ロンドン・コーリング
〜芸大生になったライターの「ロンドン紀行」〜
連載第3回
森 旭彦
8月30日、語学スクールの卒業と学生寮の引き払い、約3週間のヨーロッパ周遊の旅の準備を同日にやっていた僕は、つくづく自分の計画性のなさというものを反省していた。その日は旅に出る前に寮を引き払ってしまうため、親切な友人に荷物を預けることにしたのだ。
しかし快く引き受けてくれた友人のところに荷物を運び込み、部屋に戻って一息ついていたら、なぜか洗面所が手つかずのまま放置されていた。僕は絶句した、僕が映った鏡を見て、やっぱり絶句した。友人はもう出かけてしまっていて、その夜は戻らないという。洗面所の家財御一行様、まさかのヨーロッパ周遊旅行に同行することになった。
はじまりは無計画
洗面所のドライヤーやシャンプーやらをすでにパンパンになったバックパックに押し込んでいると、人生ってこういうところに出るんだろうな、と無計画の権化みたいになったバックパックを見て思った。まぁ何かの役に立つこともあるかと前向きに捉え直し、荷物や靴を部屋の一箇所にまとめ、早めの夕食をとって眠ることにした。
荷物がなくなった、がらんとした寮の部屋は妙に広く感じられた。窓の外には小さな星がいくつか瞬いていた。僕が出ていけばまた誰かがここに入居する。どこの国から来た、どんな人なんだろう。その人も、僕と同じように不安と希望を抱いてロンドンで生き、またどたばたとここから出ていくんだろう。学生寮の最後は、寒い秋の夜だった。布団のないベッドの上で、着慣れた革のジャケット1枚にくるまって眠った。
翌朝の8月31日、朝5時の列車に乗って、僕はロンドン・ガトウィック空港へ移動した。最初の行き先はデンマークのコペンハーゲンだった。ロンドンからコペンハーゲンまでは飛行機で約2時間。あっという間に北欧デザインで有名なデンマーク、コペンハーゲン空港だ。
友人との待ち合わせまで街をぶらぶらしようと思ったが、とにかく荷物が重い。おまけに暑い。ロンドンの涼しい気候に慣れていた僕は、耐えきれず、座礁するようにしてカフェに入った。「ブルー・バイク・カフェ」という名前だった。
「やあ、よく来たね。何にする? 今日は暑いね。ビールにするかい? 腹が減ってるんだったらサンドウィッチも美味しいよ。なんといってもうちのはパンが美味いんだ。あ、ビールはそこの、ノンアルコールのやつがあるから仕事中だったらもってこいだよ。サンドウィッチは、ほら、ここのメニューの…、えっ、君、日本人かい?」
とにかくよくしゃべる店主だった。しかし大歓迎だった。ロンドンは良くも悪くも非常に都会で、こんなふうに突然話しかけてくれる人が少ない。ロンドンは他人とわいわい話すのが好きな僕にとっては、少しさみしい街でもある。
しかし、ニコラスはよくしゃべる。サンドウィッチを頼んでビールを飲んでいる間も彼のトークは止まる気配はない。
「日本のものづくりの技術はすごいよね。ほら、このペッパーミルのフタの部分を見てみろ。このセラミックとプラスチックを圧着させる技術っていうのは、日本のとある工房しか持っていないんだ。仕事が丁寧なおかげで、この通り、20年以上使ってても大丈夫だ。ん? これ? ああ、僕の発明だよ。あ、はい、サンドウィッチだよ」
この店主はニコラスといって、カフェの店主であると同時にプロダクトデザイナーでもあるという人物だった。他にも認知症の患者の脳を鍛え直すためのゲームをつくっていたり、糖尿病の人向けに「インスリン」をいつ注射したかを知るための時計などをつくっている。糖尿病を患う人はインスリンというホルモンを注射しなければならないが、いつ注射したかを忘れがちになるそうで、多重注射や注射不足を防止するためのプロダクトだそうだ。
サンドウィッチを食べながら聞くにはあまりに内容の濃い話だったが、彼の発明はどれも非常に実用的でよく考えられていた。それにしても、たまたま入った店であんなにもデザインの国、デンマークを全身で感じられるとはラッキーだった。荷物は重かったけど、いい旅の前触れを感じながらブルー・バイク・カフェを後にした。
美術館みたいな本、プレソラ・マガジンと出会う
そもそもデンマークへの訪問は、編集者の親友が誘ってくれた取材のためだった。同日8月31日は『プレソラ・マガジン』というアートマガジンの取材だった。このマガジンは、70センチ✕50センチという超大判だ。ページをめくるとオフセット印刷の美しいアートワークが次々に現れる。面白いのは、このマガジンはいわゆる“美術書”ではないということだ。
「まだ写真の技術が存在しなかった頃、科学者がどんなふうにして顕微鏡で見た世界を観察し、保存していたかというと、彼らは絵に描いていたんだ。かつてはサイエンスとアートというのは、すごく近いところにあった。僕たちがやっているのは、アートマガジンという立ち位置で、それら過去の知の遺産を現代のコンテクストに結びつけることなんだ」
と編集長のピーター・ステフェンセンは語る。
たとえば「Automaton」、つまり機械化をテーマにした特集では、最初のページには、VRヘッドセットのようなもの(おそらくオモチャだろう)をかけた少年が映し出されている。1959年のモスクワで開催された「American fair in Moscow」という、万博博覧会のような催しで展示されていたものだとキャプションに書かれている。冷戦時代の“アメリカ展”というのも心くすぐるが、何よりも今でこそVRヘッドセットはおなじみだが、視覚を拡張することで新しい現実を作り出すという試みが、想像の世界の中では半世紀以上前にすでに存在していたということだ。
さらにページをめくると、17世紀のイタリアの画家・版画家であるジョヴァンニ・バッティスタ・ブラチェッリ(Giovanni Battista Bracelli)による、ロボットを思わせる素描が現れる。そのページのテキストには、眼前にあるテクノロジーというものはかつてユートピアとして構想されたものだったと述べる論考が綴られている。
ぼくたちはサイエンスやテクノロジーと言うと、科学者や起業家などの特別な人が突然現れ、突然生み出したものだと考えがちになってしまう。しかし人間の想像力は、遥か昔から、今に実現しているものを思い、それらを絵や彫刻として描いてきたのだ。サイエンスやテクノロジーによって形作られた今というものは、膨大な想像の中から生まれたひとつの可能性に過ぎないのだということに思いを馳せてしまう。
*Giovanni Battista Bracelliの作品はこちらでも見ることができる。
さて、出版関係者の方はお気づきかもしれないが、そんな大昔の図版が70センチ✕50センチの超大判、しかも高精細印刷に耐える解像度(むしろ当時の印刷には解像度という概念すら存在しない)を持っているわけがない。そこで重要になるのがアートディレクター、ベンジャミン・ウェルナリーの仕事だ。
「僕たちは美術館などから素材を調達するんだけど、それらは傷んでいたり、非常に小さいものだったりする。でも、どうしてもそれを載せたい、プレソラマガジンにこそ載せるべきという場合はある。その時こそ、僕の出番さ」
ベンジャミンの仕事は、アート作品の考古学者さながらだ。傷んでいる部分を周囲の背景から予測して修復する、解像度が低ければ耐えうるように細部を描き足していく。オリジナルの写真素材に映っていない背景を緻密に予測して描き足すこともあるそうだ。
彼がやっている仕事をいわゆる「レタッチ」などと言ってもらいたくはない。過去の作品は今でこそ解像度が低いと思われたりするが、当時の人々にとってそれらの作品は文字通り想像を絶する視覚的表現だったのだ。プレソラマガジンは、それら過去の知の遺産を、当時のインパクトのまま今に復元し、マガジンとして発行することにある。それゆえにベンジャミンの仕事は修復であり、そのためには考古学的な考えが不可欠なのだ。
僕自身が、サイエンスやテクノロジーについて書くライターでもあることから、プレソラマガジンに学ぶことはとても多かった。テクノロジーの便利さや、サイエンスの可能性を追いかけるのは素晴らしい。しかしそれが「便利の物語」だけに終始していては物足りない。というより、表現しきれていないことが多すぎる。僕らは「人間の物語」こそをこれからはつくっていくべきだと確信した取材だった。
人間の物語でできている街、コペンハーゲン
コペンハーゲンでは、どこに行っても、自分がそこにいることに何か意味のようなものを見出すことができた。東京やロンドンでは、街に自分がいても、大勢の他人のひとりだ。しかしコペンハーゲンでは違っていた。温かいというと語弊があるかもしれない。自分が自分でそこにいることができる街、とでも言っておこうか。
たとえば、9月1日には宿の近くのスカンジナビアン料理店に出かけた。注文し、料理を待っていると、なんとスピーカーから日本の音楽が流れてくるのだ。ただの偶然かもしれないけれど、僕は、僕がいたから日本の音楽が流れたものだと感じざるを得なかった。店員にすでに僕が日本人であることを話していたからだ。
料理を食べていると、60代くらいの元気な女性グループが入ってきて、少し訛った英語で店員に話しかけていた。店員はたちまちその英語がイタリア訛りだと気がついて「ああ、あなたたちイタリア人ね」と話しかけて、それからもずっとイタリア語で応対していた。
とにかくコペンハーゲンは、多様な人種が住まう街であると同時に、いっしょにいる人たち、たとえそれが一時の出来事であっても、その人の文化的アイデンティティを尊重するところが感じられた。
そしてコペンハーゲンでは、ソーレン・ソルカーという写真家に出会った。というか、友人に誘ってもらって、どうしたわけか彼の50歳の誕生日パーティに連れて行ってもらった。これも8月31日のことだ。
かつての火薬庫を改装したパーティ会場には、彼のお父さん、お母さん、いとこやら、彼の一族全員と友人たちが参加しており、ほとんど結婚式状態だった。おまけにコペンハーゲンの有名なミュージシャンが歌を披露しに来たりしていて、ただの通りすがりでお邪魔しているのが申し訳ないくらいに親密なパーティだった。
ソーレンは、主にミュージシャンのポートレイトを撮る写真家だった。パーティの後日、ちょうど僕がオーストリアへ旅立つ前日の9月4日、彼の自宅で話を聞きながら作品集を見ることができたのは、一生の中でも数えられるほどしかないと思える、特別な時間だった。
マライア・キャリー、U2、オアシス、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、ビョーク、ホワイト・ストライプス、レジーナ・スペクター、アークティック・モンキーズ、アデルなど、90年代から2000年代にかけてのミュージックシーンで活躍した数多くのアーティストを彼は撮影してきた。僕は彼の写真集に載っているアーティストの音楽を聴きながら学校に通い、友人と出会い、失恋し、クラブで踊り、パーティをして、仕事と出会い、電車に乗り、都会の夜景に孤独を重ねて生きてきたのだ。すべてのページに、生き生きとした音楽が溢れている、そう感じさせてくれるポートレイトだった。
写真集を見ながら僕はソーレンにこんなことを尋ねてみた。
「この写真集に載っている人はみんな僕のヒーローみたいな人なんだけど、これだけのスーパースターにカメラを向けているとき、一体何を考えてるの?」
野暮な質問かなと思った。でもどうしても聞いてみたかったのだ。スーパースターと、カメラと、彼。3つが直線上に並んで、シャッターが切られるその瞬間に、彼は一体何を考えているのかを。すると彼はページをめくる手を止めて、とくに深く考えもせずにこう答えた。
「その人の作品の、一部になることを、ひたすら考えてる」
うまく撮ろうとか、よく見せようとか、そんなことは一言もなかった。そして、もっとも腑に落ちた一言だった。
彼は写真集にサインをして、僕にくれた。300ページ近くもある、大判の、豪華な装丁の一冊だった。
彼にはきっと世界のどこかでまた会う気がした。そしてこの写真集はきっと一生、僕の本棚にあり、何かに迷ったときに開く一冊になるのだろうと思った。
◎気まぐれ更新。今月の一枚
僕の奥さんはイラストレーターをやっているので、この連載の絵をときどき描いてもらうことにしている。奥さんはまだロンドンにいないし、いつも一緒にいるわけではない。なので僕のやってそうなことを予想して描いてもらうことにしている。
僕は空港で、周囲の人を見て過ごしていることが多い。空港にいる人、というのは世界中のいろんなところから来ていて、一見つかみどころがないんだけど、全員が何かの「途中」にいる場所だ。空港では自分を含めみんな、どこかへの移動の途中なのだ。それは楽しい旅行への途中だし、長い別れの途中でもあるだろうし、あるいは、新しい出会いや生活に向けての旅の途中でもある。ワクワクしたり、さびしかったり、何かの途中にいる人間の感情は、どこか不安定で愛らしい。なので空港では周囲の人の会話を聞いたり、様子を見たりして過ごしている。
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森旭彦(もりあきひこ)
ライター。サイエンス、テクノロジー、アートに関する記事をWIRED日本版、MIT Technology Reviewなどに寄稿。2019年9月よりロンドン芸術大学大学院修士課程に留学。専攻は「メディア、コミュニケーションおよび批判的実践(MA Media, Communications and Critical Practice)」
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