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  • 執筆者の写真岩波新書編集部

今もいる。見えてない。隠されている。――『ひとり暮しの戦後史』重版に寄せて

更新日:2021年4月2日

西田藍




戦後、ひとりで生きた女性たちの記録。


彼女たちの労働と生活は、透明化されてきた。


本書『ひとり暮しの戦後史』に書かれた女性の人生は多様だ。彼女たちの人生を通じて、まさしく戦後史のB面にふれることができる。その多様な人生において、悲しいかな、経済的に豊かではないということは共通していた。


私の祖母は、私の母を生んでから数年後に寡婦となった。続いて舅も亡くなり、農家は男手を失った。一家の大黒柱として、祖母は外で働き始めた。それから50年以上働き続けた祖母が、私の高齢女性のモデルであった。


一家7人を養うため、生活のために働いていた祖母は、職歴や学歴があったキャリア女性というわけではない。祖母が落ち着いた職業は保険外交員。職歴や学歴を問わずとも女性が働ける職場であった。自分の夫が亡くなったときいかに苦労をしたか、と保険の大切さを説いていた(それはつまり、いかに公的扶助が足りなかったか、ということである)。そして、寡婦・母子家庭子供会で、福祉活動をしていた(そう、これも、いかに公的扶助が足りなかったか、ということである)。


母も働いていた。親戚の女性も皆、既婚未婚問わず働いていた。私にとっては、専業主婦がフィクションであった。祖父の早逝から一家が背負った大きな苦労が、そうさせていたと思う。本書にある「扶養主であった夫の死が、精神的な悲しみだけに終らず決定的な生活破壊」つながってしまった結果だ。「キャリア」や「女性の活躍」といった、華やかな言葉など身近には存在せず、ただごく当たり前に、普通に働いていた。


上の世代が苦労しつつもやってきたことなのだから――女性が働くのはあたり前のこととして、当然我々の時代には改善されているだろう、と薄ぼんやりと思っていた。そして、女性が(補助要員として、一定の資格職として、雇用の調整弁として、家庭内労働として)働くのは当たり前だが、それはそれとして、男性とは違った形でしなやかに働くのだという、そういう話が聞こえてくるようになった。出産可能性を考慮して。身体的差異は当然のことなのだから。

華やかな「女性活躍」「女性支援」の名のもとには、当然のようにキャリア女性が並ぶ。大きなアピール材料は、働きながら子育てができる環境。新しい形の夫婦、総合職夫婦のパワーカップル。その「勝ち組」の眩しさに、なにが女性支援だ、というインターネットの書き込みをよく見る。私もその眩しさを非常に羨ましいと思うので、あれが女性の標準ではない、と言いたくなる。本来、労働環境や貧困問題に男女対立はないのだが、貧しい女性は見えないものとされていたり、自ら選んだものとされていることが多い。


「子育て」支援は、当然独身者の貧困問題にはなんの支援にもならないのだが、なぜか「女性」支援といえば子育て支援とされており(もちろん子育て支援は大事なのだが)、独身者の貧困は置いていかれているように感じる。


現代において、一人暮らしであること、結婚しようとするパートナーがいないことは、決してみじめではない。結婚が当然だという社会ではない。でも、有職者の女性が「結婚しないと将来が不安」だと思うのはどういうことだろうか。女の面倒はその女を所有する人間が見るべきだ、という恐ろしき旧社会の前提がまだ生き残っているのではないのか。


結婚は生活の安定に繋がらない(私の祖母は、「結局男は死ぬ」とよく言っていた。確かにそうだ。誰もが死ぬし、タイミングは選べない)。パートナーシップに完全はない。それにもかかわらず、貧困問題の解決に「結婚」が出てくるのは、全ての問題を家庭内に押し込めようとしているだけだ。この時代と違い男女の人口に大きな差はないが、独り身の男女が抱える問題は「結婚」で解決しない。皆結婚社会とは、家庭内で行われる肉体的精神的暴力、性的暴行をはじめ、弱いものは耐え忍ぶしかないという恐ろしい社会でもある(そもそもセクシャリティの無視もある)。


女は働かない。男のように(真面目に、真剣に、人生をかけて、命をかけて)働かない。そう、まことしやかに語られてきた。昨今は女性の社会進出が「進んで」しまい、本来の「男女分業」は、女性の「自分らしい生き方」によって崩れてしまっているのだと……


いや、どの時代にも労働する女性はいた。労働者としての女性の側面は透明化されてきただけなのだ(先日偶然観た映画では、戦中戦後、山口百恵演じる新妻が肉体労働に励んでいた。彼女は特別な存在ではなかった)。シャドウワークどころではなく、わかりやすい賃労働者ですら、存在を消されてきたのだ。あらゆる分野で。女性向けの労働はずっと低賃金だったが、女性と同程度の賃金しか得られない男性が増えると、貧困は「社会問題」になった。


この本には記録されている貴重な証言は、労働史においては「例外」とされてきたのだ。


今もいる。見えてない。いや、今でも隠されている人がいる。


女性の貧困は男性にも関わる問題だと、本書でも問題提起されてきたというのに。私がツイッターで引用し大きく反響があったページは、「むしろ、女性の年金問題を、広く男子を含む低所得層の問題として対策を考えるべきではないか」と書かれた部分だった。それでも、「女性ばかり取り上げて」と反発の声があった。性別を明記しない場合、大抵は男性の話なのだ。女性の貧困を取り上げることは、男性の貧困を否定することではない。


この、低所得層の問題は、現在も解決に至っていない。


私自身は低所得層に属する独身女性である。最終学歴は高卒程度(高卒認定試験による認定である)、特別な資格も持っていない。私は母子家庭の低所得層出身だった。グラビアアイドルという目立つ職業についていたときもあったが、(売れていなかったとはいえ)それなりに忙しく一番仕事が多かった年ですら、貧困の定義に当てはまる所得しかなかった。「女だから楽に稼げる」と陰口どころか直接言われたこともあった。だが、女性が水着になることで得られた金額は、彼らの給料より低いであろう。ずっと国民年金に加入しているが、免除か猶予で凌いでいて、将来もらえる見込みはほとんどない。多分、これからも貧困だろう。


女性としての仕事とされている──妊娠、出産、子育て、を私ができるとしたら、あと10年ほどの間だろう。ただし、社会的に期待されるそれをやろうとすることと、生活の安定は全く関係ない。むしろより不安定に、より困難になるであろうという恐怖がある


私の貧困が私自身の特殊性によるものだったらいい。私が特別頭が悪く、特別に不器用で、私のような独身女性は、珍しいものだったらいい。まじめにきちんと働く独身女性が、低所得層のままなはずがないと。


しかし、やはり、そうではなさそうなのだ。



【4月2日編集部追記】

『ひとり暮しの戦後史』の著者・塩沢美代子さんの著書『結婚退職後の私たち』が4月20日に復刊されることになりました。



西田藍(にしだ・あい)

1991年熊本県生まれ。アイドル、モデル、エッセイスト、書評家。


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