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  • 執筆者の写真岩波新書編集部

「気」の中国通史――趙翼『廿二史箚記』(新書余滴)

渡辺信一郎





岩波新書のシリーズ中国の歴史①『中華の成立 唐代まで』を昨年11月に刊行した。


叙述にあたってもっとも重宝した文献は、参考文献にはあげなかったが、司馬光の『資治通鑑』249巻と趙翼の『廿二史箚記(にじゅうにしさっき)』36巻である。両著ともに中国通史にかかわる名著である。いちいち注記してはいないが、その記事や見解を借用し、また批判的にとりあげたところが多多ある。


ここでは一般の読書人にはあまり知られていない『廿二史箚記』について、思うところを述べてみたい。



■最初に読んだ中国の歴史書


学生時代、わたくしがはじめて手にした漢文の歴史書は、趙翼の『廿二史箚記』だった。学部2年生の史料講読のテキストに用いた。卒業まで3年間つきあい、漢文史料の訓読、出典の調べ方、解釈の基礎をならった。テキストは、入手しやすかった台湾の世界書局刊行本であった。句読点はついていたが、小さな活字がぎっしり並んでいる。最初見たときは、吐く息をわすれた。ただ1年もたてば、漢字の行列も平気になった。これが、史料講読の最大の成果だった。


大学の教員となってからも、中国通史のテキストがわりに『廿二史箚記』を史料講読に用いた。理由は、もはや言うまでもなかろう。中国史専攻の教員・学生は、たいていなんらかのかたちで『廿二史箚記』の恩恵をこうむっているはずである。ちなみに、いまは老眼が進み、字が大きい『史学叢書』所収本と謙謙舎版和刻本を使っている。



趙翼と『廿二史箚記』


趙翼(1727~1814)、字(あざな)は耘崧(雲崧:うんすう)。江蘇省陽湖の人、清朝考証学の最盛期である乾隆・嘉慶期(1735~1796・1796~1820)を生きた。


かれは詩文家であり、また史学に精通した。詩文については『甌北集(おうほくしゅう)』、経史にかかわる随筆集に『陔餘叢考(がいよそうこう)』がある。『廿二史箚記』36巻(自序、1775年)は、かれの代表作といってよい。日本でも、貫名海屋(ぬきなかいおく:1778~1863)の句読・返り点つき和刻本が1862年に刊行され、多く流布した。写真は、1865年の謙謙舎再校本である。


『廿二史箚記』は、『史記』から『明史』にいたる22の歴代正史を対象に、「司馬遷作史年歳(司馬遷『史記』の制作年代)」から「明朝米価貴賤(明代の米価変動)」にいたるまで、550あまりの小題を立て、各正史のテキストの比較・校訂から政治過程・経済動向、文物・学術・文化の趨勢にいたるまで縦横に考証し、論評している。


貫名海屋は、その和刻本序文のなかで『廿二史箚記』を『資治通鑑』の史学を展開した「史学大全」「読史全書」であると言い、中国の全体史、通史として無上の評価をあたえている。日本語・中国語で書かれた中国通史・中国史概説は山ほどある。しかし『廿二史箚記』をこえる通史はない。


当初わたくしは、海屋の評価はおおげさではないかと疑っていた。「史学大全」「読史全書」、すなわち全体史・通史と評価するからには、一本筋が通っていなければならない。その筋が理解できなかったからである。それが「気」であることに気づいたのは、不覚にも不惑の坂をなかばこえたころである。


趙翼は、歴史変化の動因を気の集散・流転のなかに見いだし、さまざまな小題のなかで言及している。その典型をいくつかとりあげ、もうひとつの中国通史の概略を紹介しよう。



「天地の一大変局……気運之れを為す」


1995年の10月はじめ、わたくしは授業のために「漢初布衣将相之局(庶民が将軍・宰相となる漢初の大勢)」(巻2)の下訓みをしていた。


この小題のなかで、趙翼は、秦から漢初の時期を「天地の一大変局」であると記述している。それは、数千年来の世襲的封建制の時代から戦国七雄分立の時代をへて、庶民が次第に台頭し、その大勢をうけた漢の高祖とその軍団が匹夫(庶民)や亡命無頼の徒から出身して天下一統を成し遂げ、皇帝となり、また宰相・将軍となったからである。趙翼は、この封建制から郡県制による大一統への「天地の一大変局」の根柢を「此れ気運(気のはたらき)之れを為す」と解説している。


わたくしは、「気運」の二字を眼にしたとき、趙翼の叙述する様ざまな事柄が一挙につながっていくように思えた。見当をつけ、いそいで頁をめくっていくといくつも事例がでてくる。



「君主と臣下とは、みな一気の鍾(あつ)まるところ」


趙翼は、「東漢功臣多近儒(後漢の功臣には儒者に近いものが多い)」(巻4)の冒頭で、次のようにきりだす。前漢創業の功臣たちが多く亡命無頼に出自したのに比し、後漢中興の諸将はみな儒者の気象をそなえており、時代の趨勢が異なっている、と。


後漢の功臣は、おおむね儒術を習得し、光武帝と意気投合した。そして、ある時代がはじまるときには、君主と臣下は、本来みな一気の鍾(あつ)まりだから、性情・嗜好が近しくなり、期せずして自然にそうなったのだ、と結んでいる。


同様のことは「金用兵前後強弱不同(金の戦争は初期と末期で強弱が異なる)」(巻28)にもみえる。金朝の興起にあたって、天下最強の軍隊が存在した。このことについて、「王気の鍾まるところ、人はみな精悍である」と述べ、その理由を気の集中・集合にもとめている。


趙翼によれば、気の集合・集中が必然的に一時代をつくるのである。



「天地の間、王気は流転して常ならず」


北周・隋・唐の創業者である宇文泰(505~556)・楊堅(文帝、在位581~604)・李淵(高祖、在位618~626)は、すべて北魏の武川鎮に出自し、鮮卑系諸種族に由来する武人であった。


このことを最初に指摘したのは、趙翼「周隋唐皆出自武川(北周隋唐はみな武川鎮に出自する)」(巻15)である。趙翼は、王気は流転してやまないが、時にその力を一処に集中し、帝王を生みだすことがある、という。


南北朝の分裂期にあっては、南北各おのに気の集合する土地があった。南朝では宋の創業者劉裕(武帝、在位420~423)は京口(江蘇省鎮江県)、南斉の蕭道成(高帝、在位479~483)・梁の蕭衍(武帝、在位502~549)はともに武進の南蘭陵(江蘇省武進県西北)、陳の陳覇先(武帝、在位557~559)は呉興(浙江省呉興県)を生地とする。その範囲は数百里内におさまる。北朝では、さきにみたように武川鎮が王気の集合地であり、隋唐の大一統三百年の繁栄は、王気の大規模な集中による、と趙翼は理解する。



「地気の盛衰、久しければ則ち必ず変ず」


趙翼は、唐の開元・天宝年間(713~741・742~756)は、地気が西北地域から東北地域へ遷移した「大変局」の時代だという(「長安地気」巻20)。そのあらましは、つぎのとおり。


西北地域の関中は、古来帝王の居住地域であり、周・秦・前漢がこの地域に都城を置き、五胡の前秦・後秦、西魏・北周も長安を本拠地とした。隋は、前漢長安の故城から少し離れた龍首原(陝西省西安市)に大興(長安)城をあらたに造って遷都し、「天下を混一し、大一統を成した」。唐は、この長安により、開元・天宝期にいたって極盛をむかえた。極盛をむかえると必ず衰えるのが道理である。このときから地気が西から東北へ移りはじめた。范陽(北京地域)で突発した安史の乱(755~763)はその端緒である。


昭宗李曄(りよう:在位888~904)が洛陽に移されると、長安はただの一郡県となった。このとき契丹が遼を興したが、これこそ地気が西から東北へ転移する真の趨勢である。ただまだ幽州・薊州(北京地域)を領有するだけで、中原の統一までにはいたらない。


そののち東北の気は益ます蓄積し強固となり、金は天下の半ばを領有し、元・明は天下の全てを領有した。我が清朝は、全天下を領有するのみならず、さらに西北長城外の数万里にまで領土を拡大し、すべて東北の地からこれらを統制・支配した。これこそ王気がすべて東北に結実した明証である。


趙翼は、清朝の天下統治の正統性を、開元・天宝年間にはじまる地気の遷移によって説明したのである。



「気」の中国通史


趙翼は、歴史の変化、物価の変動からはじまって、王朝の交替とその要因をさぐり、さらにそれをこえる「大変局」を問題にする。その変化・変局の根柢に、かれは気の運動、気の集散、気の遷移をみいだし、「然るを期せずして然るもの」(前出「東漢功臣多近儒」)すなわち歴史変化の必然性を説いている。


『廿二史箚記』の「史学大全」「読史全書」をつらぬく根柢的な要素は、「気」であるといえる。この気の世界観、哲学は、はたして趙翼に独自のものであったのか。



「気化流行し、生生して息(や)まず」――気の哲学


明清思想史研究者の山井湧によれば、「気」とは物質そのものではないが、物質を形成する可能性を持つもの、物質的根源、あるいは物質以前の物質的因子である。「一気」「一元気」などともよばれるが、陰陽両様の性格をもちうるので「陰陽二気」とよばれ、さらに一段現実に近づいたものが「質」とよばれ、木火土金水の「五行」があてられた。かくして陰陽・五行の流行・交感・結合によって、現実世界の万物が生みだされると考えるのである。


気の哲学は、明代中期16世紀に朱子学の理・気哲学の批判からはじまった。それは、「天地の間は一気のみ」「理は気を離れて存在しえない」などと主張し、宇宙論としては気のほうを優越する原理とし、天地万物を気によって説明した。その完成者が清朝考証学の最高峰のひとり、戴震(1723~1777)、字は東原である。

戴震(安徽叢書所収『戴東原集』より)

気の哲学は、当時の体制教学であり、思想界を支配した朱子学から異端視された。そのため、その勢力は微弱であった。ただ当時学界を風靡した考証学の大家である黄宗羲(1610~1695)・恵棟(1697~1758)・程瑤田(ていようでん:1725~1814)・凌廷堪(りょうていかん:1755~1809)・焦循(しょうじゅん:1763~1820)・阮元(げんげん:1764~1849)は、気の哲学の系譜につらなるという。裏を返せば、清朝考証学の精髄をささえたのは気の哲学であったといってよい。


趙翼の生涯は、戴震以下の諸人と時間的にほぼ共通する。どのような交流があって、趙翼が気の哲学を共有するようになったのか、そのしだいはわからない。趙翼風に言えば、「みな一気の鍾まるところ」であろう。いまは、『廿二史箚記』がその記述のうちに気の哲学を共有する「読史全書」であったことを指摘するにとどまる。



参考文献

山井湧『明清思想の研究』(1980年、東京大学出版会)


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わたなべ・しんいちろう  1949年生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。専門は中国古代史、中国楽制史。京都府立大学教授、学長を経て、現在は京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター所長、京都府立大学名誉教授。著書に『中国古代の楽制と国家―日本雅楽の源流』(文理閣)、『中国古代の財政と国家』(汲古書院)、『中国古代の王権と天下秩序―日中比較史の視点から』(校倉書房)、『中国の国家体制をどうみるか―伝統と近代』(共編著,汲古書院)など



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