布留川正博
私が奴隷貿易に関心をもったきっかけ
大学院の修士課程のとき、カール・ポランニーの経済人類学に関心をもち、修士論文にまとめたことは、本書の「あとがき」で触れました。博士課程に移ったとき、このテーマをそのまま続けることが難しくなりました。経済学よりも人類学の方に関心が傾きはじめていました。近代の人間社会を相対化したいという強い意識が背景にあり、異文化社会に興味をもちはじめたのだと思います。「先住民社会」や「アフリカ社会」が念頭にありました。
そして、ポランニーの研究のひとつに西アフリカのダホメ王国と奴隷貿易に関する著作(『経済と文明──ダホメの経済人類学的分析(Dahomey and the Slave Trade: An Analysis of an Archaic Economy)』)があったのです。これは、ダホメ社会が奴隷貿易をいかに取り込んでいたのかという視点から描かれていました。
しかし言うまでもなく、大西洋奴隷貿易はアフリカだけでなく、ヨーロッパや新世界と密接な関係をもっていました。3つの地域をつなげる奴隷貿易の構造と実態に迫ることは面白いのではないかと思いました。そこで、どこから始めるべきなのかについて考えをめぐらせ、まずは新世界に焦点をあて、そこからヨーロッパとアフリカをみるというスタンスを取ることにしました。
フィリップ・カーティンの『大西洋奴隷貿易(The Atlantic Slave Trade)』を読んで、アフリカからもっとも多くの奴隷を受け入れたのがブラジルであることを知りました。したがって、新世界のなかでもブラジルから奴隷貿易をみるべきではないかと考えたわけです。今から考えるとあまりにもストレートすぎると思いますが、これが私の思考回路なので仕方がありません。
南北アメリカの黒人奴隷制で真っ先に思い浮かぶのは、アメリカ合衆国南部のそれでしょう。私も本田創造『アメリカ黒人の歴史』(1964年、岩波新書)を学生時代に読んだと記憶しています。公民権運動や1963年8月28日の「ワシントン大行進」におけるキング牧師の有名な演説のことを、この本で知りました。また学生のとき、ある合唱団に所属し、霊歌(当時は黒人霊歌と呼ばれていました)なども歌っていて、団員のあいだでアメリカの黒人問題について議論したこともあります。しかし当時は、アメリカ南部の黒人奴隷しか頭になく、カリブ海諸島を含む南北アメリカ全体に奴隷制が広がっていたことを知りませんでした。
クンタ・キンテ
私を奴隷貿易の研究に向かわせたもうひとつのきっかけは、テレビドラマ『ルーツ』です。これは1977年1月に全米で放映され、平均視聴率44.9%を記録したといわれています。日本でも同年10月に8日連続、テレビ朝日で放映され、大きな反響を呼んだと記憶しています。ただし、当時私は会社員として忙しく、断片的にしか見ることができませんでした。のちにビデオで全編をじっくりと見ることができました。
第1話では、主人公のクンタ・キンテが西アフリカのガンビアで太鼓の材料を探している最中に誘拐され、海岸まで連れてこられ、奴隷船に乗せられる経緯がリアルに描かれています。奴隷船のなかでは、本書で述べたように、奴隷がすし詰め状態で、1日1回甲板でダンスをさせられます。また、同郷の者たちが相談し、叛乱を企てる様子も見事に描かれています。
結局、クンタ・キンテはアメリカのある農場に売られ、奴隷としての苛酷な生活が始まります。彼はそこでも誇り高きマンディンカ族の戦士としてのアイデンティティを強く抱き、奴隷身分からの解放を願い、何度も逃亡を企てるのですが、連れ戻され、制裁として足首の指の付け根部分を切断されることになります。ただし幸運にもというべきか、彼は妻を得て、『ルーツ』の作者アレックス・ヘイリーにつながる子孫を残すことができたのです。クンタ・キンテから子孫につながる物語が6話にわたって感動的に描かれており、本書を読まれた読者の皆さんにはDVDでぜひ見ていただきたいものです。
海賊と奴隷貿易
本書のなかで紙幅の関係で取りあげることのできなかったテーマのひとつに、奴隷貿易と海賊との関係があります。
もっとも有名な例は、ジョン・ホーキンス(1532–1595)でしょう。彼の名前はフランシス・ドレーク(1540頃–1596)とともに、エリザベス女王時代にスペインの無敵艦隊を破った提督として人口に膾炙しています。両者はエリザベス女王の支援のもとで、スペインの新世界との独占貿易に挑戦し、割り込みをはかろうとしたのです。
じつはホーキンスは、イギリスの奴隷貿易史上最初の船長としてその名をとどめています。大西洋奴隷貿易のデータベースについては本書で詳しく取りあげましたが、そのTSTD2には、彼が奴隷船の船長として航海した記録が4つ含まれています。興味のある方はwww.slavevoyages.org/voyage/databaseで確認してみてください。「captain’s name」の項目に「Hawkins, John」と入力し検索すれば出てくるはずです。
最初の航海は、1562年10月にプリマス港を出帆し、シエラ・レオネに向かい、ここで100人の奴隷を獲得し、翌年4月にスペイン領エスパニョーラ島で93人の奴隷を売却したとされています。奴隷船の名前は、サロモン号、大きさは120トンでした。
2回目の航海は、1564年10月にやはりプリマスを出帆し、セネガンビアやシエラ・レオネをまわってコンゴまで南下し、100人の奴隷を獲得。翌年4月にスペイン領のダリエン湾岸(カルタヘナか?)に到着し、92人の奴隷を売却しています。奴隷船の名前は、ジーザス・オブ・ルーベック号で、大きさは700トンでした。この船が大型のわりに積載された奴隷数が少ないのは、イギリスから様々な商品を積んで、スペイン領アメリカで売りさばいていたのではないでしょうか。スペイン領では、食料品だけでなく種々の物資が不足し、外国船からの積荷であっても高く売れたからです。
このふたつの航海でホーキンスは巨利を獲得し、影の出資者であった女王と政府高官にも相応の配当が行われたと言われています。これに味をしめたホーキンスは、1567年10月に2隻の奴隷船を出帆させています。この航海にはドレークも乗船しています。
このあたりの事情は、今や古典となった別枝達夫『海事史の舞台』(みすず書房、1979年)に詳しく描かれています。奴隷貿易そのものは成功したのですが、帰還の途中で嵐に遭い、メキシコのサン・ファン・デ・ウロア港に向かいました。このとき、たまたまここに入港してきたスペイン艦隊の奇襲攻撃を受け、大きな損害に見舞われます。ふたりは何とか帰還し、その後スペインに対して損害賠償の訴えを起こしますが、逆に不法侵入をとがめられます。
ホーキンスより10歳ほど若いドレークはこれに憤慨し、損害賠償を力ずくでとりたてる報復特許状をエリザベス女王から下付されました。彼は1570年以降、西インドや中央アメリカのスペイン植民都市で襲撃や掠奪を繰り広げます。
そして1577年から80年にかけて、彼はゴールデン・ハインド号による大遠征を実行しました。マゼラン海峡から太平洋に進入し、ペルー副王領の植民都市を荒らしたあと、スペイン最大の財宝船(おそらく銀船団)を拿捕し、莫大な財宝を奪ったというのです。その後北上しカリフォルニアに上陸、イギリス領アルビヨンと命名しました。帰路は太平洋を横断し、ポルトガル領香料諸島で香料を獲得し、インド洋を横断し、1580年にプリマスに帰還しました。マゼランに次ぐ世界周航ということになります。
こうした世界を股にかけた海洋での経験があって、ホーキンスとドレークは1588年、スペイン無敵艦隊をドーヴァー海峡で迎え撃つことになるのです。
奴隷貿易と海賊との関係でもうひとり忘れてはならないのは、ウェールズ生まれのバーソロミュー・ロバーツ(1682–1722)です。
奴隷船プリンセス号は1719年、ロンドンを出帆してシエラ・レオネに向かっていました。ロバーツはこの船に二等航海士として乗り込んでいました。しかし、途中で海賊に拿捕され、彼は海賊の仲間に入ることになりました。ロバーツは海賊としての経験を積み、頭角を現すようになります。この海賊の頭目デイヴィスがポルトガルの奴隷商人に殺害されると、次の頭目に選ばれ、当代一の海賊として「ブラック・バート」と呼ばれるようになります。3年間に400隻以上の商船を拿捕したといわれ、そのなかには多くの奴隷船も含まれていたのです。
奴隷商人たちは議会に働きかけ、イギリス海軍による取り締まりが強化されました。1722年2月、イギリス軍艦スワロー号はロバーツの海賊船を見つけ、攻撃しました。この海戦でロバーツは致命傷を負い死亡、仲間の海賊は黄金海岸のケープ・コースト城砦に連行され、絞首刑に処せられたと言われています。
奴隷貿易と海賊(行為)の親近性は、本書の第2章でもリヴァプールの奴隷商人ダヴェンポートのホーク号のところで触れています。
先住民の奴隷制
もうひとつ触れておきたいのは、黒人だけでなく、先住民(インディオ)を対象とした奴隷制があったということです。
先コロンブス期の先住民人口は新世界全体で5000万人以上と推定されていますが、スペイン、ポルトガルをはじめヨーロッパ列強が植民地化を進める過程で、先住民の様々な労働形態が生みだされました。ペルー副王領のポトシ銀山では、インカ帝国時代からの労働供出制度であったミタ制(輪番制)が採用されました。カリブ海諸島や南北アメリカではスペインから持ちこまれたエンコミエンダ制(委託制)が広範に導入され、スペイン人支配者(エンコメンデーロ)に対する一定の労働供出が義務付けられました。一種の強制労働とは言えそうですが、「動産」として売り買いができる奴隷制とは区別されています。
さて、先住民の奴隷制については新世界全体に遍在していたと思われますが、その実態はあまり明らかではありません。私の知るかぎりでは、ブラジルにおける砂糖プランテーションの形成過程で先住民の奴隷が見られます。それは次のような歴史的経緯です。
ポルトガルは1530年代からブラジルを本格的に植民地化しようとします。カピタニア制を導入し、その統治責任者(カピタンあるいはドナタリオ)が自費で植民地開発を行いました。その目玉になったのが砂糖プランテーション(エンジェーニョ)です。南のサン・ヴィセンテから北のバイアやペルナンブコまで、エンジェーニョを建設しようとしたのですが、その労働力として期待されたのが先住民です。しかし、これは結局失敗に終わりました。1530年代の終わりから先住民たちによって各地のエンジェーニョが焼き討ちに遭い、カピタンたちが殺害される事件も起こりました。
これには理由があります。先住民には伝統的な性的分業があり、男たちはマニオク(ヤマイモの一種でキャッサバともいい、今はやりのタピオカの原料)の栽培のための整地の作業を行い、女たちはそこにマニオクを栽培し、育て、収穫するのです。木の実や植物の採集は女たちが、狩猟は男たちが行う。サトウキビ栽培などの農業労働はもともと男の仕事ではなかったのです。カピタンたちの思惑と先住民の性的分業の慣習がぶつかったわけです。
植民地の無政府状態を是正するため1549年、ポルトガルはブラジルに総督制を導入します。カピタニア制のうえに中央集権的な総督府をおき、先住民の反抗を抑えようとしたのです。その際、先住民を「友好的インディオ」と「敵対的インディオ」に区別し、後者に対しては武力で鎮圧し、奴隷にしたのです。彼らをエンジェーニョの労働力としました。1560年代になると、友好的か敵対的かの区別もなくなり、無差別な奴隷狩りが横行するようになります。エンジェーニョはとくに北東部(ノルデステ)のバイアやペルナンブコで増加していました。先住民の奴隷に対する需要が高まっていたのです。
総督制が導入された際にブラジルにやってきたイエズス会の修道士たちは先住民の奴隷化に反対でした。彼らは、各地に教化村を作り、先住民を集め、布教活動を展開しました。奴隷になることを恐れて、教化村に逃げ込む先住民たちも多かったのです。
けれども、1570年代、西アフリカから黒人奴隷が少しずつエンジェーニョに導入され始め、先住民奴隷と黒人奴隷が同じエンジェーニョで作業することになります。両者を比較すると、黒人奴隷の方が先住民奴隷よりも労働生産性が3倍以上高いことがわかりました。アフリカ人社会では先住民社会でみられたような性的分業はなかったのです。しかし、その価格も3倍以上高かった。プランター(奴隷主)としては、労働生産性は低いが価格も安い先住民奴隷を選ぶか、価格は高いが労働生産性も高い黒人奴隷を選ぶか、選択を迫られたのです。
最終的にプランターは後者を選択するのですが、一挙に先住民奴隷を黒人奴隷と入れ替えたのではなく、徐々に何十年もかけて代替していったのです。当時、ヨーロッパでは砂糖の需要が増加し、その価格も高くなっていました。砂糖生産によって資本蓄積が加速し、プランターの黒人奴隷に対する購買力が大きくなったのです。こうして17世紀半ばまでに、エンジェーニョにおける労働力の主力は黒人奴隷になりました。しかし、これで先住民の奴隷がなくなったわけではありません。19世紀になってもアマゾン奥地での労働力として、また、都市の家内奴隷として先住民奴隷は存在していました。
エリック・ウィリアムズ、フィリップ・カーティン、TSTD
奴隷貿易・奴隷制にいち早く注目した歴史家、エリック・ウィリアムズについても本書で紹介していますが、彼が提起した問題のなかで、奴隷貿易港リヴァプールで蓄積された資本がマンチェスターの綿工業に投資されたとする議論は、実証的には明らかにされていません。しかし、両者の地理的な近さを考えると、アフリカ市場でインド産綿製品(キャラコ)が売れているという情報はリヴァプールからマンチェスターに伝わっていたのではないかと思われます。この点も含めてリヴァプールとマンチェスターとの関係を実証的に明らかにしていく必要があります。
カーティンは、大西洋奴隷貿易の全貌を明らかにするために当時利用できる一次史料、二次史料を駆使しました。しかし、彼自身がまだまだ不十分だと自覚していました。カーティン以降、様々な研究者が彼の「生きて上陸した奴隷数」に対して修正値を提起しましたが、決定的なものではありませんでした。やはり一次史料を地道に集めるしかなかったのです。
そして、1990年代からD. エルティスやD. リチャードソンらが中心になり、本格的に奴隷船の航海史料を集めはじめ、整理していったのです。しかし、これはひとりやふたりの力ではとうてい手に負えない、膨大かつ地道な作業だった。インターネットの力を借りて、世界じゅうの研究者がつながりました。膨大な史料を探索・整理するうえでは研究者だけでなく、彼らを下支えする多くのサポーターの存在も見過ごすわけにはいきません。
こうして現在では36,000件以上の奴隷船の航海データが上述のサイトにアップされるまでになりました。それぞれの航海には連行された奴隷だけでなく、様々な人々が関与していることがわかります。ヨーロッパの奴隷貿易港における人々の動き、アフリカの貿易拠点での人々の動き、新世界の荷揚げ港における人々の動き、また、帰還後の人々の動きを想像してみることができます。今後このデータベースを駆使して、多様な研究ができるのではないでしょうか。
グローバル・ヒストリーへ
グローバリゼーションという言葉が書物の題名に頻繁に登場するようになったのは、1990年前後からではないでしょうか。ベルリンの壁が打ち壊され、ソ連邦が解体し、「東西冷戦が終焉した」といわれる時期と符合しています。物事をグローバルな視点から捉え、また、グローバリゼーションの歴史的起源を探ろうとするスタンスが一般化していきました。
そのなかで奴隷貿易に対する関心も高まってきたように思われます。私の大学院時代には、奴隷貿易を研究対象にする人は数人くらいしかいませんでした。その中心に池本幸三先生(龍谷大学名誉教授)がいらっしゃいました。しかし今では多くの研究者が奴隷貿易に関心を抱き、多様な視座からアプローチしようとしています。
そして、奴隷貿易は大西洋だけではないのです。インド洋やアジアにおいても奴隷貿易がありました。この課題に取り組んでいる研究者もいらっしゃいます。これからは、まさにグローバルに奴隷貿易を解明することが求められるでしょう。
岩波新書との出会い
私の岩波新書との最初の出会いは、1969年頃に買い求めた『恐るべき公害』(庄司光・宮本憲一、1964年)ではなかったかと思います。本書のあとがきで触れたように、当時公害が日本列島の各地で問題となり、私は大きな関心を抱きました。友人たちと公害問題に関する研究会を立ち上げ、勉強会を開き、四大公害訴訟に関するシンポジウムを開いたりしました。アセトアルデヒドの生産工程で触媒として水銀が使用され、それが有機水銀となって排出され、水俣病を引き起こしていることを知りました。化学工学を専攻していた自分にとって、大きな問題として立ちはだかりました。そのころ一番読んでいた雑誌は、『世界』と『ジュリスト』です。
それ以降も多くの岩波新書を読んできましたが、印象深いものをもうひとつあげますと、黒沼ユリ子さんの『メキシコからの手紙』(1980年)でしょうか。バイオリニストの黒沼さんが、メキシコの地で子どもたちにバイオリンを教える過程で見えてくる現実、そしてその現実が長年にわたる植民地主義の抑圧の結果であることを、この書物は教えてくれました。とりわけ先住民(インディヘナ)に対する彼女の視線の温かさを感じました。
これに関連して、私の研究に大きな影響を与えた書物は、新書ではないのですが、参考文献にもあげましたナタン・ワシュテルの『敗者の想像力』(岩波書店、1984年)です。コロンブスの新世界発見とその後の植民地化の過程が先住民の視点から描かれた、画期的な労作です。今でも多くの人に読んでもらいたい書物です。
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ふるがわ まさひろ 1950年、奈良県生まれ。1973年、大阪大学基礎工学部卒業。民間企業勤務を経て、同志社大学大学院経済学研究科博士後期課程退学。同志社大学経済学部助手。専任講師、助教授を経て、
現在―同志社大学経済学部教授
専攻―大西洋奴隷貿易史,近代奴隷制史
著書―『世界経済史――世界資本主義とパクス・ブリタニカ』(共著、ミネルヴァ書房)、『近代世界と奴隷制――大西洋システムの中で』(共著、人文書院)、『岩波講座世界歴史15 商人と市場』(共著、岩波書店)、『グローバリゼーションとアジア――21世紀におけるアジアの胎動』(編著、ミネルヴァ書房)、『世界経済の興亡200年』(共著、東洋経済新報社)ほか
◇大好評発売中◇
布留川正博『奴隷船の世界史』岩波新書
本体価格820円+税、256頁
その犠牲者は、1000万人――400年にわたり大西洋上で繰り広げられた奴隷貿易の全貌が、歴史家たちの国境を越えた協力によって明らかになってきた。この「移動する監獄」で、奴隷はいかなる境遇に置かれたのか。奴隷貿易と奴隷制に立ちむかったのはどんな人たちか。闇に閉ざされた船底から、近代をとらえなおす。
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