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執筆者の写真岩波新書編集部

先行公開:大竹文雄『行動経済学の使い方』”はじめに”



9月20日発売の大竹文雄著『行動経済学の使い方』(岩波新書)から「はじめに」を、発売に先がけて公開いたします。


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私たちの生活は起きてから寝るまで意思決定の連続である。しかし、そのほとんどは、習慣的になっていて無意識に行われている。何時に起きるのか、何を食べるのか、何を着ていくのか、仕事では何をするのか、買い物は何をするのか、何時に寝るのか。こうした決定のすべてに頭を使って真剣に考えていては、疲れてしまう。それでも、毎日のすべての食事をあらかじめ決まったものにしているわけではないように、意思決定を自覚的にしている部分がある。日々の買い物のようにそれほど重要でないこともあれば、住宅の購入、就職、結婚、病気の治療といった人生の重要な意思決定もある。だれもが意思決定に悩むところだ。


このような意思決定をする際には、私たちは情報を集めれば集めるほど合理的な意思決定ができると考えて、多くの情報を集めることが多い。しかし、情報が集まれば意思決定をしやすくなるかというとそうでもない。あまりにも多くの情報があると、選択ができなくなってしまうことがある。蛍光灯ランプが切れた時に大型家電量販店に買い物に行くと、あまりにも多くの種類があり、選ぶのに時間がかかったという経験はないだろうか。近所のコンビニなら選択肢が限られているのですぐに買い物ができる。この場合、価格、性能、買い物にかかった時間をすべて考えると、どちらで買うことがよかったのかを判断するのは意外に難しい。


似たようなことは、私たちが病気になって病院で医者から治療方針の説明を受ける時にも感じる。医者は、治療法をいくつか提案して、それぞれのメリットとデメリットを述べる。「後遺症が出る確率は何%、うまくいく確率は何%です」「もう少し検査をすると正確なことがわかるかもしれないですが、検査をするには痛みと傷跡が残ります」というものだ。「終末期になった時に、人工呼吸などの生命維持治療を行いますか?」という深刻な質問を受けることもある。こういう質問に、すぐに答えられる患者や家族は少ない。選択の自由があることは嬉しいが、医療の専門家でもない患者が、医者から与えられただけの情報で正しい意思決定をするとは限らない。もう少し患者が意思決定しやすいように聞いてもらえたら、と多くの人は思っているのではないか。一方で、意思決定ができなかったり、医学的には望ましくない意思決定をしたりする患者がいた場合、医者の方は正確な医学情報さえ与えられれば、患者は合理的な意思決定ができると考えているようだ。


実際、医者からこのような考え方を聞いた際に、私は伝統的経済学におけるホモエコノミカス(合理的経済人)を思い出した。ホモエコノミカスとは、利己的で高い計算能力をもってすべての情報を用いた合理的意思決定を行う人間のことである。伝統的経済学では、そのような人間像を前提に経済学を構築してきた。しかし、1980年代から発展してきた行動経済学では、人間の意思決定には、伝統的な経済学で考えられている合理性から系統的にずれるバイアスが存在することが示されてきた。現代の行動経済学では、そのような人間の意思決定を前提にした経済学の構築が進められている。


伝統的経済学が前提とする合理的意思決定者なら直面しないはずだが、私たちが直面している様々な悩みを、行動経済学は分析対象としている。老後の貯蓄が必要だと思っていてもなかなかできない、宿題や仕事の締め切りがあるのにそれを先延ばししてしまう、ダイエットの計画は立てられるのに実行できない、といったことは典型的な行動経済学的特性である。実際、長時間労働をしている人の中には、仕事の先延ばし傾向が強い人がいる。行動経済学を理解することで、私たち自身の意思決定をよりよいものにすることができるだろう。


では、人間の意思決定には、どのような特徴があるのだろうか。行動経済学は、人間の意思決定のクセを、いくつかの観点で整理してきた。すなわち、確実性効果と損失回避からなりたつプロスペクト理論、時間割引率の特性である現在バイアス、他人の効用や行動に影響を受ける社会的選好、そして、合理的推論とは異なる系統的な直感的意思決定であるヒューリスティックスの4つである。


つまり、人間の意思決定は合理的なものから予測可能な形でずれる。逆に言えば、行動経済学的な特性を使って、私たちの意思決定をより合理的なものに近づけることができるかもしれない。金銭的なインセンティブや罰則付きの規制を使わないで、行動経済学的特性を用いて人々の行動をよりよいものにすることをナッジと呼ぶ。

この本では、行動経済学の考え方をわかりやすく解説し、行動経済学を使ったナッジの作り方と、仕事、健康、公共政策における具体的な応用例を紹介する。読者は行動経済学の基礎力と応用力を身につけることができるだろう。


本書のもとになった研究については、文献解題で解説し文献リストもつけたので、関心を持たれた読者は参考にしてほしい。


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おおたけふみお

1961年京都府生まれ。1983年京都大学経済学部卒業、1985年大阪大学大学院経済学研究科博士前期課程修了、1996年大阪大学博士(経済学)。大阪大学社会経済研究所教授などを経て、現在、大阪大学大学院経済学研究科教授。


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