• 岩波新書編集部

日本と独ソ戦(新書余滴)

大木 毅

満洲の原野を進むソ連軍部隊/ГАПК, фотофонд, П-9848.

先般、岩波新書で『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』を上梓した。幸い、ドイツやソ連の現代史を専攻する研究者、歴史には一家言ある読書家の諸氏にも高評価をいただき、ほっと胸を撫でおろしているところだ。もっとも、独ソ戦のような巨大なテーマを、それも紙幅の限られた新書で扱ったのであるから、書き切れなかったトピックが多数あったことは否めない。だが、さまざまな事象をすべて詰め込むことが不可能であるのは自明の理だ。


通史や概説の執筆にあたって必要不可欠なのは、何を書くかではなく、何を書かないかを判断するための物差し、言い換えれば、当該のテーマをいかに分析するかの枠組みであることはいうまでもない。それなしに、年表を文章にするがごとく、ひたすら時系列に沿って事実を並べてみたところで、読者は退屈するばかりであろう。──いや、何よりも、著者自身が、そんな単純作業に耐えられない。


よって、拙著では、独ソ戦は通常戦争、収奪戦争、世界観戦争(絶滅戦争)の複合戦争であったとの視点を採用し、そこから、軍事的な経緯、政治、外交、経済、占領政策、イデオロギーなどを論述した。とはいえ、かかる前提のもとで書いていくうちに、史実という砂金をつかみ取った指のあいだからこぼれおちた粒も少なくなかった。そのなかには、拙著の枠組みには入らなかったものの、おそらくは大方の読者の興味を惹くであろう、日本に関係がある論題も多々ある。


今回、幸いにも、拙著執筆にまつわる挿話を述べる機会を与えられたので、そうしたエピソードの若干を列挙することにしたい。いわば、一種の補遺として、また、肩の凝らないエッセイとしてお読みいただければ幸いである。


「満洲国」を蹂躙した作戦術


拙著で詳述したようにソ連側は、対独戦後半において、戦略目的達成のために、「戦役」(一定の時間的・空間的領域で行われる戦略ないし作戦目的を達成せんとする軍事行動)を相互に連関・協同させる「作戦術」を駆使し、ドイツ軍を圧倒した。この作戦術は、1945年の対日戦でも大きな成果を上げた。では、それは、具体的にどのような展開をたどったのだろうか。


1945年の日ソ戦争は、南方に兵力を転用し「張り子の虎」となった関東軍を、ソ連軍が数に物を言わせて圧倒した──。日本では、そうした理解が一般的である。しかし、それは事実の一面でしかない。ソ連軍はむしろ、作戦術によって日本軍を翻弄し、敵陣奥深くまでも同時に制圧し、突進する「縦深戦」によって、驚異的な進撃をみせたのである。


ソ連軍の対日作戦策定は、1944年秋までさかのぼることができる。同年10月、英首相ウィンストン・チャーチルはモスクワを訪問し、戦後の勢力圏分割について、ソ連の独裁者ヨシフ・V・スターリンと会談していた(第四次モスクワ会議)。そこで、スターリンは、ドイツ打倒の3か月後に対日参戦するとの言質を与えていた。この会議の一環として行われた米ソの軍当局の協議において、赤軍参謀本部作戦部長アレクセイ・I・アントノフ大将は、満洲および千島・南樺太侵攻のための兵力集中について、その概要を米側に伝えている。実は、赤軍参謀本部は、すでに1944年9月末以来、対日作戦計画の策定を開始していたのだ。


この計画では、1945年8月なかばに作戦を発動するとの想定のもと、極東に90個師団を集中すると定めていた。この膨大な兵力が、第一極東正面軍、第二極東正面軍、ザバイカル正面軍に区分される。各正面軍に与えられた任務は、作戦術にもとづく戦役の配置を明確に示すものだった。



第一極東正面軍は、「満洲国」東部の山岳地帯に、関東軍が築いた要塞群を攻撃し、その防衛を担当していた日本軍の第一方面軍に打撃を加えることとされた。加えて、北部からは、第二極東正面軍がチチハル、ハルビン方面に攻勢をかける。これだけでも、日本軍にとっては深刻な圧力であったが、ザバイカル正面軍は、より大胆な機動作戦を予定していた。西部の大興安嶺山脈、さらには外蒙古の砂漠・草原地帯といった戦車や自動車には不向きな地形に(日本軍は、大規模な部隊の進撃は困難と判断し、充分な兵力を配置していなかった)、敢えて機械化部隊を投入し、関東軍の後方、長春や奉天までも長駆進撃する計画だったのである。


これを作戦術の観点から説明すると、第一極東正面軍ならびに第二極東正面軍は、「満洲国」北部と東部を攻撃する2つの「戦役」を担当している。両者が相互に連関していることはいうまでもない。かかる攻勢に日本軍が対応しているあいだに、ザバイカル正面軍は、日本軍が大興安嶺山脈の峠を固め、進撃の妨害に出る前に、西から「満洲国」になだれこむ。孤立した敵守備隊を迂回し、はるか前方の要衝を奪取するのだ。そうして、関東軍の大動脈を断ってしまえば、第一極東正面軍と第二極東正面軍の攻勢も、いっそう容易になる。


また、当初は赤軍大本営代理として、各正面軍の調整にあたっていたアレクサンドル・M・ヴァシリェフスキー元帥が、ソ連最初の「戦域軍」司令官に任命されたことも見逃せない。それまで、アドホックに遂行されていた作戦術にもとづく指揮統帥が、正面軍の上に戦域軍を置くというかたちで制度化されたのである。


1945年8月8日午後5時(モスクワ時間。日本時間では午後11時)、ソ連外務人民委員(他国の外務大臣にあたる)ヴャチェスラフ・M・モロトフは、駐ソ日本大使佐藤尚武に開戦を通告した。日付が9日に変わると、ソ連軍の砲爆撃が「満洲国」の日本軍陣地に叩きこまれる。侵攻するソ連軍の前に、日本軍は局地的には激しい抵抗をみせたが(たとえば、「満洲国」東部国境に建設されていた虎頭要塞が陥落したのは、停戦後の8月26日であった)、作戦的には、ほとんど無意味だった。ソ連軍部隊は、抗戦を続ける日本軍拠点を迂回して、突進し、戦略的な要点をつぎつぎに占領していったからである。かくて、極東ソ連軍の対日作戦は、のちのちまで研究の対象となるほどの教科書的連続縦深打撃となった。対独戦で完成の極に達した作戦術は、「満洲」の地で再び、その破壊力を発揮したのであった。


七三一部隊の影


1941年10月、ベルリンの陸軍軍医学校において、一人の日本人が演壇に立ち、居並ぶドイツ軍医たちを前に、生物戦に関する講演を行った。彼の名は北條圓了(ほうじょうえんりょう)、東京帝国大学医学部を卒業したのち、陸軍軍医として七三一部隊に勤務し、チフス菌の研究を行った人物であった。当時、軍医中佐であった北條は(最終階級は軍医大佐)、細菌学研究のため、ドイツに派遣されていたのである。


北條は、その講演で、人体実験を行っているとは明言しなかった。が、そうでなければ得られないようなデータを列挙し、日本の生物戦準備の進捗ぶりを誇った。さらには、ドイツ側の立ち後れを批判し、エアロゾルで細菌を空中噴霧することによる「攻撃的生物戦」を共同研究する必要を説いたのである。


大方の読者にとっては意外なことであるかもしれないが、ドイツ国防軍の生物兵器研究は、それに対する防御に集中しており(ワクチン生産)、いわゆる「攻撃的生物戦」、すなわち、敵陣、あるいは、その後方に有害な細菌を蔓延させる作戦・戦術の研究は進んでいなかった。総統アドルフ・ヒトラーが、「攻撃的生物戦」を禁止していたためであった。


ヒトラーは、なぜ「攻撃的生物戦」を拒否したのか。その根拠については、さまざまな議論がある。1939年に「攻撃的生物戦」は実行困難であるとの報告を受け、それに同意したのだと説く論者もいる。この問題を研究したドイツの医師フリードリヒ・ハンセンは、ヒトラーといえども、ドイツの学術の誇りである生物学を攻撃に使用し、汚名を着せることを嫌ったのだと推測しているが、むろん、確証はない。ヒトラーの「攻撃的生物戦」拒否の論理を知ることは、史料的には不可能なのだ。


ただし、ヒトラーは、「攻撃的生物戦」の研究までも禁じたわけではない。ドイツ国防軍は、生物戦には看過できない重要性があるとみなし、陸軍軍医学校に勤務していた医学者ハインリヒ・クリーヴェを中心とするグループに研究を委託していた。彼らが、第二次大戦前半でドイツが占領した国々から接収した生物戦研究の成果は、ドイツ国防軍を憂慮させるに足るものであった。とくに、フランスが、細菌を死滅させることなくエアロゾルで散布する技術の開発を進めていたことは、生物戦に後れを取っていたドイツに衝撃を与えた。かかる状況で、北條講演は行われたのである。しかも、北條は、エアロゾルによる細菌撒布の重要性を説いていたのだから、ドイツ軍医たちが受けた影響はきわめて大きかったはずであろう。


翌年、1942年になると、対ソ侵攻が成功しなかったこともあって、ヒトラーも考えを変えた。同年5月にあらためて「攻撃的生物戦」を禁止していたのをひるがえし、翌6月に、あらゆる科学を動員した総力戦を行うべしと命じたのだ。さらに、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーが、「攻撃的生物戦」推進の後ろ盾になった。


きっかけは、1942年5月、ベーメン・メーレン保護領副総督に任じられていたラインハルト・ハイドリヒが、イギリスの支援のもと、同地に潜入した亡命チェコスロヴァキア人部隊により暗殺されたことだった。彼らが携行していた銃弾にボツリヌス菌が仕込まれていたことを知ったヒムラーは、兵器としての病原菌使用がはじまったと考え、「攻撃的生物戦」を強く支持するようになったのである。


ヒムラーの肝いりで設置された生物戦研究所(ガン研究所に偽造されていた)を指揮したのは、全国保健指導者代理だった医師クルト・ブローメである。ブローメのもと、1943年から1944年にかけて、ドイツの「攻撃的生物戦」は急速に進歩した。1944年には、ダハウの強制収容所で人体実験が行われている。なお、このころ、病原菌を媒介する昆虫の研究が進められていたが、その実験に使われたコロラドハムシは、日本から入手したものであった。


1943年から1945年にかけて、ドイツは、ペスト菌による「攻撃的生物戦」の準備を進めた。細菌培地を生産し、大量のペストワクチンを用意したのである。この細菌戦が実際に行われたかどうかは、一次史料では確認できないが、もし決行されたとしたら、七三一部隊が中国で行ったのと同様、航空機からペスト菌で汚染されたノミを撒くといったかたちを取ったであろうとする研究者もいる。


今となっては、北條圓了をはじめとする日本の軍医がドイツの生物戦関係者に、どの程度の知識やノウハウを提供したかは、史料的制約からつまびらかにできない。しかしながら、破棄をまぬがれた文書や証言から、ドイツの生物戦に七三一部隊の影が差していることは否定できないのである。


石原莞爾と独ソ和平工作


対米英戦争に突入した日本にとって、独ソ戦が悩ましい存在であったことはいうまでもない。独ソ戦が続いているあいだ、極東におけるソ連の圧力は減じるから、その点では有利になる。ところが、対米英戦遂行の観点からみれば、同盟国ドイツのリソースが対ソ戦に吸収されることは、それだけ、アメリカやイギリスの感じる脅威が少なくなることを意味するのだ。ゆえに、日本側では、独ソを和平せしめて、ヒトラーの戦力が米英に向かうようにするべしとの見解が有力だった。


なかでも、この策を強く主張したのは、ときの首相東條英機と対立し、野に下っていた石原莞爾(いしわらかんじ)元陸軍中将であった。日米開戦の日である1941年12月8日、講演のために高松にあった石原は、その夜、一睡もせずに「戦争指導方針」を書き上げた。そこには「強力なる外交により、速やかに独『ソ』の和平を実現せしむ」(旧字旧カナを新字新かなに直し、句読点を補って引用)とある。


1942年初頭、石原は具体的な行動に出た。彼の「満洲」人脈に連なるハルビン国際ホテル社長寺村銓太郎(てらむらせんたろう)とともに、独ソ和平工作を計画したのである。寺村の進言を受け、石原が仲介役として白羽の矢を立てたのは、ドイツ航空産業連盟日本代表のゴットフリート・カウマンだった。これを受けて、寺村は、参謀本部第二(作戦)課長の服部卓四郎大佐の紹介を受け、カウマンに接触、3月6日に独ソ和平斡旋の件を打ち明けた。


その際、和平工作の妨げになると思われたのは、駐独日本大使大島浩である。親独派で知られた大島は、当時、「ヒトラーの伝声管」ともいうべき存在になっており、独ソ戦についても、ドイツは和平などせず、徹底的に戦い抜くであろうと報告してきていた。よって、この大島を迂回するために、日本から特使を派遣するという方策が練られる。


ついで、寺村は、陸軍参謀本部作戦部長田中新一中将、ならびに同作戦班長辻政信中佐を説き、独ソ和平推進側に獲得した。また、オイゲン・オット駐日大使以下、ドイツ大使館の首脳部も、カウマン経由で和平斡旋の件を聴き、これに賛同した。対ソ戦遂行を唱える大島やドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップを通しては、その段階でつぶされる可能性があるから、日本から特使を派遣し、ヒトラーとの会談の席で和平斡旋を持ち出すと、打診の方策まで決められたのである。


ところが、ベルリンの姿勢は、独ソ和平どころではなく、むしろ日本の対ソ参戦を求める方向に向かっていた。1942年7月9日、大島大使と会見したリッベントロップ外相は、日本の参戦はソ連への決定的打撃となるであろうと強調した。そのため、大島は、ドイツは日本の参戦を要求してきたと本国に報告したが、東京はこれを拒否した。


この時点で、独ソ和平工作をめぐる日独の政治情勢は、ねじれた対立を示していたのである。つまり、一方では、独ソ和平斡旋を望む日本側とドイツ大使館、他方では、日本の対ソ参戦を慫慂するリッベントロップと大島という構図で、いわば東京とベルリンが枢軸側の外交をめぐって相争うがごとき様相を呈していたのだ。


しかし、こうして独ソ和平工作が広範囲に論じられるようになっては、日本の特使が斡旋の任を負っていることをベルリンに隠すことは困難になった。どのようなルートで伝わったかはさだかではないが、8月末にはもう、リッベントロップは、天皇の特使は独ソ和平を狙っていると疑うようになっていた。8月31日、大島を招いたリッベントロップは、独ソ単独和平の噂が日本から生じていると非難、調停に応じる意志はないと告げた。ヒトラーとの頂上会談で提案するはずの独ソ和平が、その主たる障害であるリッベントロップと大島に知られたとあっては、もはや仲介がうまくいくはずもなかった。


陸軍参謀本部を巻き込んだ石原莞爾の工作は、かくして挫折したのである。



参考文献

Vortragsmanuskript "Über den Bakterienkrieg", H 10-25/1, Bundesarchiv/Militärarchiv.

David M. Glantz, August Storm: The Soviet 1945 Strategic Offensive in Manchuria, Leavenworth Papers, No.7, Fort Leavenworth, Kan., 1983.

Ditto, August Storm: Soviet Tactical and Operational Combat in Manchuria, 1945, Leavenworth Papers, No.8, Fort Leavenworth, Kan., 1983.

Friedrich Hansen, Biologische Kriegsführung im Dritten Reich, Frankfurt a. M./New York, 1993.

フリードリッヒ・ハンセン「ナチズム時代の生物兵器開発」および「第二次大戦中のドイツの生物戦」(神奈川大学評論編集専門委員会編『医学と戦争 日本とドイツ』神奈川大学評論叢書第5巻,御茶の水書房,1994年所収)

中山隆志『ソ連軍進攻と日本軍──満洲―1945.8.9』国書刊行会,1990年.

同『一九四五年夏 最後の日ソ戦』国書刊行会,1995年.

拙稿「独ソ和平工作をめぐる群像──1942年の経緯を中心に」および「独ソ和平問題と日本」(大木毅『第二次大戦の〈分岐点〉』作品社,2016年所収)


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おおきたけし 1961年生まれ.立教大学大学院博士後期課程単取得退学.専門はドイツ現代史,国際政治史.千葉大学ほかの非常勤講師,防衛省防衛研究所講師,陸上自衛隊幹部学校講師などを経て,現在,著述業.




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