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執筆者の写真岩波新書編集部

栗原康さん「アナーキーをまきちらせ!」岩波新書創刊80年企画説明会での講演から


写真提供:新聞之新聞社


岩波新書創刊80周年記念新刊の一冊として刊行された、栗原康さん『アナキズム 一丸となってバラバラに生きろ』。新赤版の岩波新書が、全帯(カバーと同じ幅の帯)により黒版になっているのも、すでに注目の的となっています。


9月に、販売会社(取次店)や業界紙の方にお集まりいただき開催した企画説明会で、著者の栗原康さんが、刊行に先駆け本書についてお話をしてくださいました。慣れぬ場に緊張気味だった栗原さん。お祝いの席でもあるので……と、長渕剛さんの「乾杯」の歌唱から講演が始まりました。


  * * *

◆やることなすこと根拠なし


調子にのって歌ってしまいました(笑)。


さて、今回、『アナキズム』という新書を出させていただきます。そのはじめの部分でアナキズムとは何かという話を書いていますが、アナキズムは、アナーキーという言葉の語源から考えるとわかりやすいんです。もともとはギリシア語からきていて、「アン(an)」と「アルケー(arkhē)」という2つの言葉をくっつけて、アナーキーなんです。


「アン」というのは接頭語で、「~がない」という意味です。「アルケー」には大きく2つの意味があります。1つは「支配」です。「アン」「アルケー」で、支配がない状態をいいます。アナキズムはよく「無政府主義」と翻訳されますが、政府というのは人を支配したり統治したりする機構の1つなので、その訳自体は間違いではないのですが、人が人を支配するのは政府だけではありません。奴隷制による主人と奴隷の関係もあれば、資本主義で人がカネの奴隷のようになってしまうのも支配です。そうしたいっさいがっさいの支配のないアナーキーをめざすのが、アナキズムということになります。


「アルケー」という言葉にはもう1つ意味がありまして、それは「起源」「根拠」という意味です。「アン」「アルケー」で、「無起源」「無根拠」となります。ちょっとちゃかしたようないい方になってしまいますが、「やることなすこと根拠なし」と。アナキストにはふざけたことをやらかす人が多いのですが、けっしてふざけた意味でいっているわけではありません。世の中で正しいといわれている根拠すらぶちこわしていく、支配から解き放たれて自由になっていく、それが、アナーキーの意味になります。


この後者の意味がだいじなのは、いくらアナキズムだ、支配から自由だといっても、その自由によって縛られてしまうこともあるからです。自分たちが解放されるためには、こういうことをやらなきゃいけない、ああいうことをやらなきゃいけない、と。たとえば社会運動で、政府に圧力をかけるためには組織の上からの命令に服従しなければならないといったら、支配になってしまいます。だから、「やることなすこと根拠なし」は、アナキズムにとってだいじなことなんです。支配のない状態が目的化してしまったら、それ自体が支配になってしまう。その根拠すら絶対に正しいといわせない。ときに自分が自由と考えているものすらぶちぬいてしまう。「やることなすこと根拠なし」、それを生きていきましょうというのが、アナキズムなのだと思います。



◆やりたいことしかやりたくない


誰にも支配されないで、思う存分、好きなことをやっていく。それを僕はよく、「やりたいことしかやりたくない」という言葉でいいあらわしています。僕は小さいころから本を読んだり文章を書いたりすることが好きで、それが自分にとってはやりたいことなんです。ですが、ただ純粋に好きなことをやろうとしても、何度も支配にぶちあたってしまうことがあります。


僕は早稲田大学大学院の政治学科でアナキズムについて研究したのですが、正直、大学院に入るだけでも大変な思いをしました。もともと在籍していた早稲田大学の政治経済学部といえば、いちおうエリート養成学部で、親もきっといい会社に就職すると考えていたのでしょう。僕が「大学院に行きます」といったら、親が「何を研究するの」ときくので、「大杉栄です。アナキズムです」と答えた瞬間、親の顔から血の気が引いていったのを覚えています。高いお金を出して大学に行かせた子どもが大学院でアナキズムをやりたいという。親でも、それは食えないとわかるわけです。親にはさんざん反対されましたが、土下座をしたりして、大学院に行かせてもらいました。


それで大学院に行って、思う存分、好きなことを表現できるかというと、それはそれで、なかなかできない。なぜかというと、大学院で研究論文を書き始めると、アカデミズムの尺度が適応されてしまう。研究論文として客観的に主観を避けて書き、それをたくさん書いて業績をあげて、就職活動をすることになります。


でも、僕が研究していた大杉栄や伊藤野枝といったアナキストの文章は、とにかく激しいんです。自分の情熱を爆発させている。そういう人たちの文章を客観的に分析しても、くそほどもおもしろくないんです。書いても、書いても、アナキズムの情熱を消し去ってしまう。書けば書くほど、自分が切り詰められていく感覚を持ちました。


そのころ勉強するだけでなく、せっかくアナキズムや社会主義思想を学んでみたんだからと、デモにいってビラをまくということもやりました。ちょうど僕が大学院生のころイラク戦争があったり、格差貧困の問題がひどくなったりしていて、それでちょくちょくデモがあったんです。でもそれはそれで、社会運動の窮屈さがあって。


たとえば貧困問題をテーマにしたとりくみがあったりするわけですが、アナキズムの思想だと、「はたらかないで、たらふく食べたい」、金がなくてもなんとかなる、腐った労働はいますぐやめてしまえ、といったことを平気でいってしまいます。でも、そういうと、たいがい怒られたりする。この運動をもりあげるために、ちゃんと来てくれるひとが増えるような文章を書けよとか。


だけど、そういうものを書かなきゃいけないっていわれればいわれるほど、逆にやりたいことしかやりたくない、できない、と思うようになりました。



◆自由すらぶちぬいてしまう自由


そんなこともありつつ、自分のなかでなにかふっきれたのは、2011年でした。

3月11日に東日本大震災が起きて原発が爆発し、全国的に大規模なデモが行われるようになり、僕も友だちとよく参加していました。


デモの参加者が1万人も2万人も集まれば、いろんな表現をしたい人がいます。警官といい争う人もいれば、路上に出て怒りを表現する人もいます。でも、反原発のデモがもりあがればもりあがるほど、デモ主催者からそういうことはやめろ、メディアの支持をうけられなくなると統制がしかれはじめてしまった。だから、そういうのを野次るようなビラをまいてみたいなと思いまして。


7月か8月だったかと思います。深夜1時ぐらいに友人と電話しながら、どうせなら、めいっぱいおもしろいアナーキーなビラを書いてみよう、でもその野次るという目的が先にたってしまうとそれはそれでおもしろくない、運動団体から自由になるという目的にもしばられないビラをつくってみよう、で、何を書こうか、と相談していたんです。


そうしたら、友人が電話ごしにいったのが、「俺、いまなにしたいかといったら、会社をサボりたい」と。反原発と関係ありません。でも、その友だちがサボりたい、サボりたい、サボりたい、と3回くらいいうんです(笑)。わかった!と。ひらめいたビラのタイトルは、「仮病の論理」でした。


僕は定職についたことがないんですけど、きっと仮病をつかえば休めるんだろうと思いまして。じゃあ、仮病が世界で一番うまかったのは誰だろうと考えたら、中国のお坊さんの達磨がいました。達磨は、どこかの国王に説法を頼まれたときに、壁の前に何年も座って修行していたら足が腐ってしまった、だから行けないといって断ったという伝説があります。これだ!と、その達磨の話をひたすら4000字ぐらい書いて友人にメールで送って電話をしたら、友人もテンションがあがっていて、さらにその哲学を深めて書き足していいですか、と。30分ぐらいしたら、ドゥルーズとか現代思想を使って、6000字ぐらいに膨らんだビラが戻ってきました。結局、朝の7時くらいまで、お互いに書き足していったのですが、あんなテンションで文章を書いたのははじめてのことでした。


その友人はデザインもできるので、ビラを仕上げてデモの現場に持ってきてくれたのですが、いざ見たら、A4、1枚に8000字つまっているんです。誰も読めません。いつもビラの文章を褒めてくれる身近な友人ですら、なにもいわない。でも、一緒にビラをつくった友人はテンションがあがっているので、500枚も刷ってきている。それをデモの最中にずっと配ろうとしたんですが、誰も受け取ってくれませんでした。一枚だけ「ありがとう」と受け取ってくれた人がいて、山本太郎さんでした。それ以外、誰も受け取ってくれなかったので、歩道橋の上から投げ始めたりして、最後には残った300枚ぐらいを路上に置いたら、さすが反原発のデモ、ゴミをひろうおばちゃんがテコテコテコと歩いてきて、ビニール袋にぱっと捨てて帰っていきました。


これは、ちょっとしたくだらない話ではあるんですが、自分にとっては文章を全力で書いたと感じられる経験で、その3時間、4時間、5時間、6時間、熱狂しながら文章を書いているときに、得体のしれない異様な力につつまれていったんです。デモのあり方を自由にしようという目的すらなくなってしまいました。


人が本気で表現するときには、自分でも思ってもみなかったような、自分でも制御できない力にとらわれる瞬間が訪れることがある。そういう状態が訪れるのはなかなか難しいことですが、僕にとって文章を書くということは、そのときのビラを書いている状態をどうつくっていくかが、つねに大切だと思っています。


支配から自由になろうとする。でも、その自由を目的化させない。自らの自由の条件すらぶちぬいてしまうのが真の自由なんじゃないか。そういう自由を一瞬でもいいからつかみとっていこうというのがアナキズム、あるいはアナキストたちがめざす表現だといってもいいと思います。



◆自我の棄脱


さて、大杉栄などの100年前のアナキストたちがめざしていたのも、あらゆる支配からの離脱、みずからの自由すらぶちぬいていくことでした。


大杉栄はアナルコ・サンディカリストとしても知られています。サンディカというのは労働組合です。当時は労働運動が盛り上がっていて、大杉はなかでもストライキが大事だといっていました。大杉栄のストライキ論として有名なのが、「自我の棄脱」です。自分の自我すら棄てて、脱していくことがストライキだ、と。会社ではもちろんのこと、労働組合に入っていても、人は役割を設定されてしまい、そのなかで息苦しい状態になってしまいます。それに気づいたら、いつでも自分を脱ぎ捨てていい、ぶちこわしていい、それをやってのけるのがストライキだと、大杉はいっています。


もちろん、ストライキのきかっけは、ふつうに労働問題なんです。賃金が下げられた。労働時間が長い。友人が解雇された。それで労働組合をつくって、経営者と闘って労働者の待遇改善を求めます。経営者や資本家に牛耳られ支配されていた状態から立ちあがり、ストライキをして生産を止める。それが、いざやりはじめると、賃金を上げたり、解雇の撤回を求めたりする目的すら、たいがい忘れてしまうんです。


大正時代のストライキは今の感覚とちがって、ストライキが起きると経営者側はヤクザ者を雇って労働組合をつぶそうとするので、やっちまえ!やっちまえ!と、ぼろくその喧嘩になり、殴りあいがはじまります。あるいは労働者が資本家を殴りつけたりする。混乱状態になり、最後には、みんな警察にパクられて、解雇されたりもする。賃上げや解雇撤回の目的はなんだったんだ、となります。


でも、大杉栄はそれでいいんだというんですね。自分は資本家にしたがうのがあたりまえだとおもっていた、あるいはなにか問題があったら組合幹部にしたがってなんとかしてもらうのがあたりまえだと思っていた、でもそんな自分のあたりまえをぶちぬいて、大暴れしまった瞬間に、人はとてつもない解放感を味わう、たとえ首になって負けたとしても、自分でも思っていなかったような力があるということに気づくことができる、それがなによりだいじなんだと。


最後になりますが、じつは僕が大杉栄を好きになったのは、高校時代に岩波文庫の『大杉栄評論集』をたまたま手にとって読んだからなんです。そのなかに先ほどの自由にすら縛られないということを表わしていてわかりやすい文章があるので、それを読み上げて、まとめにしたいと思います。


     僕は精神が好きだ
僕は精神が好きだ。しかしその精神が理論化されると大がいは厭になる。理論化という行程の間に、多くは社会的現実との調和、事大的妥協があるからだ。まやかしがあるからだ。
精神そのままの思想はまれだ。精神そのままの行為はなおさらまれだ。生れたままの精神そのものすらまれだ。
この意味から僕は文壇諸君のぼんやりした民本主義や人道主義が好きだ。少なくとも可愛い。しかし法律学者や政治学者の民本呼ばわりや人道呼ばわりは大嫌いだ。聞いただけでも虫ずが走る。
社会主義も大嫌いだ。無政府主義もどうかすると少々厭になる。
僕の一番好きなのは人間の盲目的行為だ。精神そのままの爆発だ。しかしこの精神さえ持たないものがある。
思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そして更にはまた動機にも自由あれ。

精神そのままの爆発。自分の自由すらぶちぬいていくような自由。制御できない力。僕は、そういうことを文章で表現したいと思っています。そうして書いたビラを、100枚、1000枚、1万枚、10万枚、100万枚まきたいと思っています。ぜひ一緒にビラをまきましょう。精神を爆発させましょう。やることなすこと根拠なし。全身全霊で大失敗です。パンパーーーンッ!!!



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