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  • 執筆者の写真岩波新書編集部

新書で歴史を読む 第4回 岡本隆司さん(京都府立大学教授)

更新日:2019年8月14日

「新書で歴史を読む」第4回は、岡本隆司さんにお話を伺います。『李鴻章』『袁世凱』(岩波新書)をはじめ、『近代中国史』(ちくま新書)、『中国の論理』(中公新書)、『日中関係史』(PHP新書)など数多くの著作で知られる岡本さん。近年ではご専門の中国史からさらに視野を広げて、『世界史序説』(ちくま新書)といったお仕事もなさっています。



――歴史に関心をもったきっかけは何だったんでしょうか。その中で新書との出会いはどんなものだったでしょうか。


原体験は小学生の頃に読んだ歴史読み物だったと思います。池波正太郎だったかな、時代小説の作家が子ども向けに物語り風に書いたもので……中学くらいになると、そういう物語・小説も読んでましたが、永井路子の史論あたりに影響されたんでしょうか、フィクション・作り話よりは、むしろハードな歴史学のほうに向かっていきました。それで、中公文庫の『世界の歴史』『日本の歴史』シリーズなども手に取って読んでいましたが、書いてあることばがずいぶん難しかったことを覚えています(笑)。今からふりかえりますと、もちろん内容がキチンとわかっていたとは思えません。


でも、子どもの頃から勉強が苦手だったのですが、歴史だけは得意でしたから、知的に背伸びして、ナマイキにそんなことをやっていたのでしょうね。もともとは日本中世史が好きで、そこから西洋中世史へと関心が広がっていきました。いま専門の中国史に手を伸ばしたのは、実はさらにもっと後のことでしたね。


新書を読むようになったのは高校生のときからですが、おそらくそんな知的な背伸びの流れでしょうか、やはり歴史のものをまず手に取りました。ただ、今と違って新書の種類が少なかったし、岩波新書や中公新書は難しくて歯が立たなかったものもたくさんあります。一流の学者・研究者がものしたものですから当然なんですが、それだけに難しかったものほど、印象に残っていますね。だからなんでしょうか、今も新書には、どこか憧れの存在、知的な背伸びという印象があります。


そのせいか、レベルの高い学術的議論が読みやすく書かれている本に出会ったときの嬉しさは格別です。日本史だと、早くに読んだものでは、大石慎三郎『元禄時代』『大岡越前守忠相』(岩波新書)が面白かったですね。父母がいつもテレビで時代劇の「忠臣蔵」とか「大岡越前」をみていて、わたしも幼少期から題目には親しんでいましたから、通俗と学術の隔たりに感激したりしてました。


『大岡越前守忠相』と『元禄時代』(著者所蔵)

ずいぶんあと、大学生になってからでしたか、高橋富雄『征夷大将軍』(中公新書)、ふつうに「将軍」なんていっているのとは一線を画していたのが、とても印象的でした。とにかくはじめて読んだとき、漢語にドイツ語のルビが振ってあったのが強烈なインパクトでしたね。


西洋史だと、増田四郎『ヨーロッパとは何か』(岩波新書)が記憶に残っています。中世史ということで、学問的にはこうみるのか、って感激の記憶ですね。またこの頃はE.H.カーをはじめとして、翻訳が多かったですよね。とくに西洋史では、私だけの所感かもしれませんが、そう思いました。大学の専門で歴史を勉強するようになってから、クリストファー・ヒル『レーニンとロシヤ革命』(岩波新書)やアルベール・ソブール『フランス革命』上下(岩波新書)などを読んだ(読まされた)のも覚えています。それぞれに歴史そのものの一コマをなした歴史家たちですが、そんなこと、当時は何も気づかないままだったのは、お恥ずかしいかぎりです。


『ヨーロッパとは何か』(著者所蔵)

あと、新書の良さはテーマや著者で芋づる式に読書が広がっていくところ。私も卒論のためにアヘン戦争について学ぼうと、最初に岩波新書の吉岡昭彦『イギリスとインド』を読み、そこからさらに加藤祐三『イギリスとアジア』を手に取ったりもしました。中国史ということで、大学の課程で漢文ばかりやっていたのですが、そこから世界に目を向けた第一歩だったかもしれません。のちに加藤先生には、親しくご教示いただく機会もできましたが、もちろん当時はまったく思いも寄らなかったことでして、憧憬ばかりつのらせていました。


――ひと口に新書といっても、レーベルごとにカラーがあります。岩波新書も青版で中国史をたくさん扱っていました。


やはりブランドというか、「岩波新書でしょ」という意識が、当時は私にも世間的にもありましたね。だから架蔵も、岩波の青がいちばん多かったです。それに中公新書と講談社現代新書が続くというような。ただ、講談社現代新書から出たシリーズ新書東洋史、新書日本史・西洋史は、大学院受験の必読文献とされていまして、現代新書に親しむようになったのは、むしろそれがきっかけだったかもしれません。


中国史に関して言うと、青版の岩波新書からは、新中国に寄り添いながら全体史で捉えようという気概が強く感じられます。もっともそれが必ずしも成功していたとも思えませんが……。たとえば吉川幸次郎と貝塚茂樹の著作がたくさんあり、私も一通り読んだのですが、これがつまらない(笑)。でも、すごいベストセラーだったですよね。今から見ると、うらやましい時代でした。一方で中公新書は、岩波新書とは違う独自色を出そうとしていたというか。同じ頃に三田村泰助『宦官』や宮崎市定『科挙』『水滸伝』を読んだところ、やっぱりこっちだなって。ただ、こういう本は、大学生になって東洋史の勉強を始めてからどんどん面白さが分かってきたという気がしますね。そのおかげで「貝塚茂樹はつまらない」と自信をもって安心して言えるようになったわけです。

――岩波新書には青版、黄版、そして現在の新赤版以外にも、戦前の旧赤版というものが存在します。その頃のラインナップはどうご覧になっていますか。


「岩波新書の『香港』が香港を知るにはいい」と教えてもらったことがあるんですね。黄版の岡田晃『香港』のことだと思ったら、「違う。赤だ」と。赤なんてあるの? と思って古本屋に行ったら、小椋広勝『香港』が見つかった。読んでみたら、圧倒的に面白い。それが最初です。


そこから旧赤版のラインナップを調べると、津田左右吉(『支那思想と日本』)もあれば、尾崎秀実(『現代支那論』)もある。どれも面白そうだ、これは集めねば、……と勇躍したものです。特に殿木圭一『上海』は、その後の研究で論点になるような問題が網羅的に既に取り上げられていて驚きました。また、『香港』『上海』ともに、同時代の眼で書かれたものが時を経ると歴史になるのかということも教えてくれます。ほんとうに専門ということで、この2冊と何幹之『支那の経済機構』は徹底的に読みました。


鹿野政直『岩波新書の歴史』でも指摘されていますが、「中国を知らなければならない」という問題意識が前面に出ているラインナップ。そのせいで当局にも目を付けられていたということ自体、すごいですよね。スタンスやテーマなど、その後の岩波新書のラインナップと合わせ鏡にして見てみると面白いかもしれません。


岡本さんが所有する旧赤版の3冊。1938年の創刊から1946年まで101冊の「赤版」が刊行された

――旧赤版には今でも流通している書目があります。たとえば『現代支那論』は昨年復刊しました。


左は1939年に刊行された『現代支那論』。右は2018年に復刊された5刷

尾崎秀実の本は難しいですね。私も旧版を持ってますけれども、はじめ読んだ時は、途中でウンザリして投げ出しました。こんなものを復刊した版元のねらいや意味を、逆に知りたいところです(笑)。思想はもちろん、言葉遣いからして、今の若い人にはチンプンカンプンじゃないでしょうか。


ですが、文面もふくめ、強烈にその時代をあらわしていますから、時代を感得するには恰好の素材でしょうね。むしろ史実を知る資料ともみることができます。それは今も愛読書の何幹之の本なんか、史料であると同時に、現代中国の経済・社会も考えさせてくれます。


そういう意味では、中国関係の旧赤版は、今やむしろ岩波「文庫」向きなんじゃないんでしょうか。古典・史料の扱いですね。たとえば、クリスティーの『奉天三十年』とか……。たしか文庫になってたものもあったかと思います。


――研究者としての道を歩む途上で、新書の歴史を再発見していったわけですね。研究者としての岡本さんは多くの著作を刊行してきましたが、はじめて新書を書かれたのは『李鴻章』になります。


研究者の道に進むと、新書は読み手としての「憧れ」の対象というよりも、むしろ書き手としての「憧れ」の対象になってきました。というのも、学術論文や学術書を出版し、学界でもそれなりに議論ができるようになってくると、次のステップとして自分の学問を世の中にどう伝えていくのかということが課題となってくるからです。私にとって幸運だったのは、憧れていた媒体から、憧れのテーマでお誘いをいただけたということでしょう。


書き方については悩みました。例えば学部生のころでしたか、専門でありながら歯が立たなかった岩波新書に、島田虔次『朱子学と陽明学』、島田先生の直弟子にあたる狭間直樹『中国社会主義の黎明』があります。いずれも、頑張って読んだんですが、学術論文のような書き方でしたから、当時は知識がついていかなかったのでしょう。のちに両先生に親しく教えてもらうようになりましたが、いまでもすべてわかったか、といわれると心許ありません(笑)……。それで私の場合も、こんなふうに書かなければいけないのか、とやや疑問に思い、躊躇するところもありました。でも、担当編集者に相談したところ、新書の読者もかつてと様変わりしていることもあり、旧青版の東洋史学のような難しい書き方は止めようということになったんです。


まずは読みやすく書こう、つまづかないで颯爽と歩くように書こう、もちろんクオリティは落とさないで……、というのが目標でした。だから、最初にワーッと記憶で書いてみる。その後に事実確認を徹底して誤謬をなくしていくという作業を、ピストン運動のようにやっていくような方法を今でも続けている気がします。もちろん、このような書き方は、それなりの蓄積があるテーマでないとできません。幸いにも今までの執筆依頼は、そのあたりをよくご覧になっていただいているなと感じ、ありがたく思っています。


――たとえば最近の新書は、分厚かったり、網羅的な参考文献が付いているものも多いです。でも岡本さんの『李鴻章』も『袁世凱』もコンパクトですし、参考文献も思い切った形の書き方になっていますね。


新書の楽しみの一つは、先にもお話しした芋づる式の読書にありますから、参考文献がその助けになるのは事実です。でも、参考文献を羅列的に並べていくのは学術書の方法であって、非専門家の読者と対話するときに一番役に立つのは、この本はいい、この本は駄目と言ってあげることだと思うんですよね。いつも学生さんと接している時のやり方ですし、自身も一歩専門の外に出れば、一般と同じまったくの門外漢です。そんな人種が専門にアクセスしやすいようガイドするのが、新書の一つの役割だと思うのです。にもかかわらず、参照したら玉石混淆でもいいから全部並べるというスタンスは、少なくとも現代の新書については、ちょっと違うんじゃないかなと思っています。このことを中公新書の方と話していたら、やっぱりウチは岡本さんに嫌われていた、なんて、笑いながらおっしゃってました(笑)。たしかに厖大な文献リストをつけた著作が、あそこには少なくありません。


本当は禁書目録みたいなのを私は作りたいんです。この本はダメ、これはこういう理由で読んではいけない、引いてはいけない、使ってはいけない、とハッキリ言ってあるものの方が、門外漢の読み手には役に立つような気がするから。ただ書き手には、これはなかなかできない。下手をすると誹謗中傷になりますし、書物というのは何かしら、どこかしら、取るべきところはあって、全否定の内容のものも、めったにないですから。


だったら、そうしたらぜひこれは読んでくださいという少数精鋭を丁寧に薦めていく方が、書き手の読み手への向き合い方としては正しいのではないでしょうか。個人的な読書は、しょせん独断と偏見なのですから、責任をもって判断を下す、というスタンスは、この情報過多の社会では、かえって必要不可欠だと思います。


書くのに苦労したのは『袁世凱』ですね。あとがきに書いた通り、嫌いな人を書くという本でしたから。ただ、書いていくにつれ肩の力が抜けてきて、おもしろくなってきましたが。あとは史料が多いという部分もありました。中国史では、史料・史実に忠実に書くだけで、イメージ・評価の一変する人たちが少なくありません。そのへんが日本史や西洋史とは違うところでしょうか。われわれからみれば、新書という媒体はそんな知見を一般にお知らせ、おとどけするという意味でも、有用かと思います。


2011年刊行の『李鴻章――東アジアの近代』と、2015年刊行の『袁世凱――現代中国の出発』

――読み手としても書き手としても新書を知り尽くした岡本さんが、読者に歴史の面白さを伝えるための「はじめての1冊」をお勧めするとしたら、どんな本になるでしょうか。とりあえず5冊挙げていただきました。


私は教科書が嫌いなんです。教科書然としていない、どこか斜に構えた。他とは違うことが書いてあるものが好きでした。そんな人間が選ぶ入門的な書目です。かなり偏っていると思いますし、参考にならないかもしれませんが……。しかしそれも含めて、やはり自分に正直だということが、知的な営みでは重要だと思いますので、遠慮なく。それに、いわゆる中国史がないので怒られそうですが、ここではあえて広く歴史モノという括りから挙げたいと思います。


岡本さんが「はじめての1冊」として選んだ5冊(すべて著者所蔵)

①間野英二『中央アジアの歴史』(講談社現代新書)

 ~東西ではなく南北


これは講談社現代新書の新書東洋史シリーズのうちの1冊、中央アジアの歴史を扱った本です。それまでシルクロードに象徴されるような東西交渉史という形でしか扱われてこなかった中央アジアについて、むしろ南北の争いが重要なんだと強調し、ティムール帝国が作られていく歴史をたどっていく。このようなテーゼは学界でも論争になったようですが、学部生の自身にとっても、とても新鮮なものでした。少し前に「世界史」を書いてみるなんて蛮勇をふるえたのも、このテーゼに則ってのことですので。三つ子の魂百まで、みたいな感じですね。


②藤沢道郎『物語イタリアの歴史』(中公新書)

 ~イタリア史は列伝でないと書けない


それまであまり関心のなかった地中海に目を向けさせてくれた本ですね。この本は列伝体で書かれています。こっちは中国史ですから、紀伝体に慣れていますので、やっぱり共感できたというのもありますし。国民国家のなかったイタリア史でそうなり得る、っていうのが、なるほどな、と。藤沢道郎はそれまでにモンタネッリの『ルネサンスの歴史』を翻訳しているのですが。その中でモンタネッリがイタリアルネサンス史は列伝体でしか書きようがないと言っているんです。おそらく、これをモチーフにされていたのだな、と芋づる式の読書で気がつきました。もっとも、「列伝体」っていう翻訳は、藤沢のことばですが(笑)……。


③木村尚三郎『歴史の発見』(中公新書)

 ~近代は神話


それと対になるのがこの本です。列伝体ではなくて、まったくの社会論・構造論。イタリアとフランスのちがいなのかもしれませんし、地中海と西欧とのちがいかもしれません。先にあげた増田四郎『ヨーロッパとは何か』に続く本でもあります。東洋史では、近代とは一体何なのかということが、時代区分論という形で議論されてきました。それを西洋の歴史から見たらどうなんだろう、ということを教えてくれるのがこの本です。とにかく面白い。


④田代和生『書き換えられた国書』(中公新書)

 ~今にもつづく日朝関係史


自分の研究で日朝関係や中朝関係を扱い始めたとき、ようやく真剣に読んだ本ですが、これは日本人は読まないといけないでしょう、というものですね。特に朝鮮半島というのを理解する上で。あるいはそれと合わせ鏡で日本列島を理解するという意味でも。歴史を学ばなければいけない、ということを痛感させてくれる内容です。これを中国史・近代史からとらえかえせば、どうなるか。それがわたしの生涯のテーマになりました。


⑤E・H・カー『歴史とは何か』(岩波新書)

 ~古典はやはりこれ


E.H.カーの本はソビエト・ロシア史が専門です。その部分にはなかなか歯が立ちませんが、『カール・マルクス』は私も大好きでしたし、そもそもイギリスの外交文書をよく読むので、カーの文章にお目に掛かったりするので、近しい存在ではあったりするんです。それもあって、カーの著作はそれなりに読んでいるつもりですが、中でもこの本はやはり外せないと思います。いま歴史学をめぐって議論される多くの論点は、既にここにあります。また清水幾太郎の翻訳が流麗ですね。あんなややこしい講演を、こんななだらかな日本語に訳している。しかもカタカナ語がほとんどない。


――新書はやはり面白くないといけないと、いうこだわりを感じます。


そう思います。その意味で、これぞ教養新書! と思う一冊は、谷澤永一『百言百話――明日への知恵』(中公新書)です。


なぜか叔父が、著者のサイン本をくれたんです。叔父は関西の普通のサラリーマンでしたが、サントリーとか開高健のつながりだったんでしょうか、どういうわけか、谷澤永一に会い、サインをもらう機会があったらしいんです。私自身は谷澤氏とお目にかかる機会は一度もないままでしたし、この本が自分にとって、別に読まねばならないものではありません。ただ研究に疲れた、執筆に疲れた、雑務に疲れた、……浮世に疲れたときに、ふと眺めてみることがあります。歴史・文学・時事風俗など、ありとあらゆるジャンルから引っ張ってきた章句とそれについてのコラムが、見開きワンセットで100個、全部でちょうど200ページ。いくつか賛成できる部分もあるし、ちょっとと思う部分もたくさんある。でも、この本にアクセスしたのをきっかけに、いろいろな本を読んだりもした。こんなに引き出しがあるのかと感銘も受けた。とにかく勉強になる。しかも、それぞれに面白い。


著者のサインが入った谷沢永一『百言百話――明日への知恵』

よくよく考えて自分の専門に立ち返ってみると、中国ではこのような本が普通に存在するんです。中国の知識人・文人は基本的にジェネラリストですので。例えば中国の昔の文人で言うと、顧炎武の『日知録』なんかがそうでして、これは物知りになれます。そういうものが手軽な新書で出てくれると、いわゆる教養に我々がアクセスしやすくなります。短い読み切りのエッセイが体系的にまとまっているという形式も、現代的な風潮にあっている気がします。教養新書として目指すべき一つの姿ではないかと、せっかくの機会なので言っておきたいと思います。それを書ける人が今どれだけいるかという問題はありますが。とても自分では書けないと思いつつも、いつかは書いてみたいとも思っています。新書への憧れが今でも続いているのかなという感じです。まだまだ背伸びを続けていきたいですね。


近年の新書は数もレーベルも増え続けていますが、内容も方向もちょっとパターン化・マンネリ化しているのではないかと危惧しています。売れているものの中には、専門家もふくめ、本に慣れた眼からみて、何が面白いんだろうと思わざるを得ないものがたくさんあります。そういう本がいつまで残るのかなという気もします。でも、そういう売れ方をするのが、とりわけ最近の新書という媒体の特徴なのかもしれませんね。ただ、それだけじゃないっていう部分が、むしろ新書の真面目ではないかと思いますし、このご時世に紙媒体の新書が生き残っていく核を考える必要があります。そのためにも、新書の歴史もふりかえることに価値があるではないでしょうか。


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