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  • 執筆者の写真岩波新書編集部

なぜ日本思想史であって、日本哲学史でないのか?(新書余滴)

末木文美士



『金春禅竹伝書』より六輪一露の図(国文学研究資料館所蔵.『日本思想史』86頁に掲載)


1 日本哲学と世界哲学


岩波新書の『日本思想史』のあとがきの最後のほうに、こう記した。


ちなみに、近年、英文でJapanese Philosophyとして、古典思想まで含めた大冊の出版が相次いでいる(参考文献の末尾に記した)。今後、こうした動向も併せて考えていかなければならない。

じつは、この部分は最初の原稿にはなく、校正の際に加えたものだった。参考文献の末尾に掲げたのは、以下のような三書であった。



最初のものには私も多少関与しており、次のカスリスのものも部分的に目を通していた。しかし、当初は英文のものまで挙げるとややこしくなるので、和文の書籍に限る予定だった。ところが、最後のものの出版を聞いて、入手してパラパラ開いてみると、なかなか刺激的だったので、急遽拙著のあとがきに言及することにしたものである。


日本の伝統思想をphilosophyとして論じた入門書は他にもある。



この2書は、そのタイトルから見ても分かるように、Dao Companions to Chinese Philosophyというシリーズに属する。このシリーズは中国哲学を中心に数冊出ているが、その中に、韓国や日本のものも含まれているのである。


以上の諸書はいずれも2010年代になって刊行されたもので、この10年ほどの間に、急速に日本哲学への関心が高まってきたことが知られる。そのきっかけをなしたのが、最初に挙げた『日本哲学資料集』(Sourcebook)で、伝統思想を含む多数の日本哲学の著作のアンソロジーと解説、そしてその全体像をめぐる概説とを含み、日本哲学への入門と同時に、高度な成果をぎっしりと詰め込んでいる。編者のハイジックカスリスマラルドの三人は、いずれも日本哲学研究の開拓者で、これまでも多くの著書やシンポジウムなどで日本の研究者にもおなじみである。本書はハイジックの所属する南山大学宗教文化研究所を母体として、長時間かけて準備を進めてきたものである。


カスリスの著書はその姉妹編として刊行されたものであるが、A Short History(小史)と称しながら700頁もある大冊で、Engaging(参入する)という書名からも知られるように、単なる客観的な叙述ではなく、空海・親鸞・道元をはじめとする古典に飛び込んで、そこから何を引き出せるか挑戦した、意欲的な本である。彼らを日本哲学第一世代とすると(彼らはだいたい私に近い年齢)、デイヴィスコプフは次の世代を担う研究者である。デイヴィスの編著の序論は「日本哲学とは何か」What is Japanese Philosophy?と題した意欲的な論考で、後ほど多少言及する。


すでに、欧州日本哲学ネットワークEuropean Network of Japanese Philosophy (ENOJP)という学会が組織されていて、2019年には第5回大会が南山大学で開催され、数百人の研究者が集まった。それだけ、日本哲学ということが市民権を得つつあるということである。


こうした日本哲学への注目は、日本だけ特別視されているということではない。非欧米圏を含めた世界哲学という発想が2010年代になって急速に欧米で大きくなりつつある状況の一端ということができる。そのような世界哲学という視座に立って、新しい潮流を作ったのが、次の本である。



先のデイヴィスの編著と同じOxford Handbooks in Philosophyの1冊で、第1部・中国哲学、第2部・インド非仏教哲学、第3部・インド・チベット仏教哲学、第4部・日本・韓国哲学、第5部・イスラム哲学、第6部・アフリカおよびアフリカ系哲学、第7部・グローバル哲学の最近の動向という7部構成になっている。これで、「世界哲学」をカバーできるか、あるいはまた、欧米哲学を別扱いにして、これだけで「世界哲学」と称しうるかなどの疑問はあるし、第4部の日本哲学にしても十分に練られたものと言えるか、などの問題は残るが、ともかく「世界哲学」が大きな主題として提示された記念碑的な著作である。編者の一人ガーフィールドは分析哲学にも通じた仏教哲学の研究者であり、後述のように、非欧米哲学の権利獲得へ向けて積極的に活動している一人である。


英語圏以外でも、世界哲学的な視座が問題になりつつある。ドイツはもともと哲学の強い国であり、日本哲学への関心も強かったが、日本哲学の研究から出発したエルバ―フェルトが、世界哲学に視野を広げて、新しい方向を目指している。



世界哲学という視座は、日本でもようやく問題にされるようになってきた。日本学術会議の哲学部会では、世界哲学会議World Congress of Philosophyの日本招致を目指しながら、世界哲学という観点を大きく打ち出し、2019年11月にはシンポジウム「世界哲学の可能性」を開催し、私も発表した。伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編『世界哲学史』全8巻(ちくま新書)も刊行を開始した。私も関係している比較思想学会でも2019年度の大会で「世界哲学をリードする日本哲学」という刺激的なタイトルでパネルを開催し、海外の研究者も加わって議論が沸騰した。


ちなみに、こうした流れの中で、Tetsugaku(哲学)という日本語までもがそのまま英語圏で用いられるようになり、SpringerからTetsugaku Companions to Japanese Philosophyというシリーズが出始めている。例えば、荻生徂徠に関する論集が出ている。


はたしてどこまでTetsugakuが市民権を得ることができるのか、また、単にphilosophyというのとどこが違うのかなど、まだこれから検討されなければならない課題である。



2 非欧米圏を含む哲学へ


以上、資料的に文献を列挙したので、いささか煩わしかったかもしれない。しかし、そこから2010年代になって急速に非欧米圏の哲学が問題にされるようになり、その中で「日本哲学」もまた光を浴びるようになっていることが十分に確認できよう。そのような非欧米圏の哲学を含む「世界哲学」への視野の拡大は、人文系の諸学において欧米中心主義が反省されるようになってきた動向が、ようやく哲学に及んできた結果である。


人文学における欧米中心主義への反省は、1978年に出版されたエドワード・サイードの『オリエンタリズム』の問題提起が大きなきっかけになった。それによって、従来の「西洋」からの「東洋」への眼差しが、欧米の優越を前提とした大きな偏見に基づいていたことが明らかにされた。そこで、非欧米地域に対する欧米の研究、とりわけ東洋学や人類学、地域研究などは大きな転換を余儀なくされ、それとともに、従来の研究のあり方が批判的に再検討されるようになった。


ところが、そのような動向の中で哲学だけが遅れていた。すでに1980年代にはデリダの脱構築論をはじめとして、従来の欧米の哲学が行き詰まりを見せ、「哲学以後」とか「脱哲学」「哲学の終焉」などが語られるようになっていた。フランス現代思想がアメリカにも日本にも華やかに紹介され、言語学、人類学、精神分析など、狭義の哲学に属さない思想が注目され、もてはやされた。


そうした状況にもかかわらず、その後も哲学の欧米中心主義は変わらなかった。おそらくその理由の一つは、他の人文学と異なり、哲学は地域や文化の相違に左右されない普遍的真理を求めるものだという信念が強かった点にあったのではないだろうか。それはあたかも、物理学などの自然科学が、たとえ西欧以外の文化圏でもある程度の発展があったとしても、今日の自然科学は西洋の伝統に連なるものであり、それが近代科学となって普遍性を持っているのと類比的に考えられる。例えば、物理学の研究において、インド人や中国人や日本人の研究者が成果を上げたとしても、それは国籍や文化圏と無関係に普遍性を持つ「物理学」の成果であって、「インド物理学」「中国物理学」「日本物理学」という別々の分野があるわけではない。それと同じように、哲学もまた、西洋以外の伝統にもその萌芽や類似したものがあったとしても、普遍性を持つのは西洋の伝統に由来する欧米の哲学のみだ、というのである。


英語圏で主流であった分析哲学は、そもそも論理学や言語分析に由来し、自然科学と親和性が強く、文化や時代による相違に左右されず、あらゆる人間に通ずる理論の構築を目指してきた。そうした発想が勢力を持つ限り、非欧米圏の哲学は、欧米の哲学の普遍性探究に到達する途上のエピソードに過ぎず、それ以上、哲学の本質に関わるものではないことになる。インド人も中国人も日本人も哲学を研究して成果を上げられるが、それは「インド哲学」等々ではなく、西洋由来の普遍的な「哲学」であるはずだ、というのである。


ところが、1990年代以後には、そうした分析哲学が行き詰まり、隘路に入り込んで、重箱の隅をつつくような問題にはまり込むようになった。一見厳密そうであっても、もともとの哲学が持っていた世界や人生に関する大きな見通しを失い、専門家の知的遊戯以上の意味を持ちにくくなった。マイケル・ピュエットのハーバード大学での中国哲学の講義が大人気を博したように(ビュエット『ハーバードの人生が変わる東洋哲学』、早川書房、2018原書は2017)、東洋の哲学が若い学生たちの関心をひくようになった。かつての禅ブームの後で、チベット仏教やテーラワーダ仏教のメディテーションやマインドフルネスが広く受け入れられるようになっている。それらをも哲学と呼ぶことがなぜいけないのか。もはや欧米の哲学だけが、他の文化圏の哲学を軽蔑して、自己満足的な普遍性に甘んじられる状況ではない。こうして2010年代になって、ようやく欧米、とりわけアメリカの哲学界は、非欧米圏の哲学に目を向けなければならなくなったのである。


衝撃的な出来事は、2016年5月11日に起こった。仏教哲学研究者のガーフィールド(前述のOxford Handbook of World Philosophyの編者の一人)と中国哲学研究者のブライアン・ヴァン=ノーデンBryan W. van Nordenの連名で、ニューヨークタイムズのコラムに、「もし哲学が多様化しないのであれば、それが実際にある通りの名前で呼ぼう」“If Philosophy Won’t Diversify, Let’s Call It What It Really Is”という痛烈な皮肉たっぷりの記事を掲載したのである。


二人がここで主張しているのは、アメリカの大学の哲学科で欧米の哲学のみを教えるのはおかしく、もし非欧米哲学を教えないのであれば、その実態に即して「欧米哲学科」と呼ぶべきだ、ということである。この記事に対しては、12時間のうちにタイムズ紙のウェブサイトに797の応答が寄せられたという(下記のノーデンの著作、p. 10)。それらのうちで、賛意を表したものはわずかであり、多くは否定的であったという。依然として哲学界は頑迷であった。


それに反撃し、多文化哲学のマニフェストとして書かれたのが、ノーデンの『哲学を取り戻す:多文化宣言』(Taking Back Philosophy: A Multicultural Manifesto,Columbia University Press, 2017)であった。本書は徹底して従来の欧米中心の哲学をエスノセントリズムとして排し、非欧米圏へも等しく配慮した多文化哲学を主張する。同書に序文を寄せたガーフィールドは、従来の哲学は人種差別主義的(racist)だ、とさえ断言する。

こうしたガーフィールドやノーデンの挑戦的な発言が、どれほどの影響力を持ちえているかは、何とも言えない。ただ、日本哲学などの非西欧哲学の研究が勢いづいてきたのは事実である。欧米哲学しか知らない頑迷な自称「哲学者」たちは、いずれは時代遅れの軽蔑の対象にしか過ぎなくなるであろう。


欧米の猿真似ばかりしている日本の哲学界にも、早晩同じことが起るであろう。なぜならば、そのような動向が欧米、とりわけアメリカで勢力を持つようになれば、すぐにその真似をしなければ、たちまち流行に取り残されてしまうからだ。日本の自称「哲学者」たちも、慌ててインド哲学やら中国哲学やら日本哲学やらを語りだすに違いない。それこそ猿真似主義の面目躍如である。やれやれ、というしかない。



3 哲学か、思想か


だが、そうなると、「哲学」の概念は際限なく広がってしまい、何が哲学なのか、訳が分からなくならないか。哲学とは、どのように定義され、哲学以外の諸思想と区別されるのか。ノーデンは、ソクラテスと孔子を比較して、次のように定義する。


哲学は、私たちが重要という点では一致するが、解決の方法では一致しないような問題に関する対話である。「重要」ということは、私たちがいかに生きるべきかという問題から最終的にその意味を得る。(前掲書、p. 151)

結局のところ、私たちの生き方の問題に関わってくるのである。この定義については議論すべきところも多いが、今は立ち入らず、それでは、「日本哲学」の場合どうなるか、という問題を考えてみたい。中国哲学やインド哲学がある程度可能ということは分かる。しかし、日本の場合、近代の西洋哲学導入後はともかく、それ以前のさまざまな思想を「哲学」と呼びうるであろうか。この問題に正面から挑んだのが、前述のThe Oxford Handbook of Japanese Philosophyの編者デイヴィスによる序論である。「日本哲学とは何か」と題して、次のような各章からなる。


  • 「日本哲学とは何か、を問うのは何の意味があるのか」

  • 「前近代の日本に哲学があったのか」

  • 「哲学的な西欧中心主義と西欧独占主義の撤廃」

  • 「西洋哲学とは何か」

  • 「近代の西欧独占的哲学を超えて」

  • 「生き方を解放する哲学の実践」

  • 「非西洋宗教・芸術・哲学:包含的暴力対排除的暴力のディレンマを超えて方向づける」

  • 「日本哲学の競合する諸定義」

  • 「日本哲学についての一般化」

  • 「普遍性への特殊なアプローチのセットとしての日本哲学」

  • 「文化間哲学対話への寄与としての諸日本哲学」

  • 「(主として)日本における哲学の部分集合としての日本哲学」

  • 「本書のテーマの選択について」


これらの章名を見るだけでも、きわめて力の籠った本格的な論であることが分かる。その内容をここで細かく検討する余裕はないが、重要なポイントを挙げておこう。デイヴィスは西洋哲学に関して、単に西欧中心主義Eurocentrismというだけでなく、西欧独占主義Euromonopolismという強い表現を用いている。その傾向は19世紀末に頂点に達し、ちょうどその時に日本が西洋哲学を輸入したために、そのパラダイムを共有することになったという(同書、p. 31)。


それでは、哲学の西洋中心/独占主義をどう乗り越えることができるのか。いったいなぜあえて日本の伝統思想に対して、「思想」ではなく「哲学」として論ずる必要があるのか。デイヴィス自身、日本の思想がすべて「哲学」と言いうるわけではないことを認める。しかし、空海や荻生徂徠のような前近代日本の「思想」は、「哲学」の定義を変容させるのに寄与しうるのではないか、と問題を提起する(同書、p. 21)。


デイヴィスも指摘するように、「欧米では、明治以前の言説を「日本哲学」の範疇に入れることが多いのに対して、今日の日本では、「哲学」は主として西洋哲学と、西洋哲学の文献や思想と関わる明治以後のアカデミックな言説について用いられる」(同書、p. 9)。それ故、近代以前まで含めて日本の思想を扱う学問領域は「日本思想史」と呼ばれるのが普通である。それに対して、「日本哲学」というと、近代以後の西洋系の哲学思想に限定される。そのことは、東北大学の日本思想史専攻と、京都大学の日本哲学専攻の相違にほぼ合致する。


つまり、ややこしいことに、欧米で言うphilosophyと日本語の「哲学」は必ずしも外延が一致しない。philosophyは日本語で「哲学」だけでなく、「思想」と呼ばれる領域にも食い込んでいる。だからと言って、「思想」がすべてphilosophyと訳せるかというと、そうも言えず、philosophyの範囲を超えるものまで含んでいる。すなわち、次のような包摂関係が成り立つ。


  哲学⊂philosophy⊂思想


興味深いことに、日本思想史学会の英訳はAssociation of Japanese Intellectual Historyであるのに対して、比較思想学会の英訳はJapanese Association for Comparative Philosophyであって、「思想」の訳が異なっている。「思想」は文字通り訳せば、thoughtであろうが、この語は英語ではあまり用いられないようである。


将来的に、欧米のphilosophyの用法の影響で、日本の「哲学」ももっと幅広く用いられるようになる可能性はある。しかし、それによって「思想」の領域をすべて覆いうるかというと、それは無理のように思われる。私が『日本思想史』で目指したのは、いわば顕在化した思想(=哲学)の奥にある思想の磁場、あるいは重力場のようなものの構造を明らかにすることであった。それは、個々の思想が形成されるその底にある潜在的な思想空間とも言えるものである。その構造を、王権と神仏の緊張というところに求めてみた。そのような試みは思想史の基礎構造を探求するという意味で、思想史の課題となり得るが、哲学の枠からは外れるであろう。あるいはまた、歴史史料や非文字資料は哲学資料とは言えないであろうが、それらをも含んで、思想史を描くことは十分に可能である。非哲学領域を含み込むことで、思想史は豊かなものになる。その点で、やはりすべてが哲学史に吸収されるのではなく、思想史を書く意味は大きいと考えるのである。



* * *


すえき・ふみひこ

1949年山梨県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。博士(文学) 現在―東京大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授 専攻―仏教学、日本思想史 著書―『日本仏教史』(新潮文庫)、『日本宗教史』(岩波新書)、『仏教――言葉の思想史』(岩波書店)、『思想としての仏教入門』(トランスビュー)、『碧巌録を読む』(岩波現代文庫)、『草木成仏の思想』(サンガ)、『思想としての近代仏教』(中公選書)、『日本仏教入門』(角川選書)ほか



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