• 岩波新書編集部

根本美作子:近さと遠さと新型コロナウイルス

最終更新: 5月26日

父が亡くなった数日後だったと思う。悲しみに浸っているはずが、妙な感情に心がざわついた。力強いその感情に当惑し、注意してみると、それは怒りだった。父に対する怒りだった。簡単に言えば、「なんだ、死んじゃったりなんかして、ふつうの人にすぎなかったんじゃん」、存在していたものが存在しなくなるという圧倒的な経験 に慣れはじめると同時に、いつのまにかそんな非難を心のなかで父に向けていた。


わたしにとってかけがえのない人であった父は、死ぬことによって、父もまた一人の人にすぎなかったということを教えてくれた。


自分もまた一人の人にすぎないということ、地球上に何億といる人の一人、これまで地球上を過ぎていった何千億、これから過ぎていく何千億の人の中の一人にすぎないということを実感することほど、人間にとって難しいことはない。


それほど近さの原理が人間の感性と知性を支配している。近ければ近いほど、そのものは特別で、絶対的で、大切だ。そして自分に最も近いものは自分だ。



新型コロナウイルスは自分もまた一人の人にすぎないという原則をつきつけてくる 。もちろんそこに人間社会に固有なさまざまな付帯条項があっというまに付随してきて、たとえば手を始終洗ったりすることのできない野宿をする人や、レジでたくさんの人と接触をしなくてはならないレジ打ちの仕事をしている人と、大学教授で普段とそれほど変わらない生活を隔離状態でつづけながら、オンライン授業をどうすればいいのだろうとぼんやりと考えている人では、ウイルスを前にして同じ一人の人にすぎないと言い切れない事態が派生してくる。


それでも原理原則として、世界中でどの人もいま、自分はほかの人と同じように新型コロナウイルスにかかって死ぬ可能性があるということを認識し、ウイルスを前にして、自分もまた単なる一人の人にすぎないということを理解しているだろう。我が国の首相や、一部の極端に想像力の欠けている国家元首を除いた人類の大半が、いま、死の恐怖を前にして、結びついている。もし自分も他の人と同じようにウイルスにかかるかもしれないという意識で人類に結びつくことができていない人がいるとしたら、 自分の近さの呪いから早急に解かれるよう想像力を鍛えるべきである。


今回のこの悲劇は、人類という共同体の輪郭をはっきりと浮かび上がらせた。それは共同体性が、頭で理解できるようになったというだけではない、それが、現実として体験できる、そういう経験としてまず今回の危機をしっかりと捉えたい。


ピエール・パシェというフランスの作家をわたしはずっと研究しているが、彼のもっとも稀有な特徴は、個人というものの重みを損なうことなく、個人個人がみな同じたんなる一人の人にすぎない、le premier venu(どこにでもいる人)[1]にすぎないということをつねに念頭に置こうとしつづけた点だ。彼の作品は、この徹底した民主主義を語り続けている。


彼がこよなく愛した哲学者シモーヌ・ヴェイユによれば、人間は神のイマゴとして自分を「世界の中心に位置していると想像している」。けれども人間は神ではないのでこの想像は幻覚にすぎない。だから「この想像上の中心の位置」を諦めよとヴェイユは説く。それも「頭だけで諦めるのではなく、魂の創造的な部分で」、そうすれば「現実に目覚めることができる」というのだ。「想像の中で世界の中心であることを諦めること、そして世界のすべての点を中心として見極めること」[2]、この不可能な精神訓練をパンデミックは束の間、可能にしてくれているのではないか。もっとも自分に近い自分を、遠くのものとして据え置くこと。近さの原理を撹乱する力をパンデミックはもっている。その意味で革新的な危機なのではないか。



数字の脅威と毎日直面するのが、まずそのいい訓練になる。日々増えていく感染者数、死者数、そこから割り出される死亡率。年齢別の重篤になる率、さらにその死亡率。多くの人間が、自分はそれほどの死亡率ではないと胸をなでおろす。しかし近さのもたらす幻覚から目を覚ませば、その2%のなかに自分は入らないとは誰にも言えないのだ。特別な存在として感じられるこの自分もまた数字に含まれる誰かにすぎない。しかしそれだけでは足りない。 ヴェイユの言うように、自分の中心性を麻痺させるだけではなく、世界のすべての点を中心として見渡すことが必要なのだ。遠くの人も、自分と同じようにかけがえのない存在であるということを感得することは容易ではない。そこにはヴェイユの言うように「魂の想像力」が必要なのだろう。


新型コロナウイルスが私たちに見せつけてきたのは、この人間の遠近に対する限界でもある。危険が間近に迫ってきてはじめて人間は危険を自分のものとして、 現実としてとらえることができる。いくらウイルスは人間を差別しないとわかっていても、 アウトブレイクが中国やイタリアという遠い国で起こっている限り、人の想像力は麻痺し、自分も死ぬ確率はあるけれども、それはまだ数字にすぎず、私という人の問題ではないと思ってしまう。



各国の対応はその点できわめて興味深かった。自分の本当に足元まで危機が迫らないと反応できない国が、あまりにも多かった 。台湾や韓国、シンガポールの例は、政治的想像力を駆使した見事な例だった。しかし、日本のように近くにいながらいかなる想像力も発揮しなかった国もあるとはいえ、これらの国はやはり距離的に中国に近い国々だ。それに対して欧米諸国はどうかといえば、そうした国々にとって中国はどうしても地球の裏側なのだ。欧米のメディアでも、その後このことは自覚的に反省された。


ここにはジオポリティクスの長い歴史の影響も見られる。東洋では、19世紀なかば以降、欧米の方を常に向くという姿勢がずっと身についている。自己植民地化した日本という国では、中国の状況よりも、イギリスやフランスの状況のほうが身近に感じられることも多いのではないか。一方、西欧諸国にとって、中国は大国であり、もはや切っても切れない経済的パートナーであるにも関わらず、そこで発症した新型コロナウイルス感染が、自分たちの生を脅かしにくるのだと、「魂で」想像することはできなかった。アジアはヨーロッパにとって依然、遠い存在である。実際、西欧諸国が、韓国や台湾の対応の仕方に注目しだしたのは、イタリアでの隔離が本格化しようとした3月10日以降ではなかっただろうか。


マスクの例もまた如実に、ジオポリティクスの歴史を物語っている。今日4月8日、ようやくフランスもマスクの使用を義務付ける決断をしたようだ。それまで長い間マスク装着の有効性が疑われていた。いまでもたしかに、FFP2ではない普通のマスクで感染を防ぐことは難しいとされている。しかし、感染者の飛沫が散らないという点で、皆がマスクを装着することの有効性が認められたようだ。マスクの使用は、個人というものの尊厳と尊重を最優先させ、公共という概念のもとに個人が集う開かれた社会を目指す西欧において、異様なものと見做され、これまで受け入れられてこなかった。そのマスクがアジアで有効に使われているのを見て、はじめてフランス人も、大きな心理的ハードルを克服しながら装着しはじめたようだ。


ヨーロッパがアジアを範としたのはこれが初めてかもしれない。そしてこの数日で、台湾と韓国の対応を見習うべきであるという趣旨の記事がアメリカでもヨーロッパでも増えているし、政策も確実にその方向に進んでいる。



遠いアジアではじまった感染を自分たちの問題として捉えることのなかなかできなかったヨーロッパであるが、隣国でもまだ遠すぎたようだ。人間のこの遠近感の限界はそれほど近視眼的なものであることが、今回ほど痛切に感じられたことはない。イタリアが隔離政策をとりはじめたのは3月8日だったが、その前後から隣国フランスへの忠告が各種メディア [3]で、そしてSNS上で盛んに送られた。しかしフランスが隔離を決定するまで一週間以上かかった。隣国で起こっていることは、まだ遠いのだ。


その理由を厳密に考えるのは難しい。フランス人にとって、隣りのイタリアで起こっていることは、中国で起こっていることよりはずっと身近なはずである。それでもなかなか自分たちのこととして、事態に対処することができなかったのは明らかだ。多くのイタリア人が、いつものフランス人の傲慢を嘆いた。イタリア人にとっては、フランス人が自分たちの医療システム、緊急事態対応はイタリアよりも十全であると考えているようにしか見えなかったのだ。それに対して優越感に悩まされないギリシャは、早くから隣国イタリアの苦境に学び、迅速な対応で被害を抑えることに成功しているようだ。


ここでもう一つ注目に値するのは、国という、現代の世界を構成する動かしがたい制度だろう。今回、人々は、国という制度なしに新型コロナウイルスと迅速かつ効率的に対決することが不可能であるということを、否が応でも感じずにいられなかったのではないだろうか。人々を組織し、統括し、監視すると同時に、そこにいる人々を良かれ悪しかれ守る制度、単位。


国はたしかに国の中にいるものの距離を縮め、国の外にいるものとの距離を広げ、遠近感を歪ませる。しかし無能なだけではなく、腐敗し、データを改竄する政府を戴き、国が国として機能しない日本で暮らしている私たちこそ、制度としての国の必要性をいま痛感していないだろうか。先にアウトブレイクを経験している国の情報をいち早く集め、それをもとに医療システムを急遽、事態に対処できるように指示を出し、マスクや医療機器が不足しないよう生産システムを確保し、隔離でなければ自粛でもいいが、その経済的弊害によって生活が困窮する人々に当面の便宜を図るもの、それが国ではないだろうか。その国が立ち行かないから、いま日本人はそれぞれが適当に情報を集め、適当に対処するしかないのだ。この場合、この国の国民がもとからマスクと手洗いと自粛と他人恐怖症的な習性をもっていたことは、幸せなことだったのかどうか、いまとなってはわからない。そのおかげで、何の政策もない状態で、かなり長い間ひどい感染率にならずに済んできたことは、今後の経過次第で、人命という点でも民主主義という点でも、必ずしもめでたいことではなくなる可能性が大きい。


そんな国だから、ヨーロッパの「ちゃんとした」指導者たちの政策に多くの日本人が妙な警戒心を催しているようだ。国単位の政策に、ナショナリズムの発揚を読み取ろうとしてしまうのだ。もちろん、対コロナウイルスの情勢を悪用して、排外主義的な動きが出てくることはハンガリーの例をみても否定できない。しかし、今回の各国の処置(国境封鎖と隔離)そのものを排外主義的と評することはあまりに性急な議論である。ほとんどの国の人にとって、新型コロナウイルスは外からやってきたものだ。このことを認めることが排外主義につながるわけではない。外国からの帰国者を犯罪者のように見立てる報道を流す日本のメディアこそ排外主義に汚染されているし、またそうした報道に妙な罪悪感を覚えた帰国者がいたとしたら、それはそれで日本はまことに気の毒な国と言わざるを得ない。「魂の想像力」がないのだ。あなたが特別に感染したのではなく、誰でも、 感染するのだ。


この国では、国というと国民とすぐ考えてしまう。しかしヨーロッパの国々がいまそれぞれ打ち出している取り組みは、決してそれぞれの国のパスポートを持つ人だけを対象としているわけではない。その国にそのとき存在している人たちすべてを対象としている。だからこそ、移民やホームレスへの支援がいち早く要請され、国側もそれにできるだけ応えるような方策を編み出している。隔離された市民が、夜、その国の国歌をヴェランダで唱えるとき、そこに暮らしている外国人も一緒に歌う気になるようなヒューマニズムの土壌がそこにはあることを忘れてはならない。外国人であっても、フランスやイタリアの病院で、コロナで緊急治療室に入れてもらえるだろうし、恐ろしい命の選別も、その人の国籍ではなく、年齢などの助かりそうな条件によって行われるだろう 。もちろん、近親者の多さなどといった基準が考慮されるような場合は、外国人であると損をする可能性はあるだろうが。


いずれにせよ、現状の世の中では、国が強いリーダーシップ、つまり責任をとる人のもとに統一されなければ、パンデミックと戦う術がないということが、日本の例をみれば明らかではないだろうか。そうした国の権限を危機の名のもとに擁護することを、父権主義の猛威として批判するフェミニストもいる。しかしいまこの世界で、国という制度が対処しなければ、日本のように人々は為すすべもなく、不安を抱えながら毎朝満員電車に揺られて生き続けるしかないのではないだろうか。



マクロン大統領が「戦争」という言葉をテレビ演説で6回も使用して国民に呼びかけたことで、内外でさまざまな議論を呼んだ。その正当性についてここで考える紙幅はないが、一つだけ注釈をつけておきたい。フランスは21世紀に入って激しい分断を抱えており、日本のように忖度ですべてが治まってしまうような国と違って、統一を呼びかけることが非常に難しい状況にあるということだ。どのような政策も喧々諤々の論争や批判に合うことが必至の国内情勢において、強権を発動してパンデミックから市民を守るには、象徴的な呼びかけが必要だと政府は考えたのだろう。


隔離されたイタリアのSNSで流れている、お互いを励まし合うヴィデオの多くが、愛国主義的な調子を帯びていると考える日本人もまた多いだろう。しかし、ヨーロッパにおいて愛国主義は必ずしも悪いものではない上に、ある国の文化とその国の行政は必ずしも同定されるものでもない。人の気配のなくなったローマの遺跡やヴェネチアの映像をつなげながら、andrà tutto bene(きっとうまくいく)といったメッセージを有名なカンツォーネの調べに乗せて語りかける動画は、排外主義的なイタリア国粋主義を表現しているのではない。バリッラ社が提供しているそのようなヴィデオで、隔離下のイタリアのさまざまな状況の人たちを喚起したのち、さいごのところで、ソフィア・ローレンによるナレーションはspaesatoな(直訳すれば、本来の故郷ではない場所にいて、違和感を感じる)人に触れ、その人もpaese(郷〈ふるさと〉、国)をまたもっていると感じているのだ、としている。エリザベス女王のスピーチも、英国の統一を呼びかけながら、さいごの部分では、世界でさまざまな助け合いの場面が見受けられていることに触れ、今回のチャレンジがこれまでとは違う性質のもので、「世界中の国々が力を合わせて一緒に努力する」ことであると明言し、英国の誇りや歴史に訴えることが排外主義に必ず帰結するものではないことを証明しているばかりか、さらに広く、世界との連帯を訴えて終わっている。


要するにヨーロッパの民主主義国はいま行政としてその力量をフルに発揮しようとしているのであり、それに対して市民やメディアはさまざまな批判や疑問を提示しながら、もっとも民主主義的にこの危機を乗り越えようとしているのである。その根底にある想像力は、近さの幻覚を打ち破り、遠さに覚醒する方向に働き、これが各国に任された挑戦だけではなく、世界の一人ひとりの人間をめぐる試練であることを自覚しようと必死になっている。パンデミックという悲劇は国境を超え、人々が共有し、遠さが近く感じられたり、自らの近さを遠くへと相対化することも可能になったりする、人間にとってかけがえのない経験である。今後の世界認識が変わる契機を孕んでいる。しかしパンデミックもいまだ「共有」できない日本は、 自分だけは特別だという幼稚な近さの幻覚からなかなか抜け出すことができずに、じわじわと新型コロナウイルスに侵食されつづける運命を辿るかにみえる。


幼稚な近さは「父」に守られているという幻想から来る。「父」は天皇であったり、日本という日常であったり、日本語という感覚かもしれない。いずれにせよ、そうした曖昧な近さ、いざとなったときに守ってもくれなければ責任もとってくれない近さをまず断ち切ろうと努力せずには、「魂の想像力」を発揮することはできないだろう。それにはまず自分が一人の人間であることを思い出さなくてはならない。首相であったり、介護士であったり、教員であったり、学生であったり、父親であったり、妻であったり、日本人であったりする前に、自分もまた、新型コロナウイルスにかかって死ぬかもしれない一人の人間にすぎないということを実感するところからはじめなくてはならない。たった一人の人間、裸の人間としての脆弱さをスタート地点に据えずには、遠い、同じように脆弱な存在とつながることはできず、「このあと」の世界を構成することもできないだろう。

[1] Pierre Pachet, Le premier venu, essai sur la politique baudelairienne(『どこにでもいる人——ボードレールの政治に関する試論』), Denoël, « Les Lettres nouvelles », 1976 ; rééd. revue et augmentée, Le premier venu, Baudelaire : solitude et complot, Denoël, 2009 (2009年再刊)


[2] Simone Weil, “Amour de l’ordre du monde”, in Formes de l’amour implicite de Dieu, Œuvres, Quarto, p. 731-732.


[3] 文学の領域でいえば、イタリアの 映画監督にして 作家のCristina Comenciniの「フランスのいとこたちへ」と題された「手紙」がリベラシオン紙に掲載されたのが3月12日、Francesca Melandriのテキストは3月18日、そしてル・モンド紙にPaolo Giordanoのエッセーが登場するのが24日である。



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根本美作子(ねもと みさこ) 1967年生まれ。1996 年東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。 現在、明治大学文学部教授。 主な著訳書に、ジャン= ルイ・フェリエ『ピカソからゲルニカへ』(筑摩書房、1990年)、『眠りと文学――プルースト、カフカ、谷崎は何を描いたか』(中公新書、2004年)、ピエール・パシェ『母の前で』(岩波書店、2018年)など。



◆こちらもご覧ください。

[緊急寄稿]藤原辰史:パンデミックを生きる指針——歴史研究のアプローチ

[緊急寄稿]白瀬由美香:生活基盤としての医療――イギリスの人々のNHSへの思い

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2018年1月19日 配信開始

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