• 岩波新書編集部

2021年7月の南アフリカ騒乱から歴史をさかのぼる

堀内隆行


※多数の逮捕者、死者が出るほど大きな騒乱が生じた南アフリカ。直接のきっかけは前大統領の汚職疑惑ですが、ここまで大きな騒乱となった原因はどこにあったのでしょうか。岩波新書『ネルソン・マンデラ――分断を超える現実主義者(リアリスト)』の著者に、問題の起源をマンデラにまでさかのぼりながら解説していただきました。



前大統領の収監と300名以上の犠牲者


アフリカのニュースは、遠く離れた日本ではつねに断片的にしか伝えられない。そこでは、ニュース相互のつながりや背景は深く掘り下げられず、衝撃的な「画」がただ眼の前を通り過ぎるばかりである。


2021年7月の南アフリカ騒乱も、そのようなニュースの一つと言える。日本でも報道されたところによれば、騒乱のきっかけは、2009年から18年まで大統領を務めたジェイコブ・ズマが7月7日に収監されたことだった。ズマをめぐっては以前から数々の汚職疑惑が取り沙汰され、裁判所も取り調べを進めていたが、本人は出頭を拒否していた。だが、裁判所が出頭拒否を法廷侮辱罪と見なして禁錮1年3か月の実刑判決を下したため、ズマも観念する。


ところが7月9日、ズマによる仮釈放の申請が裁判所によって却下されると、彼の出身地であるクワズールー・ナタール州で支持者たちが抗議の声を上げた。抗議は、まもなく商店、ショッピングモール、倉庫、銀行などへの放火や略奪、あるいは高速道路の封鎖に変わり、11日には南アフリカ最大の都市ヨハネスブルクへと飛び火した。イギリスのBBCテレビはクワズールー・ナタール州の都市ダーバンで「1階の店舗が略奪被害に遭い、火災に見舞われたビルから赤ちゃんが投げ下ろされ」救出される瞬間を撮影し、今回の騒乱を象徴するシーンとなった。鎮圧には警察だけでなく国防軍も動員され、300名以上の犠牲者と3000名以上の逮捕者が出た。



ネオリベラリズムに走るANC政権


それにしても、汚職疑惑にまみれた前大統領の収監がなぜ、このように多くの犠牲者を出す騒乱へと拡大したのか。日本の報道でも指摘されたのは黒人の貧困と、30%に上る高い失業率である。状況は、コロナによってさらに悪化していた。たしかに、抗議が商店などに向けられた点や略奪の形を採った点を考えれば、経済的不満が騒乱の重要な原因であることは明らかと言える。マグマは充満していて、火さえ点けばいつでも爆発する状態だった。


だが問題は、こうした経済的不満をどう考えるかである。南アフリカでは1990年代初頭まで白人政権のもと、アパルトヘイトと呼ばれる人種隔離政策が採られていたことはよく知られている。その後アパルトヘイトは撤廃され、1994年には有名なネルソン・マンデラが大統領に就いた。多くの読者は、政治的差別は解消されたが経済的不平等は残されたままである、と考えるのだろうし、そうした見方はあながち間違っていない。


しかし注意したいのは、マンデラの大統領就任から27年経ったいま、すべてがアパルトヘイトの時代と同じではないことだろう。経済界に進出した元の反アパルトヘイト活動家たちやアファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)によって引き上げられた者など、豊かになった黒人もいる。その一方で、27年つづいたANC(アフリカ民族会議)政権の政策により、貧しい者はますます貧しくなった。



一般的な見方に従えば、ANC政権下で貧富の格差が拡大したことの直接的責任は、第2代大統領を務めたターボ・ムベキの政策に帰せられる。ムベキの父は、南アフリカ共産党と一心同体のANCのなかでも、とくに共産主義と武装闘争の熱烈な信奉者だった。1960年代前半から80年代までは、マンデラと獄中生活をともにしている。それに対して息子のほうは、同じ時期にイギリスへ亡命してサセックス大学で経済学の修士号を取得し、ANCの一員としてアフリカ諸国などで南アフリカ白人経済界のリーダーたちと対話を重ねた。また1990年代に入ると、ANCと白人政権との和平交渉の実務を担う。一時的に背景に退いたことはあったものの、1994年にはマンデラ大統領のもとで第一副大統領に就き、後継者の地位を固めていった。


だが経済界のリーダーたちとの対話や政権との和平交渉は、白人に妥協し黒人民衆の期待を裏切るものだった。富の再分配の有効な方法と考えられていた企業の国有化が早々に放棄された一方、白人公務員の雇用や生涯年金は手厚く保証された。さらに、その生涯年金に起因する債務等を返済するため1996年、副大統領時代のムベキはGEAR(成長・雇用・再分配計画)を打ち出した。拙著『ネルソン・マンデラ――分断を超える現実主義者(リアリスト)』では、このGEARのことを「緊縮財政、公共サービスの民営化、さらには企業のための解雇規制撤廃など、再分配とは名ばかりのネオリベラリズム政策である」と記している。南アフリカはやがて、ブラジル、ロシア、インド、中国と並んでBRICSと称されるまでになったが、失業率は上昇して黒人民衆はいっそう窮乏化した。


現在の大統領であるシリル・ラマポーザも、ANCのネオリベラリズムを体現する人物だと言える。ラマポーザは労働組合の顧問弁護士出身で、1990年にマンデラが釈放された際には、集会や記者会見などをコーディネートする歓迎委員会の委員長を務めた(『ネルソン・マンデラ』123頁の写真で、演説するマンデラにマイクを向けているのはラマポーザである)。


しかし1991年のANC大会でマンデラ議長とともに書記長に選出されると、ムベキから問題含みの白人政権との和平交渉を引き継いだ。1997年には書記長を退いたが、実業界に転身して南アフリカで第14位の富豪となる。また、その後政界に復帰したものの、2012年にはスキャンダルが報じられた。ノースウェスト州・マリカナのプラチナ鉱山で警察がストライキ中の労働者に発砲、40数名を殺害した事件の際、鉱山の大株主でもあるラマポーザが裏で糸を引いたとされた。この教訓もあってか、大統領就任3年目の2021年7月の騒乱でラマポーザは、警察や軍による発砲に慎重だったように見える。さらに7月18日にはベーシックインカムの導入検討を表明し、貧困問題を解決する姿勢を見せたが、ネオリベラリスト/抑圧者のイメージがただちに変わるわけでもない。


【写真】1991年のANC大会。左からラマポーザ、ズマ、一人置いてムベキ。左から3人目のクリス・ハニと5人目のジョー・スロヴォについては『ネルソン・マンデラ』を参照(Mark Gevisser, Thabo Mbeki: The Dream Deferred, Johannesburg: Jonathan Ball, 2009, p. 146ff.)。



ズマ支持の理由


ここまで、今回の騒乱の背景には黒人民衆の経済的不満があること、ならびにANC政権がネオリベラリズムに走っていることを確かめた。それでは同じANCの、しかも汚職疑惑にまみれたズマが支持を集めるのはなぜなのか。現在、貧困の解消を訴える政党としてもっとも勢いがあるのは、左派ポピュリストの「経済的自由の戦士」である。だが同党は、全400議席のうち44議席を占める第三党に過ぎず、230議席で第一党のANCには遠く及ばない(第二党は白人などの民主同盟で84議席)。その分、ANC内野党のズマが注目される構造になっている。


ズマが支持される理由について、彼の生涯を振り返りながら考えてみよう。ズマは1942年生まれで、ムベキと同年齢である。だが経済学修士のムベキや、10歳年下で弁護士のラマポーザと違い、正規の学校教育は受けていない。また、1959年には17歳の若さで、労働運動を経てANCに参加、その後ANCの軍事組織MK(ウムコント・ウェ・シズウェ、「民族の槍」の意。『ネルソン・マンデラ』第4章参照)と南アフリカ共産党のメンバーにもなった。ところが1963年に逮捕され、南大西洋上のロベン島の監獄に10年間入れられた。この監獄には当時、マンデラやムベキの父も収容されていたが、別区画だったため交流はあまりなかったようだ。それでも人々は、ズマが囚人たちのサッカーで審判を務めたエピソードをありありと思い浮かべることができるという。長い獄中生活の経験がないムベキやラマポーザには欠けている側面である。学歴エリートでない点とロベン島で苦難の日々を過ごした点は、ズマの大衆的人気の源泉と言えるだろう。


さらに彼の歩みをたどりたい。刑期を終えたズマは、ANCの諜報部門で頭角を現す(2021年7月の騒乱では、ズマ派の元諜報部門幹部たちの関与が取り沙汰された。真偽のほどはわからないが、高速道路の封鎖まで行われたことからしても、今回の騒乱が衝動的にばかり起こったものでない点は明らかである)。ズマは、1975年には出国してムベキの側近となり、アフリカ諸国などにおける南アフリカ白人経済界のリーダーたちとの対話にもかかわった。ただし、1990年代前半の白人政権との和平交渉には関係していない。この時期ズマは、出身地である当時のナタール州に戻り、ANCの地方指導者として黒人右派のインカタ自由党と対峙していた。


1990年代後半、ムベキがマンデラの後継者の地位を固めるとズマも出世を遂げ、99年にはムベキ大統領のもとで副大統領に就く。しかし2000年代に入って二人の関係は悪化、05年ムベキは汚職疑惑を理由にズマ副大統領を解任した。その後ズマにはレイプ疑惑も持ち上がり、一夫多妻を実践していることもメディアなどで批判される。だが、彼は反撃に転じて2007年のANC議長選挙で勝利した。翌年ムベキは大統領の職を辞し、暫定的なカレマ・モトランテの政権を経て2009年にはズマが後を継いだ。


もっとも、それで彼への批判が消えたわけではない。2013年のマンデラの葬儀では「腐敗した」ズマへのブーイングが相次いだし、別の汚職疑惑も浮上して18年には大統領辞任に追い込まれた。その一方で、彼のスキャンダルを支持者たちがどう考えているのかも重要である。中傷やデマと見なす者はいるだろう。しかしそこまで行かなくても、贈収賄のような行為がさほど悪く思われていない可能性は残る。南アフリカでは有力者が、親族や知人による奉仕の見返りとして彼らに便宜を図るパトロネージはありふれているからである。腐敗を批判するのはむしろ、金融機関などネオリベラリズムの推進者の場合が多い。また一夫多妻は、南アフリカ社会の古い慣習でもある。


2021年7月の騒乱では、ズールー・ナショナリズムもかき立てられた。ズマの出身民族集団であるズールー人の現在の人口は1000万人強で、南アフリカの総人口5000万人強の約2割を占める(なおマンデラとムベキの出身はコーサ人、ラマポーザはヴェンダ人とされる)。ズールー人は、19世紀には王国を建ててイギリスによる侵略に抵抗した一方、20世紀後半にはインカタ自由党を結成してANCと対立するなど、独自の歴史を歩んできた。今日、インカタ自由党は400議席中14議席の第四党で盛時の勢いはなく、ズマは(右派の同党とは真逆の立場ながら)その間隙を埋めているようにも見える。ただし騒乱が「ズールー的」であり過ぎたため、クワズールー・ナタール州と、同州出身者が多いヨハネスブルク以外に広がらなかったことも事実と言える。さらにズールー人は長いあいだ、インド系移民の商人による「搾取」に憤ってきた。南アフリカ・インド人からは、自分たちが騒乱のターゲットになったとの申し立てもされている。



マンデラの再評価へ


以上、2021年7月のニュースから始めてアパルトヘイト撤廃以降の歴代大統領の話までさかのぼってきた。本稿を読まれて、読者は「偉大なマンデラにくらべ、後継者たちは駄目だったのだな」と感じられたかもしれない。だが筆者は、問題の起源はマンデラにあると考えている。


誤解されていると思うが、マンデラは、一貫した思想を説きつづけたわけではない。彼の本質は柔軟なリアリズムにあった。例えば、非暴力主義はマンデラにとって原則ではなく「戦術」の一つに過ぎず、中国革命やキューバ革命に倣って武装闘争を始めた時期もあった。こうしたリアリズムに、監獄から釈放された後は父親のような相貌が加えられた。


しかしながら、マンデラのリアリズムの真骨頂は共産主義との関係だった。彼は南アフリカ共産党の中央執行委員まで務めたが、その共産主義への姿勢は、「なんでも役立て」ようとするプラグマティックな内容と言えた。こうした柔軟さが、冷戦の終結後にはマイナスに働いた。ANC/共産党を支援してきたソ連や東ドイツが崩壊した世界で、マンデラは大統領として、ムベキらがグローバル資本主義への適応を進め、経済的不平等を放置するのを容認した。もっとも、このようなポスト冷戦への対応は中国の鄧小平(とうしょうへい)らにも共通するものだろう。


いずれにせよ、マンデラの再評価なくして現在の南アフリカを理解することはできない、というのが筆者の見立てである。詳しくは拙著『ネルソン・マンデラ』を参照されたい。



堀内隆行(ほりうち たかゆき)

1976年京都府生まれ。金沢大学歴史言語文化学系准教授。専攻は南アフリカ史、イギリス帝国史。

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