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  • 執筆者の写真岩波新書編集部

メディアを創る言葉へ──ベンヤミンとアドルノの書の死後の生によせて(新書余滴)

柿木伸之




■手紙を書く人


何ものにも支配されることのない生。それは言葉において、死後の生としても繰り広げられる。青年運動に関わった学生時代からそのような生を追い求めていたベンヤミンは、二つの世界大戦とファシズムの深い闇に閉ざされた時代を歩む道を探る言葉を紡いだ。その重要な表現形式の一つに手紙がある。彼は生涯にわたり、並々ならぬ情熱を手紙に注いだ。


ヴァルター・ベンヤミン

ベンヤミンの思考を、神話に抗いながら言語、芸術、歴史をその可能性において問う批評と捉え、その足跡を辿った拙著『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』では、この点にも注意を払ったつもりである。そのために、1995年に刊行が始まったベンヤミンの五巻の書簡全集で初めて活字になった箇所を含め、彼の手紙の端々を随所に引用した。


手紙には、友人に表白する率直な思いとともに、ベンヤミンの思考の息遣いも表われている。この点を捉えて彼の手紙とは「語る声が取る姿である」と表現したのが、彼と最も多くの手紙を遣り取りした一人、アドルノである。彼はショーレムと協働して編んだ二巻の書簡集の編者序文で、ベンヤミンの「手紙を書く人」としての側面を浮き彫りにしている。


1966年に刊行された書簡集は、刊行当時からその編集方針が問題視されてもきたが、その序文のなかでアドルノは、ベンヤミンが手紙を書く紙にもこだわりを見せていたことを伝えている。彼は1933年にパリへ亡命した後も、友人を介してドイツから特殊な書簡箋を送ってもらっていた。また、タイプライターではなく、手で書くことを好んでいたという。


ベンヤミンが書いた手紙を見ると、彼独特の小さな文字が蝟集するように書き込まれている。こうして自身の言葉を伝える媒体として、手紙という形式を作り出すことは、アドルノによると、「硬直した言葉という媒体において、生あるものの擬態をする」ことである。しかもこのことは、遠く離れていることを否定しつつ、離れていることを可能にした。


遠さと近さ、死と生。相反するヴェクトルを同時に示すベンヤミンの手紙の特徴を語るとき、アドルノは、この年長の友人に対して抱いていた、親近感と距離が入り混じった感情を反芻していたにちがいない。あるいは、1933年以降に互いの亡命先を発信地として手紙を交わすなかで感知された、ベンヤミンの思想との近さと遠さを噛みしめていただろうか。


ここでは、1930年代後半に交わされたベンヤミンとアドルノの往復書簡に着目し、両者が当時、ファシズムに抗う思想の共同戦線を模索していたこと、さらにそれが異なった方向性を示す、メディアを創る言葉の探究に結びついたことを描いてみたい。このことは、同時代の思想家の布置のなかにベンヤミンの思考を浮かび上がらせる試みの一つでもある。



■ベンヤミンとアドルノの往復書簡


現在一冊にまとめられているベンヤミンとアドルノの往復書簡を貫いているのは、何よりもまず、ベンヤミンの『パサージュ論』をめぐる議論である。十九世紀初頭のパリで盛んに建設され、今も街に散在するガラス屋根のアーケード街に明滅した現象を救い出すことで、近代の歴史を捉え返そうとするこの仕事に、亡命後のベンヤミンは心血を注いでいた。


アドルノもまた、パサージュから「十九世紀の根源史」を描き出すものとして構想されていたこの著作を、自身の思想形成に決定的な影響を与えたベンヤミンが、独自の歴史哲学を画期的な仕方で提示するものと考えていた。ただし徐々に明らかになるように、アドルノの思い入れとベンヤミン自身の方法意識のあいだには齟齬があったと言わざるをえない。


ともあれ、1923年にフランクフルト大学に創設され、当時はジュネーヴを経てニューヨークへ移っていた社会研究所のプロジェクトに『パサージュ論』が採用された1935年以降、ベンヤミンとアドルノの文通は、この研究所とベンヤミンの緊張を孕んだ関係も映し出すようになる。彼の亡命先での生存は、研究所から得られる奨学金と原稿料に懸かっていた。


テーオドア・W・アドルノ

他方でアドルノは、所長のホルクハイマーとの議論を踏まえた社会研究所の立場をベンヤミンに伝える役回りでもあった。それゆえアドルノの手紙は、ベンヤミンの運命を左右するものとなる。とりわけ原稿が研究所の紀要『社会研究』に掲載されるか否かは、彼にとって死活問題だったこともあって、採否を伝える手紙は重大な意味を持っていた。


だからこそ、『パサージュ論』の「ミニアチュア・モデル」となるボードレール論の第二部として書かれた「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」の掲載が見送られたことを伝えるアドルノの1938年11月10日付の手紙は、ベンヤミンにとって「打撃」だった。とはいえ、彼はそのことを伝える返信のなかで、誤解を正すことを含めた応答を試みている。


例えばアドルノは、パリ市が設けていた葡萄酒税とボードレールの詩が結びつくというように、当時の社会の事象と詩的な表現が「無媒介に」、悪しき反映理論のように結びついていると論難する。しかし、彼はその際、ボードレール論全体の構想を見誤っている。現象の並置は、続く第三部で近代を歴史哲学的に捉え直すために必要な準備作業なのだ。

批判された第二部は、その作業のために「主に文献学的素材から構成されなければならなかった」。そして、アドルノが「たんなる事実性に目を奪われた叙述」と非難するものこそ、ベンヤミンの独特の方法としての文献学にほかならない。それは市外でワインをあおり、酩酊を税関吏に見せつける無産者の姿といった事象を、両義性において読み解いていく。


こうして文献学は、瑣末に見える現象をも一つのテクストとして解読し、この過去の細片が潰えた希望を指し示すのを見いだしていく。この方法は、いずれも書き上げられなかった『ボードレール──高度資本主義時代の抒情詩人』と『パサージュ論』を貫くものと考えられていた。そして、そこには屑屋のように「歴史の屑」を拾い上げる身ぶりも含まれる。

ベンヤミンは、「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」のなかで、この詩人の「屑屋たちの葡萄酒」に触れながら、「文士から職業的策謀家に至るまで、ボエームに属する誰もが、屑屋のうちに自分自身の一片を見いだすことができた」と述べている。このとき彼は、二十世紀の「ボエーム」として、自身の方法のことも考えていたのではないだろうか。


屑拾いの身を屈める姿を模倣する文献学。それは近代の廃墟の底に降り立ち、瓦礫の記憶が甦る場として「像」を構成する。近代の根源史は、この「弁証法的像」の配置によって描き出されるはずだった。そして、歴史の媒体としての「像」は、ベンヤミンとアドルノの対蹠点を同時に指し示している。アドルノは、そこに自分の弁証法を読み込んでいた。


アドルノにとって「弁証法的像」とは、物神崇拝へ退行した意識が覚醒を遂げ、神話の克服へ媒介される場だった。だが、その概念を提起するベンヤミンにとっては、生者の意識が弁証法的に進展する以前に、死者の記憶が「像」のうちに救出されることが重要だった。彼は、それによって時系列が掻き乱され、歴史そのものが反転する可能性に賭けていた。



■ファシズムに抗する思想の共同戦線へ向けて


亡命期のベンヤミンとアドルノの往復書簡に関しては、従来アドルノの側からの批判が、その過酷さを含めて論じられることが多かった。社会研究所を背後にこれだけの批判的な言辞を並べるのは、たしかに厳しすぎる。そして、一時期はベンヤミンにほぼ同一化したほど、彼の思想に強い思い入れがあるからこそ、批判が厳しくなったという面もあろう。


ただしアドルノの批判が、ベンヤミンが送った草稿の綿密な読解にもとづいていることも忘れられてはならない。『パサージュ論』の梗概「パリ──十九世紀の首都」の原稿に関しては、アドルノはその欄外に鉛筆で細かく注記を書き入れながら検討している。そのような読解の末に綴られた批評を、ベンヤミンも真摯に受け止めようとした。


往時のパサージュ・ド・ロペラ

例えば、ボードレール論に「理論的媒介」を求める批判に応えるかたちで、「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」が書かれている。拙著に記したように、この論考は結果的に、ベンヤミンの著述に貫かれる経験の衰退への洞察を理論的に浮き彫りにすると同時に、彼が歴史認識の核心に見る想起をどのように捉えていたかを示している。


とはいえ、そのようなアドルノの批判に対するベンヤミンの応答と同時に注目されるべきは、彼が同時期の友人の仕事を、強い関心を持って読んでいることである。例えば、アドルノの「ジャズ論」のシンコペーションについての議論に、ベンヤミンは、自分がモンタージュにもとづく映画に見た「ショック効果」を新たに照らし出すものを見て取っている。


これ以外にもベンヤミンは、シェーンベルク論など、アドルノが音楽を論じた著作の原稿を送ってもらって熱心に読んでいる。それこそ彼への手紙で、音楽の分野は自分には「縁遠い」と告白していたにもかかわらず。とくに『ヴァーグナー試論』は熱を入れて読み込み、1938年6月19日付の書簡では、この論考についての批評をアドルノに示している。


そこで詳しくは論及していない──彼の批評は簡潔だが、そこには亡命先での境遇も影を落としていよう──ものの、ベンヤミンがヴァーグナー論を「住み慣れた感じがする」まで検討したのは、そこに自分の問題意識の深化を見て取ったからである。そこでアドルノは、ヴァーグナーの楽劇を近代の「幻像」と批判しつつ、その音楽の救出を図っている


ここには、ベンヤミンの『パサージュ論』の構想と「技術的複製可能性の時代の芸術作品」の双方に対する応答が含まれている。例えば、ベンヤミンがマルクスに拠りながら、物神崇拝の対象と化した商品を「幻像」として考察するのに対し、アドルノは、ヴァーグナーの楽劇がすでに幻燈の像、ファンタズマゴリアの継起によるスペクタクルだと論じている。


ヴァーグナーの楽劇はまず、ヒトラーが偏愛したという《ローエングリン》の第一幕への前奏曲に見られるように、時間の進行を静止させながら眩惑的な音響を出現させる。そして、その蜃気楼のなかに人物像が、その行為が、めくるめくイメージの継起として、ライトモティーフを介しながら切れ目なく立ち現われることが、観客を独特の陶酔へ誘うのだ。


そのようなスペクタクルとしての楽劇の姿は、ベンヤミンがその芸術論において仮想敵としたファシズムの道具としての映画の姿を、さらにアドルノが「文化産業」の欺瞞の一形態と批判する映画のパターンを先取りしている。そのことは、彼が軸足を置く「自律的芸術作品」に、大衆を眩惑するための手段と化す契機が含まれていることを示すものでもある。


にもかかわらず、アドルノによれば、オーケストラが響かせるヴァーグナーの音楽には、シェーンベルクらの「新音楽」に通じるかたちで安易な慰めを拒否することによって、寄る辺なき者の助けとなる要素がある。まさにこのような要素を、ベンヤミンは、映画をはじめ技術的複製のかたちで制作される芸術作品のうちに見いだそうとしたのではなかったか。


ベンヤミンは「技術的複製可能性の時代の芸術作品」において、天才のようなロマン主義美学の概念を排して、アウラの経験が不可能になりつつある時代に、「ショック」をもたらしながら新たな強度を示す芸術作品の姿を探った。他方でアドルノは、ロマン主義の芸術に潜在する危険を抉り出したうえで、その批判的な強度を音楽作品に見いだそうとしていた。


このような両者の議論は相互補完的であり、かつファシズムによる政治の審美主義化を、言わば挟み撃ちにするものである。一方でファシズムがプロパガンダに利用していた映画を、まったくその役に立たない芸術として捉え返し、他方でファシズムが依拠するロマン主義芸術の内部に、その神話への退行としての美化への志向を打ち破る力を見届けるのだ。


したがって、大西洋を越えて交わされるようになったベンヤミンとアドルノの往復書簡は、互いの草稿の厳密な検討を交換することによって、ファシズムに抗する二正面作戦を繰り広げるための共同の戦線を、思想として形成しようとするものだったと見ることができる。ただし、合衆国での共同作業も見据えたその戦線が一本に収束することはなかった。




■メディアを創るそれぞれの言葉へ


ベンヤミンは『ヴァーグナー試論』を批評する手紙のなかで、このアドルノの論考について「自分たちに似つかわしい唯一の基本構想」を示すものと言ってよいと語っている。しかし、こうして共通の問題意識を確認する一方で、アドルノがヴァーグナーの音楽の救出として論じていることと、自分が考える救出のあいだには隔たりがあるとも述べている。


救出という歴史哲学的な概念は、ベンヤミンにとって、進歩と退行というカテゴリーを駆使したアドルノの議論には馴染まない。救出するとは意識を進歩させることではなく、むしろ歴史のなかで打ち捨てられ、忘れられたもののなかにベンヤミンが言う「根源」を、すなわち未完のままに甦りつつある可能性を、この死者の潰えた希望を見いだすことなのだ。


とはいえアドルノは、ヴァーグナーの音楽に、近代の「幻像」としての楽劇の姿を内側から乗り越える美的内実を見いだし、それを「新音楽」の展開にも接続させようとする。そうした彼なりの救出の身ぶりは、オペラのような既存の芸術に批判的に介入し、劇場をはじめとするその媒体を、神話からの覚醒の場に作り変える理路を探るものと言えよう。


このような批判的な方向性は、『ヴァーグナー試論』以後のアドルノの美学、さらにはそれにもとづく評論活動でも貫かれている。そのような美学の展開に立ち入ることは別の機会に譲り、ここでは戦後の彼のラジオへのアプローチに注目してみたい。彼はすでにアメリカでのホルクハイマーとの共同作業のなかで、この媒体の影響力に対する関心を深めていた。


拙著では、ベンヤミンが1920年代後半に、定期的にラジオに出演していたことに触れたが、アドルノもまた、戦後ドイツへ戻った翌年の1950年から頻繁にラジオに出演し、講演や対談を行なっている。そこには、「過去の清算」の風潮と反ユダヤ主義の台頭に対して警鐘を鳴らし、過去の要因の克服を説く「過去の総括とは何を意味するのか」も含まれている。


この戦後のアドルノの立場を象徴する1959年の講演以外に、最近書籍化され、現代の排外主義の台頭を予言するものとして話題を呼んだ1967年の講演「新たな右翼急進主義の諸側面」も、オーストリア放送で流された。こうした講演をラジオで精力的に行なうことで、彼は、プロパガンダに用いられてきたこの媒体を、批判的思考の場に変えようと試みたのだ。

そのためにアドルノは、言葉遣いの明晰さにも細心の注意を払っている。このことも、戦後の彼が「自律的」芸術の媒体を含めた既存のメディアを、内側から作り変える言葉を追い求めていたことの表われと言える。これに対してベンヤミンは、技術の可能性を見据えながら、新たな芸術の媒体を含めたメディアを積極的に創出する方向性を示している。


「技術的複製可能性の時代の芸術作品」などでベンヤミンが探究したのは、技術を介して制作され、その制作と受容双方の過程に批評が深く組み込まれた芸術作品の姿だった。例えば映画は、複数の視点から撮られた映像の批評を含んだモンタージュによって構成されている。それゆえ映画には、「ショック」を伴う中断の契機が随所に仕掛けられている。


ベンヤミンは映画の空間を、人間が自己自身を情動の次元から解き放つ「遊戯空間」と捉えると同時に、享受の中断をもたらす映像の衝撃が、覚醒の契機にもなりうるとも考えていた。そして、自身の世界への目覚めにもとづく批評的認識を人々が分有するところでは、権力の支配の対象になりえないかたちで連帯する民衆の到来が予感されているのだ。


しかし、そのように民衆が生じる媒体となりうるのは、今までに作られた映画というよりも、来たるべき芸術作品と言うべきだろう。ベンヤミンの美学とは、その強度によって民衆の媒体となる作品の姿を指し示す言葉でもある。そして、このメディアを創る言葉を追求した彼が、言葉そのものの生成の媒体を創ろうとしていたことも忘れられてはならない。


この言語の媒体とは雑誌である。ベンヤミンは、二度雑誌の発刊を計画した。1920年代初頭には、個人編集による雑誌『新しい天使』を出そうとし、1930年代初頭には、ブレヒトらと『危機と批評』という雑誌を世に送ろうと画策していた。いずれも頓挫した雑誌の計画のうち、とくに前者のそれは、言語の生成の媒体としての雑誌の性格を明確に示している。


文学雑誌『新しい天使』は、創作、批評、翻訳を三本の柱とし、それらが応え合うなかから言語が、ドイツ語のような言語の枠組みを内側から突破して生成する媒体を形づくるはずだった。このようなベンヤミンの雑誌の理念には、文学の実践に翻訳を積極的に導入し、批評的な反省をつうじて言語を錬成しようとした魯迅の思想とも呼応するところがある。



■ベンヤミンとアドルノの書の死後の生のために


ベンヤミンの雑誌の理念は、言語自体が媒体であることへの洞察にもとづいている。言語は、絶えず自己自身を創り、言葉として姿を現わす。そして、言葉は霊媒のように、今不在であるものの実在をも伝える。言語がその意味でも媒体であることを踏まえて彼は、哀悼としての想起の媒体をなす「像」によって描き出される歴史、「根源史」も探究していた。


したがって、ベンヤミンの歴史哲学を、歴史の媒体を創出する試みとして見つめ直すこともできよう。「過去の総括とは何を意味するのか」のなかでアドルノが、「虐殺された人々に捧げうる唯一のもの」として記憶を挙げるとき、アメリカへの途上でみずから命を断ったベンヤミンと、死者の記憶に捧げられる彼の歴史哲学のことが脳裡に浮かんでいたはずだ。


アレクサンドル・クルーゲ監督作品『サーカス小屋の芸人たち 処置なし』

このようにしてメディアを創ろうとしたベンヤミンとアドルノの言葉の試みは、未完のままである。そして、この両名の死後、フランクフルト学派に連なる思想家のなかでこの試みを受け継ぎ、メディアを創る言葉を美学によって研ぎ澄ましながら社会に投げかける試みを示しているのは、映像作家でもあるアレクサンダー・クルーゲだけかもしれない。


ベンヤミンとアドルノがファシズムに抗いつつ提起した、メディアを創る言葉への問い。それは今あらためて受け継がれる必要がある。言語が媒体であることを生かしながら、何ものにも支配されない生を分かち合う場を闇のなかに切り開くために。日本では現在、新たなファシズムがメディアを駆使して「国民」を束ね、その生をむしり取っているのだから。


それと並行して、一部のメディアは露骨に差別を煽っている。そのような傾向によって、世界的にも人々が分断されているなか、既存のメディアを内側から刷新することは喫緊の課題である。他方で、こうした問題を人々が分有する回路を、芸術、あるいは批評的な言論の力で切り開くことを可能にするメディアを新たに創ることも、今まさに求められている。


このような現在の歴史的な状況を踏まえたうえで、ベンヤミンとアドルノが遺した書を読むこと。それは、ファシズムに抗して、複数の媒体という意味でのメディアを、息を通わせる場として創ることへ向けた両名の問いを、批評的に掘り下げながら今に受け継ぐことである。それによって、この二人の書の死後の生の新たな段階が刻まれるにちがいない。

パリ国立図書館で仕事をするベンヤミン(ジゼ ル・フロイント撮影)



参考文献


Theodor W. Adorno, Versuch über Wagner, in: Theodor W. Adorno Gesammelte Schriften Bd. 13, Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1971. 日本語訳:テオドール・W・アドルノ『ヴァーグナー試論』高橋順一訳、作品社、2012年。


Idem, »Was bedeutet: Aufarbeitung der Vergangenheit«, in: Erziehung zur Mündigkeit: Vorträge und Gespräche mit Hellmut Becker 1959–1969, hrsg. von Gerd Kadelbach, Suhrkamp: Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1971. 日本語訳:Th・W・アドルノ「過去の総括とは何を意味するのか」、『自律への教育』原千史、小田智敏、柿木伸之訳、中央公論新社、2011年。


Idem, »Benjamin, der Briefschreiber«, in: Über Walter Benjamin, Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1990. 日本語訳:Th・W・アドルノ「手紙の人・ベンヤミン」、『ヴァルター・ベンヤミン』大久保健治訳、河出書房新社、1991年。


Idem, Aspekte des neuen Rechtsradikalismus: Ein Vortrag, Berlin: Suhrkamp, 2019.


Theodor W. Adorno Walter Benjamin Briefwechsel 1928–1940, hrsg. von Henri Lonitz, Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1994. 日本語訳:ヘンリー・ローニツ編『ベンヤミン/アドルノ往復書簡 1928–1940』(全2巻)野村修訳、みすず書房、2013年。


Walter Benjamin, »Ankündigung der Zeitschrift: Angelus Novus«, in: Walter Benjamin Gesammelte Schriften Bd. II, Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1977. 日本語訳:ヴァルター・ベンヤミン「雑誌『新しい天使』の予告」、野村修編訳『暴力批判論他十篇──ベンヤミンの仕事1』岩波書店、1994年。


Idem, Das Passagen-Werk, in: Gesammelte Schriften Bd. V, 1983. 日本語訳:W・ベンヤミン『パサージュ論』(全5巻)今村仁司、三島憲一他訳、岩波書店、2003年。


Idem, »Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit« Fünfte Fassung, in: Walter Benjamin Werke und Nachlaß: Kritische Gesamtausgabe Bd. 16, Berlin: Suhrkamp, 2012. 日本語訳:W・ベンヤミン「技術的複製可能性の時代の芸術作品」、山口裕之編訳『ベンヤミン・アンソロジー』河出書房新社、2011年。


Idem, »Das Paris des Second Empire bei Baudelaire«, in: Gesammelte Schriften Bd. I, 1974. 日本語訳:W・ベンヤミン「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」、浅井健二郎編訳『パリ論/ボードレール論集成』筑摩書房、2015年。


原千史「マイクに向かうアドルノ」、前掲『自律への教育』訳者解説。


細見和之『フランクフルト学派──ホルクハイマー、アドルノから21世紀の「批判理論」へ』中央公論新社、2014年。


丸川哲史『魯迅出門』インスクリプト、2014年。


森田團「手紙を通して紡がれた思考──文献学・神話・哲学をめぐって」、前掲『ベンヤミン/アドルノ往復書簡』解説。


竹峰義和『アドルノ、複製技術へのまなざし──〈知覚〉のアクチュアリティ』青弓社、2007年。


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かきぎ のぶゆき 1970年鹿児島市生まれ。上智大学文学部哲学科卒業。上智大学大学院哲学研究科哲学専攻満期退学。博士(哲学)。上智大学文学部哲学科助手、広島市立大学国際学部准教授などを経て 現在―広島市立大学国際学部教授 専門―ドイツ語圏の近・現代の哲学と美学 著書―『ベンヤミンの言語哲学――翻訳としての言語,想起からの歴史』(平凡社、2014年)、『パット剝ギトッテシマッタ後の世界へ――ヒロシマを想起する思考』(インパクト出版会、2015年)など 訳書―『細川俊夫音楽を語る――静寂と音響、影と光』(アルテスパブリッシング、2016年)、テオドール・W・アドルノ『自律への教育』(共訳、中央公論新社、2011年)など


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