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執筆者の写真岩波新書編集部

白瀬由美香:生活基盤としての医療――イギリスの人々のNHSへの思い

更新日:2020年5月26日



はじめに


3月中旬のことだっただろうか。新型コロナウィルス感染症が拡大し、都市封鎖が進められつつあったヨーロッパでは、夕暮れ時にベランダで歌ったり、楽器を演奏したり、挨拶をしあったりする人々の姿が各地で散発的に報じられていた。イギリスでも、王室メンバーや政治家をはじめ、多くの人々が玄関やベランダに出て、医療従事者に謝意を示したり、拍手を送ったりする光景がニュースで報じられるようになった。日本においても、著名人が医療従事者に対して「ありがとう」の拍手を送る動画が公開されたり、各地のランドマークとなる建造物を青色でライトアップしたり、私たちの生活のインフラを担う人々への賛辞や謝意を示す活動が行われている。


イギリスでは、5月16日現在で新型コロナウィルス感染症による死者数は3万4000人近くにまでのぼる規模となった。そうした過酷な状況下においても、人々が医療制度や医療従事者への信頼や敬意を忘れずにいることは、心強いことだと思う。とりわけ他国と比べた際にイギリスで特徴的だと感じたのは、医療従事者への感謝のみならず、NHSと呼ばれる公的医療制度National Health Serviceそのものへの熱い思いが人々の間で共有されている点である。たとえば、政府関係者が新型コロナ関連の記者会見をする際には、5月上旬頃まで「NHSを守ろう(Protect the NHS)」の文字が中央に書かれた演台が使われていたし、医療従事者自身も「NHSで働くことを誇りに思う」と書かれたロゴマークをSNSで示していたりする。


私はイギリスの医療制度に関する研究をこれまで20年ほど行ってきたが、NHSはイギリスで暮らす人々の生活基盤であると同時に誇りでもあることを常々感じてきた。その一方で、日頃は受診までの待機期間の長さやサービスの質への不満の声もしばしば耳にする。本稿では、誇りと不満がないまぜになったイギリスの人々の医療への思い、日常生活と医療との関係を改めて考えてみたいと思う。なお、ここでは「イギリス」として、主にイングランドを扱っていることをお断りしておく。



1 イギリスの医療制度


NHSとは、租税を財源として、すべての人に原則として無料で医療を提供する制度である。処方薬や歯科診療などの自己負担はあるが、1948年に制度が開始されて以来、70年以上にわたり、イギリスで人々の健康を支え続けている。


日本との大きな違いの一つは財源のありようだけでなく、医療の供給システムにも表れている。医療サービスを利用するには、必ず事前にGP(General Practitioner)と呼ばれる家庭医の診療所に登録する必要があり、GPによる診察を通じて必要があれば、病院で専門医による検査や診察を受けるという、医療機関の機能分化が徹底されている。病床規模により診療所と病院とを区別する日本とは異なり、イギリスでは地域の診療所がGPの外来診療のみを提供するのに対して、入院設備があり専門医が診療を行う施設を病院と呼ぶ。GPは診療所ごとに病院での医療を利用できる予算枠を持ち、その範囲内で患者に必要な医療資源を配分する役割を果たしている。また、診療所には登録者数のほか、慢性疾患の管理や疾病予防の取り組みに応じて報酬が支払われており、GPは患者として受診する者だけでなく、その地域の登録者の健康管理を担う役割も担っている。


現在、NHSのもとでは常勤換算で約126万人が働いている。そのうち病院の専門医は約12万2000人、地域のGPは約3万5000人、看護職は病院・診療所をあわせて約33万人である。そのほかに多様な専門職、補助職、事務職員などからNHS職員は構成されており、イギリス公共サービス部門で最大規模の組織となっている。


ロンドンのラッセルスクエア駅近くのショッピングセンターにある診療所(Brunswick Medical Centre)

このような仕組みであることから、患者は日本のように全国どこでも好きな場所で医療機関を受診できるというわけではない。イギリスにはNHS以外に民間の医療機関もあるものの、それらの受診には高額の費用がかかる。そのため、しばしば問題になるのは、NHSで診察や手術を受けられるまでの待機期間の長さである。近年は随分改善されたが、21世紀の初め頃には、診療所の待機は48時間以内、病院外来は3ヶ月以内、入院は6ヶ月以内とすることが目標として掲げられていたくらいである。


しかし、だからといって医療従事者が怠慢なわけではない。欧州委員会の報告書によれば、2012年時点におけるイギリスの医療専門職の労働時間は、他の業界に比較して長い傾向があるという。NHSでは週37.5時間が所定労働時間とされているが、臨床医の労働時間の中央値は40時間であった。2017年のNHSスタッフ調査でも、約7割の職員が所定労働時間を超えて働いており、そのうち約6割はサービス残業であったとも示されている。ちなみに、NHSで働く医師の基本給は、最高でも年1400万円程度(£107,668、2019年度)であり、弁護士や金融業界で働く者など医療以外の専門職と比べて高くはない。医師・歯科医師を除くNHS職員の俸給表は事務職員も含めて統一されており、たとえば新卒の正看護師の基本給は年325万円程度(£24,907、2020年度)、看護師でも病院の管理者レベルになると年1150万円程度(£87,754、2020年度)である。


こうしたこともあいまって、イギリスの人々はNHSに対する不満はあるものの、医療従事者の献身的な働きぶりには日頃から敬意を寄せていた。冒頭で述べたキャンペーンにも、おそらくそれがつながっているのだろう。それにしても、NHSはなぜこれほど支持される制度なのか。その理由を歴史からひも解いてみたい。



2 NHSの歴史


病気にかかったり、けがをしたりすること、そして治療を受けるということは、多くの国において19世紀までは私的な問題として扱われていた。医者にかかることができるかどうかは、その人の職業や所得水準、階級によって大きな違いがあった。イギリスでは、1848年に公衆衛生法が制定され、地方自治体は下水道の整備を通じた環境衛生に関する責任を担うようになった。その後、20世紀初頭になると母子保健や学校保健などのサービスが開始され、個人の健康状態を積極的に保つという新しい保健概念が打ち立てられた。1911年には国民健康保険制度が発足し、低所得労働者のみを対象とした限定的なものであったが、加入者はGPの診療を無料で受けることができるようになった。こうして疾病や健康に関する問題は、公的に解決されるべき事柄として徐々に認識されるようになっていった。


ロンドンのユーストン駅近くの駅近くの19世紀に建てられた病院の建物。現在は、病院の創設者であり、イギリスで初めて医学教育を受けた女性医師エリザベス・ガレット・アンダーソン(1836–1917)の記念館

ただし20世紀前半を通じて、病院での医療は依然として、一部の困窮者を除いて公的な給付ではなかった。したがって、NHSの構想は国民健康保険をいかに拡張するかという観点から模索され、1940年代にようやく具体的な計画が形成されることとなった。1942年にウィリアム・ベヴァリッジによって起草された『社会保険および関連サービス(ベヴァリッジ報告)』は、いわゆる「福祉国家」の青写真を描いた構想として知られている。報告書の本題は、失業保険や老齢年金など社会保険による所得保障の計画であったが、それを実現する上で不可欠な3つの前提が挙げられた。その3つとは、(A)児童手当制度の創設、(B)包括的な保健サービスの創設、(C)完全雇用の実現である。






この前提(B)こそが、NHSの原点の一つであり、第一に予防、治療、リハビリテーションすべてにわたる包括的なサービスを提供すること、第二にすべての人に対して拠出条件なしで給付すること、第三に国税・地方税・国民保険からの繰入金で財源をまかなうことから成っていた。つまり、ベヴァリッジの提言は、医療保障を社会保険の体系から分離し、租税を主な財源とした公的サービス方式に転換することによって、すべての人が無料でサービスを利用できるようにするというものであった。また、ベヴァリッジは疾病予防の重要性も指摘しており、衛生・住宅・栄養など地方自治体がかかわる、あらゆる問題にまで拡大された範囲を網羅する予防的な取り組みを思い描いていた。



ウィリアム・ベヴァリッジ(1879–1963)

1944年に保健省によってNHSの具体案が提示され、新しい医療制度の議論が本格化していった。平等な医療制度を実現するためには、すべての人が利用できるような制度設計が必要であり、その帰結としてNHSは無料のサービスとなることが必然であった。それを供給面から支えるため、国内のほぼすべての病院を国有化するというNHS法が1946年に成立し、1948年の施行に至った。NHSは診療所・病院を中心とした医療システムと、地方自治体の公衆衛生部による地域保健サービスとを統合し、予防・治療・リハビリテーションを地域内で包括的に完結できるように医療供給体制を整備しようとした。発足に際して病院を国有化したことから、資本主義社会で実現した社会主義的な医療保障の例として、他国から関心を集めたと言われている。ただし、医師の協力を得るための妥協策として、民間医療機関の存在や業務時間外に私費診療を行うことも認められていた。


所得や就業上の地位に関わりなく、疾病は誰にでも起こりうることである。平等な医療を実現するというNHSの発足が、人々の健康に関する事柄は国が責任を持つべき優先事項とみなされることになる画期となったのは間違いないだろう。現実は理想通りには進まず制度運営には困難を抱えている面もあり、大規模な組織再編も数回にわたり行われてきた。それにもかかわらず70年以上にわたってこの制度が持続しているのは、NHSに対する国民的な支持が確固たるものであるからだと考えられる。



3 新型コロナとたたかういま


イギリスでは医療従事者に賛辞の拍手を送る活動が、「医療従事者に拍手を(Clap for our Carers)」というキャンペーンとして組織化されている。ロンドン在住のオランダ人女性の呼びかけを通じて、3月26日以来全国的なキャンペーンとなって展開されている。毎週木曜日の午後8時になると、賛同する人々は自宅の玄関先や窓から外に向かって拍手をしたり、中にはフライパンや鍋を盛大に打ち鳴らしたりする。また、「NHSありがとう(Thank You NHS)」の文字と虹の描かれたステッカーや手書きの絵が窓に貼られている家もある。ちなみに、「NHSありがとう」ステッカーは市販されていて、それを買うとNHSに寄付することができるものもある。さらに、キャンペーンの一環として地域のランドマークを青くライトアップする。NHSのロゴマークは通常、青地に白でNHSの文字が記されており、青という色はすなわちNHSのシンボルカラーなのである。こうして大々的にキャンペーンが展開されている様子をインターネット等で目にするにつけ、イギリスで暮らす人々のNHSへの愛とでもいうべきものを改めて感じさせられるのである。


医療関係者だけでなく、一般の人々も自らがNHSを支える一員なのだという感覚を持っているのは、制度の財源が租税であるからという理由だけでは不十分だろう。このような意識の醸成におそらく重要だったと考えられるのは、1991年に患者の権利を明示するものとして公式に制定された患者憲章(Patient Charter)や、それを発展させたNHS憲章(NHS Constitution)の存在である。


NHS憲章は、2009年に保健省によって提示され、以後定期的に内容を見直しつつ維持されている。NHSが租税を財源とする無料の包括的サービスであることなどの7つの基本原則を確認すると同時に、医療従事者だけでなく、患者や一般市民の権利と責任についても明示し、NHSが達成すべきことを誓約するものである。簡単に概要をまとめると、患者や一般市民には、質の高い医療を受ける権利、健康であるための自己管理の義務が課されている。医療従事者はNHSを公平で効率的に運営すること、行動規範に従った行動をとることなどが求められている。それに対して、NHSは職場環境の改善、教育研修機会の提供、職員の健康や安全管理に務めることとされている。


医療は、病気になったとき、つまり患者になったときだけ関わる非日常的な特別な存在ではない。一般の人々は日頃から健康管理に務めることで、限りある医療サービスが必要とする人に適切に届けられるための重要な役割を果たしている。医療機関や医療従事者と直接接していなくても、医療は常に身近にあるべき生活の基盤なのである。医療は必要な人が必要な時に利用できること、常にそこにあることが重要であり、実際には待機問題等はあるにせよ、NHSは少なくともそうした根源的な安心感を人々に与えているのだろうと思われる。


その一方で、NHSの医療供給体制は、感染症に対処するには必ずしも万全であったとは言えない。1974年改革では、地方自治体公衆衛生部が提供していたサービスはすべてNHSの組織に組み込まれ、NHSとしての一元的な統治機構が強化された反面、公衆衛生は残余的なものになっていった。かつて国有化された病院は、1990年代以降、NHSトラストと呼ばれる独立行政法人となり、病院間に価格や質に関する競争メカニズムが導入されるなど運営形態は大きく変化した。戦後の医療需要の拡大や医療技術の進歩の中で、NHSは病院における専門的医療を効率的に供給するためのシステムとして発展してきたことから、これまでの計画的な医療機関整備による陥穽にむしろ直面しているようにも見受けられる。イギリスの病院は急性期の集中的な治療に特化した施設であり、感染症の隔離のような数週間におよぶ長期入院への対応には限界がある。2013年に保健省やNHSから独立した公衆衛生当局(Public Health England)が設置され、医療制度と公衆衛生との新たな役割分担と連携が進められていたものの、現状は困難をきわめている。


OECDヘルスデータ(2017年)によれば、対GDP比の医療費の割合は、日本が10.9%、イギリスが9.8%でいずれもOECD平均の8.8%を超えている。だが、医療サービスの中身がどのようになっているのかは、医療費の規模だけでは判別できない。たとえば平均在院日数という指標は、1人の患者が入院してから退院するまでの平均日数を表している。短いほうがより効率的で質の高い入院医療を示すと見なされているが、日本が28.2日であるのに対して、イギリスは6.9日である。また、人口100万人あたりのCTスキャナー設置台数は、日本が111.5台、イギリスが9.5台である。医療を供給するにあたり、どこに重点的に費用をかけるのか、病院がどのような機能を持つ施設なのかは、国によって異なる。今回の新型コロナウィルス感染症の拡大は、はからずも各国の医療供給体制の違い、そして公衆衛生と医療制度との関係を如実に浮き彫りにする機会にもなっている。



4 生活を支える医療


おりしも2020年5月12日は、近代看護の礎を築いた、フローレンス・ナイチンゲールの生誕200年の節目でもある。医療サービスの供給には、病院や診療所などの施設だけではなく、医師や看護師などの医療従事者が不可欠である。さらに、医療従事者の専門的な知識や技能、医療器具や医薬品、多様な補助職の働きが組み合わされることで医療が形成されている。治療法や医療技術、医学に関する知識は世界的に共通しているとはいえ、医療制度は各国の歴史的文脈の中で形成されてきた。異なる国の制度を比べたところで、いずれかに優劣があるわけではない。それぞれの国が、それぞれ医療の普及に尽力してきた到達点として現在がある。


ナイチンゲールが看護学校を設立した聖トーマス病院

日本で「医療崩壊」という言葉がしばしば報じられるようになって10数年が経つ。過度に不安をあおるのは好ましくないが、「医療崩壊」が起こらないようにするには、自分には何ができるかを考えて行動することも必要だろう。そのことの大切さをNHSは私に気づかせてくれたようにも思う。今般のパンデミックは、社会基盤として医療はなくてはならないものだという重要性を改めて考えさせてくれている。



思い起こせば2012年に開催されたロンドンオリンピックの開会式では、医師や看護師のコスチュームを着たダンサーたちによってNHSという人文字が描かれる場面があった。これはイギリスの歴史を描くパフォーマンスの一部であったが、歴史的な画期の一つとして医療制度の発足がスポーツイベントの開会式で示されることは予想していなかっただけに、非常に興味深かった。私たちがこうして元気にスポーツを楽しめるのは、NHSがあるからにほかならない。そんなメッセージが込められているように感じられたのは、私の思い込みに過ぎないだろうか。


現代日本に生きる私たちは、心身の不調の際に医者にかかるのは当たり前だと思っているが、100年前にはそれはまったく当たり前ではなかった。今のように医療の恩恵にあずかることができるのは、国民皆保険があることに加え、治療を可能にする医療技術の発展やそれを行うことのできる医療従事者がいてこそである。医療は誰のためにあるのか。もちろん患者や一般の人々のためにあることは言うまでもない。しかし、医療はそこに従事する人がいてはじめて実体のあるサービスとして存在することができる。

 誰しも好き好んで病気になる訳ではない。できれば医者の世話ならないに越したことはない。医療がそんな非日常のものであると考えられているがゆえに、医療現場で働く人々をどこか別世界の遠い存在であるかのように感じてしまう面もあるかもしれない。しかし、医療は常に私たちの日常生活を陰ながら支えてくれている。未知のウィルスを前にして、一般人ができることは限られているが、医療を持続可能なものとしていくために、私自身には何ができるのかをイギリスの事例は問いかけて続けてくれている。

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白瀬由美香(しらせ ゆみか)

1973年生まれ、東京都出身。一橋大学大学院社会学研究科教授。専門は社会政策、社会福祉研究。主な論文・共著書に「地域社会における医療のゆくえ:イギリスNHSの変遷をもとに」(『生活保障と支援の社会政策』明石書店、2011)、『医療制度改革:ドイツ・フランス・イギリスの比較分析と日本への示唆』(旬報社、2015)など。


◆こちらもご覧ください。

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