慎改康之
このたび岩波新書の一冊として上梓した『ミシェル・フーコー 自己から脱け出すための哲学』は、20世紀フランスの哲学者ミシェル・フーコーの著作をこれから読み始めようとしている人々に向けられた入門のための書である。
実を言えば、フーコーの入門書は、すでに数多く存在している。そのなかで拙著がいかなる意義を持ちうるのかについては読者のご判断に委ねるしかないが、そもそもそこに今新たに一冊を加えることが可能になったのは、何より、日本におけるフーコーへの関心の高さゆえのことであろう。
実際、いわゆるフランス現代思想を代表する人物として、フーコーの主な著作や講義録のほとんどがすでに日本語に翻訳されているし、フーコーに関する研究、さらにはフーコーを使用した探究が、文学、哲学、社会学などといったさまざまな領域において展開されている。そして日本におけるそうしたフーコーへの注目度は、2018年の『性の歴史』第4巻『肉の告白』刊行の際の反響を見ても、今日なお高まっているようにすら思われる。
それでは逆に、フーコーにとっての日本とはいかなるものだったのだろうか。西洋文化の歴史的変容を中心に据えたその研究活動において、極東の国日本は、いったいどのように位置づけられていたのだろうか。
一見して明らかなこと、それは、フーコーにとって、日本は決して、他と比べて特権的な場所ではなかったということだ。彼は、西洋と対置されうるものとしての東洋に関してはたびたび言及していたものの、日本を個別的かつ詳細に論じたことはないし、また、晩年に彼がアメリカで得たような体験を日本で得ることもなかった。ロラン・バルトやクロード・レヴィ=ストロースが日本に対して抱いたような愛着を、フーコーが示すことはなかったのである。
とはいえこれは、フーコーが日本に全く興味を持っていなかったということではない。確かに、日本を「表徴の帝国」ないし「月の裏側」などとしてとらえようとする企てに匹敵するものは見当たらないとはいえ、彼の言説のなかには、日本ないし日本文化について、それをただ単に東洋の一部としてではないやり方で扱っているものを見いだすことができる。また、彼は、日本を二度訪れているし、さらには、日本への赴任を希望して、それが実現しかけたことすらあるのだ。
そこで本稿では、フーコーと日本とを何らかのやり方で結び合わせるいくつかのテクスト、いくつかのエピソードを、極めて断片的なやり方で提示してみることにしたい。それらは、些細なもの、とりとめのないもの、いくつもの問いや謎を開くものにすぎぬかもしれない。しかし、少なくともそこには、他ならぬ日本の読者のために、フーコーへの入口として役立つ何かが見いだされうるのではないかと思われるのだ。
日本行きの希望と断念――モーリス・パンゲとの交友
フーコーは、『狂気の歴史』によって1961年に博士号を取得する以前、スウェーデンのウプサラでフランス会館館長を務めたのを皮切りに、ポーランドのワルシャワへ、さらにはドイツのハンブルクへと、フランス国外の職をいわば転々としていた。フーコーの伴侶ダニエル・ドゥフェールによって作成され、『ミシェル・フーコー思考集成』(筑摩書房、以下『思考集成』と略記)第1巻冒頭に収められている「年譜」によれば、1959年のワルシャワ滞在中に、フーコーは、友人の暮らす日本への赴任を選択肢の一つとして考えていたという。そして、遠く離れたアジアの地に赴くという希望をしばらくのあいだにせよ彼に抱かせたその友人こそ、日本とフーコーとの関係が語られる際には決まってその名が挙げられるモーリス・パンゲである。
パンゲは、パリ高等師範学校以来のフーコーの友人である。1950年に初めて出会い、1953年以来親密になったというフーコーについて、彼は、「ミシェル・フーコー その修業時代」と題された文章のなかで、ラカンのセミネールの聴講やニーチェの発見など、興味深いいくつものエピソードを紹介している。
そのパンゲが日本にやって来るのは1958年のことである。東京大学講師、次いで東京日仏学院館長を務めた後、いったんフランスに帰国するが、1979年に日本に戻り、再び東京大学にて、次いで早稲田大学にて教鞭を執った。こうした長い日本滞在の成果として、日本における「意志的な死」の問題を扱った著作『自死の日本史』が残されている。
やはりドゥフェールの「年譜」が伝えているところによれば、パンゲのいる日本に赴くというフーコーの希望が、1963年にいったんは実現しかけることになる。当時すでにフランスに帰国し、クレルモン=フェラン大学に勤めていたフーコーに対し、フランス外務省から東京日仏学院館長の職が提案されるのである。しかし、我々にとっては残念なことに、結局フーコーは、大学教授資格試験を準備中のドゥフェールのそばにとどまるため、東京行きを断念したのだった。
したがって、フーコーはかつて日本に対して少なからず関心を抱いていたということ、そしてその関心はおそらく、パンゲの存在に多くを負っていたということである。このようにフーコーと日本との最初の重要な接点として位置づけられるパンゲについては、物腰柔らかく懐の深いその教育活動によって多くの学生に貴重な学びをもたらしてくれたという点においても、日本におけるその功績がかけがえのないものであることを付記しておきたい。
谷崎潤一郎『刺青』 ―― 「ユートピア的身体」
『言葉と物』の刊行が大きな反響を呼び、それとともにフーコーの名が世に広く知れ渡ることになった1966年の末に、フランスのラジオ局フランス・キュルチュールにて彼の二つの講演が放送される。これらの講演は、2009年にまず一冊の書物として刊行され(邦訳は2013年に『ユートピア的身体/ヘテロトピア』として刊行)、次いで、2015年に出版されたプレイヤード版フーコー著作集第2巻のなかに、放送された内容をより忠実に復元したかたちで収められる。それら二つのテクストのうちの一つ「ユートピア的身体」において、特権的なやり方で引用されているのが、谷崎潤一郎の短編小説『刺青』の一節である。
「ユートピア的身体」では、まず、「私の身体」が、ユートピアに根本的に対立するものとして提示される。つまり、私の身体は常に私のそばに私とともにあり決して他所にはないということ、したがってそれはどこにもない場所の反対物であるということだ。
しかし、自己に固有の身体を「世界のゼロ地点」とみなすそうした現象学的な自明性から出発した後、フーコーはただちに、その自明性を攪乱しようと試みる。身体にもやはり「場所なき場所」があるということ、身体は私からさまざまなやり方で逃れ去るということが示されるのである。そして身体そのものをそのように「ユートピア的」なものとするいくつかのやり方のうちの一つとして、刺青が挙げられる。刺青は、仮面や化粧と同様、身体を、その表面に秘密の謎めいた言語を刻むことで、「世界のなかに直接場所を持たぬ一つの場所に入らせる」のだ、と。
そしてここに、谷崎の短編の一節が引用される。刺青師清吉によって若い娘の背中に針が刺されていく場面が、女の身体を「我々の宇宙とは異なる宇宙」のなかに移し入れるやり方を示すものとして提示されるのである。
1960年代のフーコーの「考古学的」探究が、現象学的思考に対する根本的な異議申し立てを含意していたということ、これは、拙著にも述べておいたとおりである。「ユートピア的身体」における「私の身体」の問題化は、したがって、そうした異議申し立ての変奏とみなすことができるのであり、その一翼を谷崎のテクストが担っているのだ。「八本の肢を伸ばしつつ、背一面に蟠った」女郎蜘蛛とともに、女の身体は、「自分自身の空間から引き離され、もう一つ別の空間に投影される」。『刺青』はいわば、自己への純然たる「現前」からの解放の物語として援用されているのである。
1970年の初来日――文学研究者の功績
日本行きを断念した1963年から7年の後、フーコーは初めて日本にやって来る。しかし当時、フーコーの主著のうちすでに翻訳されていたのは『臨床医学の誕生』のみであり、彼の名は一般にはあまり知られていなかった。1970年の時点では、フーコーの来訪を享受するための日本の側の準備が、いまだ十分に整ってはいなかったのである。
1991年に東京大学駒場キャンパスにて行われた国際シンポジウムにおける渡辺守章の報告によれば、そうした状況のなかでやって来たフーコーを待っていたのは、メディアの驚くべき無関心であったという。実際、1970年の日本滞在中のフーコーの主な活動といえば、「狂気と社会」と題された東大駒場での講演(『思考集成』222)、関西日仏学館における同テーマの講演(『思考集成』83)、日仏会館での「マネ論」、慶応義塾大学における講演「歴史への回帰」(『思考集成』103)、そして『知の考古学』の翻訳を準備していた河出書房新社によって雑誌『文芸』のために企画された渡辺守章および清水徹との座談会「文学・狂気・社会」(『思考集成』82)がすべてであった。
日本におけるそうした準備不足の背景として、渡辺は、メディアの意識が依然としてサルトルにとどまっていたことを挙げる。『言葉と物』の刊行によってフーコーが一躍時の人となった1966年は、サルトルとボーヴォワールが日本にやって来た年であった。当時の日本においては、「人間の死」を語った書物そのものよりも、それに対するサルトルの痛烈な批判の方が、はるかに大きな影響力を及ぼしていたのである。
しかしその一方で、いち早くフーコーの重要性を察知していた人々もいたのであり、それがまさしく、渡辺をはじめとするフランス文学研究者であった。やはり渡辺の報告によれば、これは、マラルメ、バタイユ、アルトー、クロソウスキー、ブランショといった、フーコーの文学論によって扱われている作家たちが、日本の若い研究者たちの関心を強くひいていたこととかかわっているという。日本においてフーコーへの扉をまず開いたのは、フランスの情勢に敏感でフランス語原文と直接格闘していた文学者たちであったということ。現在、多様な領域においてさまざまなアプローチが行われ、多くの成果を生み出しつつある我々のフーコー研究が、彼らが築いた礎の上に立っていることを忘れてはなるまい。
三浦按針と徳川家康――『言説の領界』
1970年の日本訪問から帰国した後、その年の12月に、フーコーは、コレージュ・ド・フランスでの開講講義のなかで、日本に関する一つの歴史的エピソードに言及する。それは、オランダ船リーフデ号の水先案内人として1600年に日本に漂着した一人の英国人と、彼に三浦按針という日本名を与えて外交顧問として重用した徳川家康との関係をめぐる逸話である。
拙著でも触れたとおり、翌1971年に一冊の書物として刊行されるその開講講義(『言説の領界』)において問題となっているのは、西洋社会において、言説を排除したり制限したり占有したりするために、いかなる手続きが用いられているのかということである。
その分析を進めるなかで、フーコーは、社会のなかで言説に対してはたらくあらゆる拘束力をたった一つの形象に帰着させてくれるものとして、三浦按針と徳川家康とのあいだのエピソードを挙げる。それはすなわち、数学の重要性を伝え聞いていた将軍が、かくも素晴らしい言説、かくも貴重な知を自分自身で手に入れたいと思い、その知識を有するイギリス人航海士を城に呼び寄せてそこに留め置き、一対一で教えを受けて学んだ、というものである。
この言及については、渡辺守章らとともに日本でのフーコー受容を先導した蓮實重彥が、1972年9月にパリで行われた対談「アルケオロジーからディナスティックへ」(『思考集成』119)のなかで、あなたはこの逸話をどのようにして知ったのかと質問している。これに対するフーコーの回答は、おおよそ以下のとおりである。
三浦按針のエピソードについて、私はそれを、1970年の日本への講演旅行を準備している最中に知ったように記憶している。この逸話が私にとって極めて意義深いものに思われたのは、将軍が、知と権力との深い関係を十分に承知していたことがそこから読み取られるからだ。つまり、西洋においては長いあいだ、知がある意味において理想化され、権力とは隔離されたものとして考えられてきたのに対し、その西洋の知を外部から見た将軍にとっては、逆に、それが権力と深く結合したものとしてとらえられたのだ、と。
知と権力とのあいだに結ばれる関係を解き明かすこと、これはまさしく、70年代の研究におけるフーコーの企てが目指していたことである。実際、開講講義に続く1970-71年度のコレージュ・ド・フランス講義では(『〈知への意志〉講義』)、西洋における知と権力との偽りの分断が、古代ギリシア以来のものであることが告発される。そしてその後、刑罰制度さらにはセクシュアリティについての歴史研究が進められるなかで中心的な問題となるのもやはり、知と権力とがどのようにして互いに含みあい、互いに増強し合ってきたのかということである。そうした探究に着手しようとしていた70年代初頭のフーコーが、ウィリアム・アダムズの運命に大きな興味を抱いたのは、至極当然のことであった。西洋の知と日本の権力との出会いをめぐる物語は、彼にとって、「はたして本当の話なのかと訝りたくなるほどよくできた一つの例」だったのである。
1978年の再来日――禅寺での対話
1978年、フーコーは再び日本を訪れる。1970年の彼の初来日から1978年までのあいだに日本に起こった変化として、第一に挙げるべきはもちろん、その間にフーコーの主著が次々に日本語に翻訳されたことであろう。1974年には『言葉と物』、1975年には『狂気の歴史』、そして1977年には『監獄の誕生』が刊行される。加えて、思想系の新たな雑誌の刊行、気鋭の論者たちの活躍など、フランス現代思想への関心は8年間のうちに大きく高まったのであり、日本でもようやくフーコーの来訪を享受する態勢が整ったのである。
かくして、1978年4月2日から29日まで、フーコーは日本に滞在する。そして今回は、対談やインタビュー、テレビ出演など、さまざまな活動を精力的にこなすとともに、福岡へ、さらには平戸へと足を延ばす。この滞在において発せられた彼の言葉の多くは、『思考集成』に収められている。渡辺守章と根本長兵衛によるインタビュー「性と政治を語る」(230)。朝日新聞に掲載されたインタビュー「危機に立つ規律社会」(231)。朝日講堂での講演「政治の分析哲学」(232)。東大駒場での講演「〈性〉と権力」(233)。渡辺守章との対談「哲学の舞台」(234)。吉本隆明との対談「世界認識の方法」(235)。そして、禅寺訪問の際の記事「M・フーコーと禅」(236)。
そのなかでもここではとりわけ、最後に挙げた禅寺訪問(4月23日から3日間、山梨県上野原の青苔寺禅道場に滞在)の際の、僧との対話におけるフーコーの発言に注目したい。というのも、そこには、彼における日本の位置づけが明確に示されているように思われるからだ。
フーコーが僧に対し日本に関して述べているのは、おおよそ以下のようなことである。自分の関心は、仏教哲学よりもはるかに、禅堂での実践や作法、つまり禅堂の生活そのものに向けられているということ。また、西洋の合理性およびその限界をめぐる自分の探究にとって、日本は解くことの最も難しい謎の一つであり、避けて通ることのできない問題を提起するものであるということ。そしてさらに、個人を非個別化する禅と、自己の魂の奥底にあるものを探り出させることで個人を個別化しようとするキリスト教的伝統とのあいだには、大きな対立が見いだされるということ。
要するに、ここで確認されるのもやはり、フーコーにとっての日本が、あくまでも彼に固有の研究活動から出発して、それとの関係においてとらえられたものであるということだ。実際、禅堂での生活への関心は、当時のフーコーが、キリスト教の修道生活に関する探究、つまり『性の歴史』第4巻の内容につながる探究を開始しつつあったことと関連づけられるし、日本が謎として問題とされるのも、禅における非個別化が強調されるのも、それらが西洋の合理性や個別化の実践に対する差異として現れる限りにおいてである。フーコーにとって、日本とはおそらく、自らの研究にとっての外部、ただし一定の考慮を必要とする外部であり、それ以上でもそれ以下でもなかったのだ。
かくして、禅寺での体験も、日本の知識人たちとのあいだの対談も、訪れた地方の印象も、その後のフーコーを大きく揺るがすことにはなるまい。そして、そうであるだけにいっそう、彼が日本で目にしたと思われるあるものに関して帰国後に綴った言葉が、我々にとって少なからず興味をそそるものとして残る。
ラブホテル――「かくも単純な悦び」
1978年の日本滞在の翌年、1979年4月刊行のゲイ雑誌『ゲ・ピエ』誌第一号に、この雑誌のタイトルの考案者でもあったというフーコーは、一つの短い文章を寄せる。意志的な死をめぐるそのささやかなエッセイのなかで、その末尾に置かれているのが、日本のラブホテルへの言及である。
「かくも単純な悦び」と題されたその短い文章によって(『思考集成』264)、フーコーは、少々「自殺の味方になって」話してみることを提案する。我々をまだ知らなかった人々が、我々の誕生を支度した。その際に払われたのと同様の細心の注意を、我々が我々自身の存在に終止符を打つために、許してもらうことはできないのだろうか。死とは、十分に準備し、整え、作り出さねばならぬものではないのだろうか。それは、ごくほんのわずかの瞬間だけただ自分自身のためにのみ存在する「見る者のない作品」に仕上げねばならぬものではないのだろうか、と。
十分に反省された死こそが必要なのだというこのような主張の後、そうした死のための特権的な場所として挙げられるのが、「東京のシャンティイー」である。そこに見いだされるのは、「最も不条理なインテリアに囲まれ、名前のない相手とともに、いっさいのアイデンティティから自由になって死ぬ機会を求めて入るような、地理も日付もない場所」の可能性である。その「幻想的な迷宮」のなかで、「人は、何秒、何週間、あるいは何カ月に及ぶかもしれぬ不確定な時間を過ごすだろう。逸してはならぬことがただちにわかるような機会が、抗しがたい自明性とともに現れるまで。その機会は、絶対的に単純な悦びという、かたちなきかたちを持っていることだろう」。
フーコーが日本を二度目に訪れた1978年は、まさしく、日本においてラブホテルが隆盛を極めていた時期にあたる。社会学者の金益見によれば、その豪華絢爛な設備によって大きな反響を呼んだ1973年の「目黒エンペラー」開業以来、全国各地に「城」が立ったという。フーコーの言う「東京のシャンティイー」とは、同じ1973年開業の「シャンティ赤坂」のことだったのだろうか。いずれにせよ、誰にも見られずに入室できるという匿名性による魅惑はある程度まで腑に落ちるとしても、この特異な「日本的」建築物に差し向けられたフーコーの言葉は、自殺に関する肯定的言明とともに、やはり我々を多少とも当惑させずにはおかない。
若い頃に自ら命を断とうとしたことのあるフーコーが、「我々よりも自殺に通じている」とする日本人の感性をそこに見て取ったということだろうか。あるいは、もっぱら愛を交わすためにしつらえられたその空間が、一種のユートピアとして、というよりもむしろ、「ヘテロトピア」として、つまり我々が通常生きる空間への異議申し立てとして現れたということだろうか。あるいは、西洋的な個別化の力に抗することを可能にしてくれるような地点が、そこに見いだされたということなのか。あるいは、そこで得られるという「絶対的に単純な悦び」とは、自己との関係におけるある種の美学へと送り返されるべきものなのか。あるいは、ラブホテルという「幻想的な迷宮」は、フーコーにとって、解きがたい謎としての日本の表徴のようなものだったのだろうか。
ここでは、こうした問いのすべてを開くだけにとどめておきたい。こうしたすべてを、フーコーが日本や日本文化に関して紡いだ言葉、そして彼が日本に残したテクストとともに、フーコーへの可能な入口として差し出すだけにしておきたい。それらの入口によって開かれる道が、我々をいったいどこに導いてくれるのかということも、ここでは問わぬままにしておこう。読むことが、それもとりわけフーコーを読むことが問題であるときには、日頃我々を煩わせる「出口」への気遣いからは自由になってしかるべきであろうと思われるのだ。
参考文献
モーリス・パンゲ「ミシェル・フーコー その修業時代」(『テクストとしての日本』筑摩書房、所収)
渡辺守章「言説の軌跡」(『ミシェル・フーコーの世紀』筑摩書房、所収)
金益見『性愛空間の文化史』(ミネルヴァ書房)
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しんかい・やすゆき 1966年,長崎県生まれ.東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程中途退学.フランス社会科学高等研究院(EHESS)博士課程修了. 現在―明治学院大学文学部フランス文学科教授 専攻―20世紀フランス思想 著書―『フーコーの言説――〈自分自身〉であり続けないために』(筑摩選書),『現代フランス哲学に学ぶ』(共著,放送大学教育振興会)など 訳書―ミシェル・フーコー『言説の領界』『知の考古学』(河出文庫),『ミシェル・フーコー講義集成』1・4・5・8・13(筑摩書房)など
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