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  • 執筆者の写真岩波新書編集部

「オピニオン」の政治思想史――国家を問い直す

堤林剣・堤林恵



現代におけるデモクラシーの危機。それは、世界の大規模な変容の反映である。この危機を生き抜く鍵は、人々が織りなす「オピニオン」なる曖昧な領域と、その調達・馴致の長い歴史にある。――斬新な政治学入門である堤林剣・堤林恵『「オピニオン」の政治思想史――国家を問い直す』(岩波新書、4月20日刊行)の「序」を公開します。



国家を死なせないもの


なんとも不思議な現象である。今日、国家は滅多に消滅しない。二〇世紀後半以降、脱植民地化や分離独立などによって、国家が増えることはあっても減ることはほとんどない。そして一旦国家が成立すると、ちょっとやそっとのことではなくならない。征服されたり戦争に負けたりしても、なくならない。


そもそも征服の頻度も激減する。一九二八年にパリで調印された「不戦条約」が契機となって世界秩序は大きく変わったと論じるオーナ・ハサウェイとスコット・シャピーロは、一八一六年から二〇一四年までの全世界での領土変更の分析を通じて、次のように結論する。「一九四八年以降、平均的な国家が征服の憂き目にあう可能性は、人の生涯に一度から一〇〇〇年に一、二度まで低下した」。そしていうまでもなく、第二次世界大戦で敗戦した日本もドイツもイタリアもなくなっていない。


どのようにしてこうした状況が生まれたのであろうか。なぜ国家は死ななくなったのか――政治思想史的に表現すれば、国家の不死性を担保する要因とは何か。その理解のために本書が決定的に重要であると考え、議論の基盤におくのがオピニオン論である。オピニオン論の詳しい内容は本書第一章で述べるが、それは要するに「権力支配が機能するのは、支配されている側にそれに従うつもりがあるからだ」とする視座である。そこから考察するならば、「国家が死なないのは多くの人びとにそれを死なせるつもりがないからだ」――死なせるつもりがない、には「死なせたくない」「死ぬべきではないと考えている」「死ぬわけがないと思っている」「そもそも死ぬなんて発想がない」等、さまざまなバリエーションがありうるわけだが――ということになる。


身も蓋もない表現に映るかもしれない。だがこの簡潔さゆえに、オピニオン論にもとづく国家や権力支配についての理解は地域や時代を超えて適用できる普遍性を備えており、その身も蓋も示して読者に理解し納得していただくのが、本書前半の目的である。


そしてその目的のために、オピニオン論の内実に続く章では、人びとに国家は死なないと思わせた政治思想史的展開について論じていく。具体的には第二章において中世政治思想に登場する「死なない王」の言説の検討から取り掛かり、第三章ではボダン、ホッブス、ボシュエを例に一六・一七世紀の国家を基礎づける理論とその成立過程をたどる。その後、第四章で国家の論理に劇的な変化をもたらしたフランス革命およびそこに端を発するといわれるナショナリズムの展開を追い、第五章以降では第二次世界大戦後の世界について考察を加えることになるだろう。



死なない国家が死ぬとき


さて、本書の第六章ではこうしたオピニオン論にもとづいて理解された「死なない国家」の成立条件が、テクノロジーの進歩などによって変化した場合どうなるか――もしかすると国家がなくなり政治も無効となる時代が遠い未来に到来するかもしれないという仮定のもと、今日および遠くない将来の政治的課題について論じようと思う。少々大それた問題設定のように思えるかもしれないが、本書の目的は予想でも預言でもないので、未来はこうなるだろうといったことを述べるわけではない。


数百年、数千年、数万年後に世界はどうなっているだろうか。そんなことは誰にもわからない。数百年、数千年、数万年前の人間が今日の世界を想像できなかったのと同じように。そもそもテクノロジーによって異なる世界がもたらされる前に、核戦争や疫病や環境破壊や隕石の衝突などによって人類が滅びるかもしれない。そして今日的視点に立つならば、SFチックな未来世界の心配をするより、(人間・食料の)安全保障、環境保全、パンデミックへの対応など、より喫緊な課題があると思う人もいるだろう。本書もその点には諸手を挙げて賛成するし、それらのリスクのほうが人類の存続にとってはより深刻だとも思う。だが、にもかかわらず、テクノロジーの問題も決して無視できるものではなく、現にそれはわれわれの生活と世界にさまざまな変化を及ぼしている。


たとえば、もしAIやロボット・サイボーグの進化や遺伝子操作などによって人間の身体的・精神的特徴や価値観や生活環境が大きく変われば、そして人間の寿命が飛躍的に延び、場

合によっては不死性を獲得するのであれば、国家がなくなっても不思議ではない――もっとも、そこまで人間が変われば、もはや人間とは呼べないかもしれないが。


だが人類への将来的影響を考えるのであれば、いささかSFチックであっても、われわれの死んだはるか後の世界を思考の射程に入れることは無意味ではないはずである。テクノロジーの劇的な変化が国家そのものや国家に対する人びとのオピニオンに予測を超えた変化をもたらし、「死なない国家」に死ぬときが訪れたとしても、ディストピア的なシナリオが未来の現実にならないようにするためにはどうすればよいのか。この問いについて考える際に無視しえないと思われる点を指摘するのが、本書終盤の議論の目的である。


そしてそれは当然、政治思想史的な前半の問いと連続している。「死なない国家」の過去と未来とを叙述しようというこの試みに通底するのは、国家と国際秩序、ひいては政治一般の存立条件とそれにまつわるリスクを明らかにするという問題意識である。



国家をめぐる生と死の政治


はたして、国家が死ななくなったことで世界には平和が訪れ、人びとの苦しみが減っただろうか。事実はまったくそうではない。二〇世紀が戦争と大量死の世紀であったことを想起すればこれは一目瞭然である。そこではしばしば、国家の名において(また国家に命令されて)多くの人間が殺したり殺されたりした。また、二〇世紀後半以降、国家が消滅しなくなり、征服の頻度が下がってからも、紛争がなくなったわけではないし、内戦やテロ、貧困・格差や環境汚染などによって、依然として多くの人びとは悲惨な境遇におかれている。


くわえて、今まで一定の安全と豊かさを享受してきた先進諸国においても、近年になり政治の機能不全が叫ばれ、特にデモクラシーの危機といった形で問題が提起されるようになった。経済的格差や社会的分断が深まるなかで、人びとの閉塞感や生活不安も増幅し、ポピュリズム、ナショナリズム、排外主義などが台頭する。すると、民主的プロセスを通じた長期安定的なコンセンサスや政策の形成もますます困難になる。さらに、自国第一主義が顕著になると、他国との協調関係がうまくいかなくなり、グローバルな問題の解決もますます遠ざかる。


こうした状況に対して、国家がそもそも問題の元凶であり、国家がなくなれば世の中はよくなると考える人も、洋の東西を問わず少なからず存在する。確かに、今日の国家中心の国際秩序が成立するまでの過程で人類が経験してきた夥(おびただ)しい悲劇に心をいたすのであれば、もう少しましな秩序形成の経路もありえただろうと思いたくなる。だが、やり直しのきかない歴史の延長線上に今日の世界と人間が存在するかぎり(経路依存の拘束)、過去の悲劇を繰り返さないよう少しでも歴史の教訓に学びつつ、よりよい未来を構想するほかない。そして現状(およびそれをもたらした過去)の無批判的肯定がそうした構想を阻害することを認識しつつも、オールオアナッシング的に国家と現状の政治を否定するのも危険で愚かだ。


後述するように、皮肉ではあるが、歴史的には国家を正当化する理論的根拠は、成員(国民)の安全や共通善や基本的権利の保全であった。それが今も昔も現実から乖離している点は由々しき事態であり、大いに批判されてしかるべきである。しかしながら、国家システムがどれだけ不完全で問題だらけであろうと、今日の大半の人間が国家を中心とする政治・経済・法制度のなかで生活を営んでいるという現実があり、これを一気に破壊し、杓子定規的に理想社会ないしユートピアの構想を導入することは(いわんや強制することは)、計り知れない混乱と暴力的事態を招くだろう。これもまた、歴史の教訓である。


したがって、どれだけもどかしくとも、改善や改革は、歴史的現実を彩る功罪のバランスと因果関係を意識しつつ、功の罪に対する割合をより大きくするよう求めなければならない。もちろん、それを認めることと現状を盲目的に肯定することとはまったく異なる。


現実世界を構成し政治を動かす複雑な要因および多様なアクターの相互作用を意識するのであれば、より多角的な視点から何が可能で望ましく、何がそうでないかについて考えなければならないが、当然ながらそこから意見の一致が帰結する保証はない。そもそもすべての人間にとって望ましい、ましてや等しく望ましい改善策など容易には見いだせない。だがそうであればこそ、異なる意見をぶつけ合い、問題の所在を明らかにしつつ、可能なかぎりすべての成員にとってフェアになるように、共同で問題解決を模索しなければならない。これがデモクラシーである。


もちろん、こうしたプロセスからみんなが納得するようなアイディアや政策が生じるとは限らない。残念ながら、現実はもっと残酷である。それでも、共通善を志向しつつこうしたプロセスを継続することは、議論の不在や現状の盲目的肯定、あるいはカリスマ的人物によるユートピアの押しつけよりは、はるかにましと思われる。


政治とは、ベストの選択肢が存在しないなか、共通善(国家のそれに限定されない)のためにできるだけましな選択肢を模索し実現しようとする人間的営為なのではないだろうか。


もちろん、理想に突き動かされる形で人びとが連帯し、それゆえにそれまで実現不可能と思われたようなビジョンが現実となることもある。理想を掲げることが政治において重要であることは間違いないし、それを否定するのはナンセンスと思われる。だが、その匙加減は難しく、実現可能な理想かどうかは事前にわかるわけではない。また、仮に実現可能だとしても、それを実現するためにどこまで、そして誰が代償を支払うべきかについても意見は分かれる。たとえば、人民主権や人権保全の名のもとに行われたフランス革命を肯定的に評価する者は多くいるが、今日、理想実現のために同程度の暴力を容認してよいと考える者は少ない。いや、そうした暴力は本来の目的とは無関係であり、意図せざる帰結であったと反論できるとしても、劇的な変動が常に意図せざる帰結を伴うというのも世の常である。


また、人権を普遍的価値として称揚したところで、それを実質的に保障しているのは国家であるという現実もある。ハンナ・アーレントのいう「人権のアポリア」は、普遍的人権が往々にして普遍的でもなんでもなく、人権は結局のところ人民の、つまりある国家の成員の権利としてしか保障されない落とし穴を鋭く指摘する。人権を掲げる憲法にありがちな謳い文句は「すべての人間に」「平等に」「生まれながらにして備わる」だが、ではその国家の国民から零(こぼ)れ落ちた者は誰が人間扱いしてくれるのだろう? 責任をもって人間を人間として扱うよう期待されるのがまず第一に国家であることは、アーレントの著作から半世紀経った今もほとんど変わっていない。


だが一方で、国家の成員の人権が国家によって侵害されるケースも珍しくない以上、政治も国家も両義的であり、善にも悪にも加担しうる――この両義性は権力の本質であり、だからこそ、それを正しく行使する必要がある。そして、この両義性がそれぞれ何をもたらすかを可能なかぎり把握しておくことは、将来訪れるかもしれない国家の死がもたらす混乱のリスクを最小化するのに有意義な作業であるはずだ。


先に述べたように、政治の存立条件とそれにまつわるリスクを明らかにすることが本書の狙いである(少なくとも、狙いの一つである)。


その際、どのような歴史的経緯によって「死なない国家」が成立したかを明らかにしたうえで、政治が政治として機能しているあいだに、国家が国家として存在しているあいだに、さらには人間が人間でいるあいだに、(いささか大風呂敷ではあるが)人類とその未来のために、現在生きているわれわれが政治と国家を通じて何ができるか、何をすべきかについて考えるためのネタを提供したいと考えている。


政治もテクノロジーも、環境破壊や戦争と同様、それらに導かれて悪い事態へと向かう場合でも、一夜にして破局がもたらされることは稀である。仮に決定的瞬間や致命的決断があったとしても、たいていの場合は、長期にわたる複数の人間による決定と行為の積み重ねがそれに先行する。またその間、改善・解決に繫がりうる一定の選択の余地があったりもする。


もちろん、実現可能な選択肢がなんなのかは事前に完全に把握できない。しかも、地球温暖化のようにじわじわと、また長いあいだ、その影響を感じないまま進行することもある。だが、ある局面に達すると、もはや不可逆的になり、それ以降は何をしても手遅れとなる。


そうした一線を越える前にやれること、やるべきことは何だろうか。それについて考えるのは重要であると信じている。




堤林 剣(つつみばやし けん)

ケンブリッジ大学博士号

現在―慶應義塾大学法学部教授


堤林 恵(つつみばやし めぐみ)

東京大学大学院総合文化研究科後期博士課程中途退学


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