徴なのだろうと思います。


――歴史を語っているのだけれども今を感じさせるのが、『自由民権運動』の岩波新書らしいところだと考えています。


あとがきに「本書は自由民権運動に冷淡にすぎたかもしれないと思う」、「その反面で、本書は自由民権運動に優しすぎたかもしれないと思う」と書きました。よくその真意を問われるのですが、民権運動だけではなく、いまの社会運動への私自身のアンビバレントな距離感が重ねられています。私に限らず、書き手は現在を生きています。書いている自分を意識すれば、書かれたもののなかに自分は必ず出てくるものなのだと思います。むしろ、どの程度自分を消さずに書くか、対象との距離を取り、自分がどこにいるかをしっかりと意識することが大事です。


――歴史を主題とする新書は一大ジャンルを形成しています。最後に、「新書で歴史を読む」ということについてお考えをお聞かせください。


現代の歴史学は、それぞれの研究分野が非常に高度化しています。研究のグローバル化が進んだために、外国史については、日本にいる研究者であっても主要な業績が英語やその国の言語で出る、ということも増えてくるでしょう。史料をあまり使わずにおおざっぱな図式を書いている時代、それこそ大塚久雄の著作であれば日本人の歴史研究者の誰もが読んでいた時代であれば、共通の枠組みがあり、読めば理解できました。しかし、たとえば今のイギリス史の研究者はイギリスの史料を使い、現地の研究の文脈で仕事をしていて、専門外からは簡単には理解できません。


西洋史や東洋史だけではなく、事情は日本史のなかでも同様です。近代史の研究者にとって古代史や中世史の研究書はハードルが高い。理解するために必要な前提知識が厖大にあるわけです。そのとき、新書というかたちで、その時々の研究の全体像が示されていると非常にありがたいです。知見を相互に交換して、日本の歴史学界全体の力をあげていくための手段として新書はとても重要なツールです。歴史研究者は、一般の読者だけではなく、隣接分野の研究者に対しても自分の研究を新書で解説する機会をもってほしい、と思っています。


――本日はありがとうございました。


2018年6月20日、松沢さんの研究室にて


B面の岩波新書

2018年1月19日 配信開始

発行人 永沼浩一

発行元 岩波新書編集部

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