top of page
  • 執筆者の写真岩波新書編集部

軽部謙介さん『官僚たちのアベノミクス――異形の経済政策はいかに作られたか』インタビュー




話題の新刊『官僚たちのアベノミクス――異形の経済政策はいかに作られたか』の著者である軽部謙介さんにお話をうかがいました。

  * * *


僕たちの仕事は、

きちんと事実を検証し、

チェックし、

読者たちにファクトを届けること



◆達成感半分、反省半分


——無事書き上げられて、今の心境はいかがですか?


いつもそうなのですが、達成感半分、こうすればよかったという反省半分でしょうか。もちろん、不完全なものをお届けしているわけではないのですが、この取材先には、もっと戦略的にこういう攻め方ができたのではないかなとか思ってしまうわけです。


僕はラグビーが好きで、テレビなどでもよく見ますし、実際に観戦しにいくこともあります。たとえば、ディフェンスのとき相手バックスに猛烈な圧力をかけて、頭から突っ込んでいってもスルリとかわされてしまうことがよくある。政治家や官僚、あるいは日銀当局者という権力側にいる人々を相手に取材するときの反省ということを たとえて言うならば、そういう感覚でしょうか。


——幸い、刊行直後から好調な売れ行きです。直接の手ごたえや反応はいかがですか?


うれしいことだと思います。出来を評価するのは僕ではなく、読者の皆さんなので。


――一方で、「三本の矢」と言いつつ、実際には金融政策に関する記述の比率が多いのではないかという指摘もあるようです。これについては、いかがですか?


そうですね。ただ実際にアベノミクスの三本の矢は、それぞれが3分の1ずつの割合で日本経済に影響を与えたのではありません。金融政策が過半を占めていたという声は大きいし、僕もそう思います。したがって、金融政策に関する記述が増えてしまったのは仕方のないことかなあ。


また、権力構造という視点からも、財政や規制緩和が政府で議論されるのはよくわかりますが、なぜ金融政策という本来は独立した中央銀行で議論されるべきものが、今回、大衆討議のような形になっていたのかというポイントの解明は大事なことだろうと思っていました。それはサブタイトルに「異形」という強い言葉を使ったことにも通じています



◆ 権限が急拡大する日銀


——本書の刊行とほぼ同時期に、日銀の次期人事が発表となりました。この人事については、どのようにご覧になりますか。


人事の話をする前にこういうポイントを指摘しておきたいと思います。それはアベノミクスの5年間で日銀は大きく姿を変えてしまったということです。権限の急拡大と言ってもいいでしょう。今、日銀は、長期金利も短期金利もコントロールしています。以前「長期金利そのものは絶対にコントロールできない」と言っていたのにもかかわらずです。しかし、考えてみれば、昔は財務省の前身である大蔵省が長期金利はオレが決めるみたいな顔をしていました。それは毎月発行していた国債の金利設定もそうですし、資金運用部資金を活用した国債市場への介入もしていましたね。また、 為替政策も所管は財務省ですが、一昔前と異なり市場介入などはほとんどできない。ところが、金融政策がどちらを向くかは円安になるか円高になるかの大きな決定要素です。さらに、日銀が保有する国債残高はこの5年で急拡大して今450兆円近くに 達します。ここまで大きくなれば、一つ一つのオペレーションが国債管理政策になってしまうし、財政を裏側から担保する役割を果たしているとも言えるでしょう。


つまり本来は財務省の権限だったものが、ずいぶんと日銀に事実上移管されているなと思うのです。先日お話しした元最高幹部のお一人は「そう見えるだけだ」と笑っていらっしゃいましたが。


本書の対象期間は2012年秋から13年の夏前までです。アベノミクスのスタート前後を対象にしていたわけですので、13年夏以降の期間にも、経済ジャーナリストにとっては解明するべき点が数多く残っているだろうと思います。


――なるほど。そういう日銀の総裁選びだったというわけですね。


そうです。こんなに権限の拡大した組織をだれが統御するのかというのは、1998年に施行された日銀法で予定していたことなのかなと思うわけです。そして、今の政府との関係を見ていると、日銀=日本のマクロ政策全般を司る「全能の神」の後ろには首相官邸がいるという構図ですよね。それでいいのだろうか。チェックはそれで可能なのか、言い換えれば正当性のあるチェックができるのかという問題につながるのだろうと思います。


もちろん、いわゆる「出口」に向かうときに何が必要かという議論が大きくなっていくのでしょうが、黒田さんの再任で政策的にこれまでと大きく変わることはないと思います。これだけ権能の拡大した日銀のトップが選ばれる意味は、5年前と大きく変化していますよね。誰がどのポストにつくのかということを報じることは非常に重要ですし、ジャーナリズムの醍醐味のひとつですが、構造的な変化の中でのトップ選びの意味を考えないと物事の全体が見えていないことになるのではないかとも思うのです。


◆「権力の相互抑制」を


——軽部さんは、これまで他のご著作でも、「チェック・アンド・バランス」ということに繰り返し触れていらっしゃいます。


ワシントン支局に前後二回、合計8年近く在籍して、米国の三権分立を目の当たりにしたからかもしれませんね。米国のチェック・アンド・バランスはすごく機能している。今のトランプ大統領の支離滅裂な選挙公約がすぐに政策として結実しないのは、連邦議会と最高裁がきちんと抑制するからです。もちろん、政治は停滞します。しかし、それはむしろ民主主義にとって歓迎するべきことなのではないか、よりよい社会を求めていくために必要なコストなのではないかと思うのです。


それにくらべて日本の議院内閣制は、首相一強という状況を作り出してしまった。あとがきにも書きましたが、特定秘密保護法や集団的自衛権の問題をみても、民主主義に必要な「権力の相互抑制」が日本では決定的に欠けているのではないかという思いを抱いています。今の政権もそうですし、民主党政権で首相をお務めになった菅直人さんなども、「不満なら4年後の選挙で代えればいい」などとおっしゃっていますが、 選挙制度がこれだけいびつな中で、この主張に説得力はないでしょう。



◆原点は、ニュースを待つおじさん、おばさんの姿


——本書の最後で、ジャーナリズムの役割の大きさについて触れていらっしゃいます。なぜ今ジャーナリズムなのですか。


僕のジャーナリズム論は個人的な体験から始まっています。実は中学生のときに新聞配達をしていたんです。もう半世紀近く前の話ですね。読売新聞の朝刊だけでしたが、毎朝200部。これ、結構きついんですよ。自転車の前と後ろに乗せて午前4時とか5時から配るのです。最初の頃は何度も転びました。ただ、やってみると分かるのですが、毎朝僕を待っているおじさん、おばさんがいるんです。玄関の前なんかで体操しながらとかね。彼らは僕をみると「ご苦労さん」とかいいながら、まず一面からじっと見ている。僕のジャーナリズム論の原点はニュースを待つ人の姿なのだろうと思います。


彼らはニュースを読んで様々な思いを抱く。怒りだったり、喜びだったり。そして政治や社会に対して「よくやっている」とか「何とかならんのか」という風になるんですが、それらの思いは社会で何が起きているか知ることから始まるわけですよね。それは国民の知る権利の行使でもあるわけです。玄関の前で待っているおじさん、おばさんの知る権利です。僕らはその権利行使の代行業務をやっているのではないかな。


もちろん、メディアには様々な役割があります。ただ、僕は権力をチェックするという行為がわれわれには必要不可欠だろうと思うのです。権力は暴走しようとしますし、嘘もつく。政府当局者が必ずしも正しい情報を発信しているとは限らない。それは内外の歴史が示していますよね。


たとえば、立花隆さんは以前書いた『アメリカジャーナリズム報告』(文春文庫) の中で米ワシントン・ポスト紙のベン・ブラッドリー編集主幹がこう言っていたと書いています。ウォーターゲート事件報道の指揮をとりニクソン大統領を辞任に追い込んだジャーナリストです。亡くなってしまいましたが。


政府は真実を述べることにそれほど関心をもっていないんですよ。都合の悪い真 実に対してはできるだけうまい光の当て方をして都合よく見せるんです。ベトナム戦 争がそのいい例です。

本と資料に埋もれた軽部さん


――沖縄密約などを思い出しても、ブラッドリー氏の言ったことは日本で起こっているのですね。


その通りです。対岸の火事ではない。しかも、先ほども言ったように日本の議院内閣制はチェック・アンド・バランスの機能が非常に弱い。統治機構内部で相互抑制が効かないなら、それをやるのはジャーナリズムだろうと思います。本書でどこまで迫れたかはわかりませんが、為政者や官僚の行為を丸裸にしていく試みはこれからも一層重要性を増していくでしょう。そしてそれが国民の知る権利行使の代行業務強化につながるのではないかと思うんです。


3月末に日本でも封切られる『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』(スティーブン・スピルバーグ監督,2017年)というのは非常にいい映画です。米ワシントン・ポスト紙を舞台にして、政府の最高機密文書を報道することの是非を争う物語なのです。僕は試写会で見たのですが、ぜひ劇場に行ってご覧になることをお勧めします。「ペンタゴン・ペーパーズ事件」という史実に基づいたこの映画の最後のところで、連邦最高裁判所がメディア側勝利の判決を下します。この中で、最高裁のフーゴ・L・ブラック判事はこういう趣旨のことを述べるんです。米国のメディア史に残る名言として有名です。


表現の自由が認められるのは、メディアが、統治する側ではなく、統治される側に奉仕するために存在するからだ。

この判決理由を聞いて、ワシントン・ポストの編集局内に待機した記者たちが歓声をあげるというシーンは胸に迫りました。

――なぜそれが今、重要なのですか。


最近「権力を監視する」という機能について、一部の新聞人の中からも疑義が呈され始めた。こういう一部の問題提起を「あいつらは政治的に今の政権と近いから、権力の監視などむしろ邪魔なのだ」とみる同僚もいますが、僕はこういう状況は危機的だろうとみています。与党であろうが野党であろうが、彼らの行動は権力の行使なのです。政府の役人の行為も同じです。そして与党や内閣を構成する政治家の行為がよりその色合いを強く持っている。だからこそ、僕たちの仕事は、某保守系紙のように 言葉汚く他紙をののしることではなく、きちんと事実を検証し、チェックし、読者たちにファクトを届けることだと思うのです。それは、玄関の前で待つ人に届く新聞でも、書店を訪れた人が手にしてくれる書籍でも同じです。危機的状況だからこそ、今一度ジャーナリズムのもつ意味を考えなおさねばと思います。


こういう検証の仕事は、調査報道の一種ですから手間や暇、金もかかるのですが、問題意識をしっかりともって今後とも取り組んでいきたいですね。

最新記事

すべて表示
bottom of page