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  • 執筆者の写真岩波新書編集部

虐待死 なぜ起きるのか、どう防ぐか(新書余滴)

川﨑二三彦



90年代の児童福祉司


午後8時、例の如く残業していたところへ警察署から電話。


「母と内縁の夫を逮捕したけれど、子どもたちの行き場がないんですわ……」


今から一時保護してほしいというのです。悲しいことに私の担当地域での出来事。議論の余地はありません。夜遅く、小4と小1の兄弟がやってきました。子どもたちを居室で寝かせると、すぐに会議資料の作成に取りかかります。真夜中に児童相談所で何が起こったのか、翌朝、臨時ケース会議を開いて説明し、一時保護の(事後)承認を得るのです。


                   *


これは、児童虐待防止法など影も形もなかった1990年代に京都府の児童相談所で児童福祉司をしていた私の日常を伝えるべく、誰かに書き送った原稿。いささか長くなってしまうが、前置きが長いのは私の悪癖。続けよう。


○ケースワークデザイン


この事例、不思議なことに、住居はA市なのに所属する学校はB市にあります。兄に聞くと、すでに2年前から電車通学しているとのこと。事情はわからず、逮捕された母の拘留期間も不明ですから、この後の調査が重要です。まずは留置されている母との面接を試みるのか、それとも学校調査を優先させるのか、手順を決めなければなりません。


ところが、臨時ケース会議を終えると、この日の私は終日保健所で発達相談をし、それが終わって夕方からは家のお金を持ち出す小6女児の新規相談を予定していました。時間がないのです。しかも保健所で予定していた午前中の相談が、かなりの困難事例。母は精神科の治療が必要とされていて、離婚している実父となぜか同居しています。この両親が体罰を繰り返し、子どもは保育園で落ち着かず暴力をふるう、最近は登園もままならず、家の中でさらに体罰を受けているらしい。


「あのう、申し訳ないんだけど……」


多忙さでは引けを取らぬ隣席の児童福祉司の顔色をうかがい、拝み倒して午後の発達相談を代わってもらいました。その時間を一時保護の子どものために割くのです。


さて保健所に着くと、まさにこれから面接という段になって事務所から電話、いろいろ考えて午後に小学校を訪問しようと決め、打診していたことへの返事が入ったという連絡です。


「校長の都合で、何とか午前中にお願いしたいとのことでしたよ。返事をしてあげてください。それと、講演依頼の電話が入ってます。無理は承知だが何とか引き受けてほしい。早急に返事がほしいとのことです。電話番号言いましょうか?」


“やめてくれ! こっちはそれどころじゃないんだ!”


講演依頼はうっちゃって、小学校には保健所での相談が終わり次第、駆けつけることにしました。おまけに慌てた自分が悪いのか、鞄の鍵が壊れてしまい、引っ張っても叩いても開いてくれません。ええいとばかりにハサミで切り裂き、昼食は公用車の中でパンを囓って済ませ、急ぎ学校に向かいます。


○ケースワーク手順の失敗


さて、先に学校へ行こうと決めたのは、校区外通学が長く続いているのだから、おそらくこの家族について詳しい情報を持っているだろうと踏んだから。母の情報もない上、留置場では落ち着いて面談もできないだろうし、まずは基礎的情報を得ようとしたわけです。ところがこの訪問は思惑外れの失敗。学校は校区外通学の事実さえ知らず、居所も把握していません。一時保護の事実を伝え、そもそも一時保護とはどのようなものかを説明し、問われるまま今後の不透明な見通しを語るだけで、何の情報も得られない訪問となりました。


「思うに、どんな相談であれ一個のケースワーク全体を見渡したとき、他の人はいざ知らず私個人においては、凡そ何の失敗もなかったということは皆無であると言わざるを得ない。ただそうして失敗を重ねていて感じることは、一つのミスが取り返しのつかぬ事態を生むことは意外に少ないということだ。というより逆に、間違いに気づき、その間違いを克服する道を探り当てようとする中から新たな事実を発見したり、思わぬ力が発揮されたという経験も多いのである。ケースワークの個々の局面においては失敗を恐れてはならず、失敗に気づかぬことをこそ恐れねばならない、と私は常々思っている」(拙著『子どものためのソーシャルワーク 家族危機』明石書店、2006年から引用)


気を取り直して事務所に戻ると、今度は兄弟二人と面接。


「昨日ここに泊まってどうやった? 」

「嬉しかった! オモチャもあったし」


これが弟の第一声。見知らぬ一時保護所の方が自宅よりいいと言うのですから、複雑な思いを禁じ得ません。ここで私が困ったのは、子どもたちに母の逮捕が隠されていること。この一時保護をどのように説明してやればいいのかを考えねばなりません。


そうして二人の面接が終わった途端、早くも次の来客。しかもこれがまた予定外の事態。私は保護者の話をじっくり聞くつもりで親御さんの来所を案内したのに、金銭を持ちだす当の女児も一緒に来ているのです。こんなときは、相談室にお茶を運んでご家族にも一息入れてもらい、事務室に戻って声を出し、自分に言い聞かせます。


「よし、3分考えて面接の方針を立てろ!」


この独り言に周りはいつもはた迷惑。ところがここで別件の電話。


「えっ、はいそうです。ええ、ええ……」


ということで3分間は使われて、かけ声もむなしく面接室に入ってみると、案の定、女児は緊張して表情も難い。そこで私は……。



取り返しのつかない虐待死


というような日々を送る児童福祉司に、皆さんはどんな感想を抱くであろうか。「ご苦労様」とか、「大変ですね」などという声が聞こえてきそうだが、実は私は、さまざまな家族に翻弄され、食事もそこそこに走り回り、深夜に呼び出されて慌てふためく自分に呆れ果て、そんな自分を嗤いつつ、我を忘れて相談業務に熱中し、夢中になった。


「世の中にはこんな人もいるんだ!」

「どうしてそんな選択をしてしまうんだろう、この人は?」

「ああ、それが家族の秘密だったのか……」


相談に訪れる子どもや家族と出会うたびに驚かされ、あるいは感動し、興味を惹かれ、不謹慎な言い方かも知れないが好奇心を刺激され、気づくと、児童相談所というところにすっかり嵌り込んでいたのである。


だが、2006年10月、そんな私を打ちのめす出来事が起こった。本書の冒頭でも紹介した、京都府長岡京市での3歳男児餓死事件である。


「失敗を重ねていて感じることは、一つのミスが取り返しのつかぬ事態を生むことは意外に少ないということだ。というより逆に、間違いに気づき、その間違いを克服する道を探り当てようとする中から新たな事実を発見したり、思わぬ力が発揮されたという経験も多いのである」


こう書く私は、お膝元である京都府で発生した虐待死を前にして、それがまさに「取り返しのつかぬ事態」であることを思い知らされ、呆然とし、言葉を失った。


事件が発覚すると、マスコミ各社はその日のうちに当該児童相談所に集まった。ところがこの日は日曜で、おまけに所長は遠方に出張しており、急遽戻ってきたものの準備不足のままの質問攻め。結果的に一部誤認もあり、その点でもマスコミから厳しく批判された。


事件発生の2日後、京都府は早くも第1回検証委員会を開催したが、国の関心も高く、死亡事例にかかる検証を行う国の専門委員も随時傍聴するなど、異例の取り組みが行われた。


今となってはもはや時効だと思うので、裏話も含めて当時のことを書きとめておこう。検証報告書によると、ヒアリングの対象者は合計22人。その中には、中央児童相談所機能を持つ宇治児童相談所で課長をしていた私も含まれ、2度にわたってヒアリングを受けたことは、本書にも記載した。ヒアリングでは、京都府の児童相談所が抱える種々の問題や課題を誠実に説明したはずだったが、思いもよらず詰問されてしまった。


「ミスでないと言いたいのか」

「職場の問題を何かにすりかえるつもりか?」


検証委員の無理解が余程腹に据えかねたのか、ヒアリング終了後、私は、「ヒアリングについての補足」と題する約1万字に及ぶ意見書を提出した。一方京都府は、検証委員会とは別に、児童相談所のありのままの実情を知りたいと、休日、本庁福祉部の某幹部がお忍びで宇治児童相談所を訪ねてきたり、事件を気にした総務部長が、私と同郷、同期のよしみもあってか、話を聞きたいとラインを飛び越えて連絡してきたりもした。


こうして、2か月間に合計9回の検証委員会が開かれて12月末には報告書がまとめられ、国においては翌1月、本事例もふまえて児童相談所運営指針の改定が行われたのであった。



どんな家族なのか

ところで、本事例では、事件発生2か月前の8月下旬、男児が「ふっくらとしていて元気」だったことが一時保育を行った保育施設で確認されている。それが、どうして10月には餓死しなければならなかったのか。後に開かれた公判によると、継母の妊娠がきっかけだという。妊娠がわかると、親戚がこもごも出産に反対したらしい。


「上の子を預けているのに」

「下の子はまだおむつもとれていないのに」


こんな風に言われても、夫婦は出産を望んだという。


家族図(ジェノグラム)を描いてみて、私にはその気持ちが何となくわかるような気がした。

家族図(ジェノグラム)。継母には本児の異父姉となる実娘(17歳)がいる。

継母はもう39歳。


「今中絶してしまえば、この後、夫との間に子どもをもうける機会があるかどうかわからない。せっかく授かったお腹の子はなんとしても出産したい」


そう考えてもおかしくないだろうと想像したのである。そして9月、男児は3歳になったが、未だに排泄の失敗が続く。焦った継母は、「おむつがとれないのはおかしい」と、しきりに父に訴える。そこで二人は相談し、“トイレが言えなければ食事を抜く”というルールを決めたのであった。こうして食事抜きの生活を強いられた男児は急速に痩せていき、およそ1か月後に死亡する。


私は考え込んでしまった。


当時、検証委員会は、地元の民生委員から繰り返し通告を受けていたにもかかわらず、子どもを保護しなかった児童相談所の問題点や課題を抽出することに集中し、48時間以内の安全確認や、リスク管理のシステム化、組織体制の充実、強化などを提言した。京都府はこうした提言に基づく取り組みを進めていったが、果たしてこの事例から学ぶべき教訓はそれだけでいいのか、という疑問が消せなかったのである。



遅すぎたのか、早すぎたのか


事件翌年に京都府を退職し、子どもの虹情報研修センター(以下、虹センター)研究部長として勤務を始めた私の脳裏には、だから新たなテーマが焼き付いていた。


「虐待死が起きてしまう家族って、どんな家族なのか」

「家族の中で、何が起こっているのか」

「家族のことを知らずして虐待死を防ぐことはできない」


考えてみると、本書はすでに、ここからスタートしていたのである。とはいえ、この時は、前著『児童虐待─現場からの提言』を発刊したばかり。虐待死と向き合うのは、思ったほど簡単なことではなかった。


虹センターで私は、児童相談所をはじめとする援助機関の在り方などを考える傍ら、歴史に残された虐待や虐待死にも目を向けた。たとえば、戦前の事件に「お初殺し」として知られる貰い子殺しがある。 


1922年(大正11年)7月、荷揚場に手提げ鞄が漂着し、中に切断された女児の遺体が詰められていたことから発覚した事件だが、殺されたお初(10歳)は、セルロイド職工(55歳)とその内縁の妻である踊り師匠(37歳)によって毎夜の折檻を受け、通報を受けた警察が数十回も来て説諭したという。しかしその甲斐もなく、「痛いから堪忍しておくれ」と云いながら絶命し、無残にも遺体をバラバラに切断されて捨てられたのであった。


「ぶたれ叩かれ踏み蹴られ、哀れお初は泣く声も、力弱りて虫の息、僅かに通う其の息で、絞る声さえ苦し気に、猶も許して下さいと詫びるも聞かぬ鬼夫婦」


あまりのむごさに、界隈では「お初の唄」と呼ばれる唄が流行し、浅草黒船町榧寺(かやでら)には、お初を哀れんで「お初地蔵」が建立されたという。私はお初ゆかりの榧寺や要傳寺(ようでんじ)を訪ねてお初の過去帳を見せてもらい、お初地蔵に手を合わせたものだ。

要傳寺のおはつ地蔵(筆者撮影)

こうして、思いつくまま古今の虐待死を辿り、合わせて国や自治体の死亡事例検証に携わるうちに、虐待死と言っても一口では語りきれず、さまざまな態様があること、家族の形も、家族の関係性も、また家族が背負う困難も多様であることがわかってきた。


「待てよ、そんな虐待死の諸相は、まだまだ社会に知られていないのではないか」


そう思ったところから本書の輪郭が固まった。そして、ようやく新書を発刊したときには、餓死事件からすでに10年以上が経っていたのであった。そう考えると、あまりにも遅すぎた発刊だったと言えるかも知れないが、結果として、現時点で私が知る虐待死の種々の形、あるいは虐待死が生じる家族の様相などは、ある程度示し得たのではないかと考えている。


折しも、世間では東京都目黒区、千葉県野田市、さらには札幌市や鹿児島県等で次々発生した深刻な虐待死が注目を集め、大きく報道されていた。もちろん、こうした事案から真摯に学ぶことは必要不可欠だが、世間は暴力、暴行を行った加害親や、虐待死を防ぎ得なかった児童相談所への批判、非難を集中するばかり。前著『児童虐待』の帯には「親を責めるだけでは解決できない」と書いた記憶があるが、今はさしずめ「児童相談所を責めるだけでは解決できない」とでも書きたい心境になってしまう。


一方、これだけ児童虐待問題への関心が寄せられていても、「親子心中」や「安全の欠如によるネグレクト死」などはほとんど顧みられることがない。本書には、そうした一般的には虐待死と認知されていないような例も次々登場するので、読者は意表を突かれ、しばし黙考することを余儀なくされるかも知れない。それゆえ、本書の刊行は少し早すぎたのではないかという不安が一瞬頭をよぎりもしたが、冷静に考えればそれらも明らかな虐待死だと理解できるはずだ。子どもの命の重みに軽重はないのであり、本書が多くの人に読まれることで、世間が注目する虐待死だけでなく、あらゆる形態の子どもの虐待死が克服される第一歩となることを、私は願っている。


(追記)

本書117ページの「子返しの図」は、都合により出典を明記していないが、本書刊行後、掲載許可の御礼を兼ねて所有者を訪ね、原画を見せていただいた。色も鮮やかな原画に感激したので、ここではカラー版を添付した。

歌川国明「子返しの図」(1862年)

 * * *


かわさきふみひこ 1951年岡山県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。以後32年間、児童相談所に勤務。心理判定員(児童心理司)を経て児童福祉司となる。2007年4月から子どもの虹情報研修センター(日本虐待・思春期問題情報研修センター)研究部長となり、2015年4月からセンター長。著書に『児童虐待─現場からの提言』(岩波新書)ほかがある。


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◇新刊発売中◇


本体価格780円+税

(リンク先で冒頭20ページの試し読みができます)


2000年に児童虐待防止法が施行され、行政の虐待対応が本格化した。しかし、それ以降も、虐待で子どもの命が奪われる事件は後を絶たない。長年、児童相談所で虐待問題に取り組んできた著者が、多くの実例を検証し、様々な態様、発生の要因を考察。変容する家族や社会のあり様に着目し、問題の克服へ向けて具体的に提言する。


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