「議論のない哲学は、ボールのないサッカーみたいなものである。」「哲学を役に立つような形で提示しようとすれば、哲学を実践してみるしかない。」そう語るハーバード大学教授のマイケル・ローゼンが書いたのは、尊厳と義務をめぐる現代の啓蒙書だった。(編集部)
1 『尊厳―その歴史と意味』を訳したわけ
尊厳。この二文字が、研究をしているときの思考の中心に据わってから10年ぐらいが過ぎる。日常においても書店やレンタルDVD屋で、「尊厳を問う衝撃作」とか「尊厳をかけた戦い」といった、キャッチコピーを目にしたことがある気がする。極限状況での自己犠牲的な行動、目を覆いたくなるような人間の本性、人類vs何かという構図、など想像が膨らむ。しかし、そこで守られようとしている尊厳は、単なる生命でも、学校で教わる人権でもなければ何なのだろう、という謎は余計に深まる。
フィクションの世界だけではない。現実にも尊厳は様々な議論の要として登場している。ざっと思いつくだけでも、人間の生命に対する人為的な操作、ジェンダー間や世代間の対立、マイノリティや「社会的弱者」の待遇、技術革新による人間社会への影響、自分の人生の終わらせ方、などが挙げられる。それらの諸問題と私たちを媒介する政治やメディアのあり方も変わりつつある。個々人の主観や感受性がより重んじられる「ポスト真実」の現代において、多くの解釈の余地を残した「尊厳」はキーワードとなるはずである。
とはいえ、「個人の尊厳」という言葉のイメージから、尊厳を十人十色の主観的な概念として理解してしまうと、議論の収拾がつかなくなるかもしれない。だから、そうした批判的な意見も含めて、尊厳という概念の見晴らしをよくしたい。この度、私たち(共訳者、峯陽一)がマイケル・ローゼンの『尊厳―その歴史と意味』を訳したことには、そうした想いが込められている。
本書では、第一章で尊厳の歴史を紐解き、第二章では現代の法廷での尊厳をめぐる判決を追い、第三章で「死者の尊厳」という哲学的な難問が提起される。一冊の中に、頭の整理に役立つ解説、誰かと議論したくなるような判例、著者自身による哲学的な企て、といった具合に、入門と実践と理論とが、バランスよく配置されている。それが手に取りやすい新書として日本の読者に紹介できるのだから、これほどやりがいのある翻訳の仕事は滅多にないと思っている。
2 哲学者マイケル・ローゼン
思うに西洋哲学(大陸哲学と英米哲学の区別はここではおいておく)は、他の人文学と比して、理論だけでなくそれを打ち立てた人物にもスポットライトが当たりやすいジャンルである。実際、大きい書店に足を運ぶと、哲学書の棚には歴史的な哲学者の名前の見出しプレートがズラリと並んでいる。そこには、本人の著作だけでなく、その哲学者の思想や生涯についての解説書も多くある。また、今注目を集める哲学者の訳書が、新刊コーナーで売り出されているのを目にすることも珍しくない。商業出版の論理もあるだろうが、これほどまで「誰」が書いたかが重要で、かつその重要な「誰」を大勢抱える学問領域は他にないのではないだろうか。
その意味では、マイケル・ローゼンは、日本ではまだあまり知られていない哲学者である。ローゼンはハーバード大学政治学科の政治哲学の教授で、哲学、社会理論、思想史などの幅広い分野で研究を行なってきた。とりわけ一九世紀から二〇世紀にかけてのヨーロッパ哲学と現代の英米政治哲学を専門としている。1952年にイギリスで生まれ、オックスフォード大学でPPE(Philosophy, Politics and Economics)を学び、卒業後にフランクフルトのヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ大学に留学している。再びオックスフォード大学に戻り、ヘーゲル弁証法とその批判をとりあげた論文で博士号を取得した。そのときの指導教授はチャールズ・テイラーである。2006年からハーバード大学で教鞭をとり、ドイツ観念論やヘーゲル、マルクス、アドルノ、ロールズ、さらには現代政治哲学の様々な論点を扱うコースを教えている。
ローゼンがDignity: Its History and Meaning, (Harvard University Press, 2012)を書くに至った経緯は、同書の序文で記されている。ある日、法学者の友人に「哲学者は『尊厳』について何が言えるんだい」と問われ、ローゼンは「あまり知らないんだけど―カントかな」と答える(p.v)。彼は1993年にカントの『遺稿』として知られるOpus postumumの英訳も手がけているが、尊厳の思想史(その中で、カントの存在はとりわけ大きい)を専門としてきたわけではない。しかしそれでも、ローゼンが意欲的にこの執筆に取り組んだのは、尊厳を広く体系的に扱っていて、影響力のある同時代の哲学文献がまとまった形で存在していなかったからだという(p.xii)。
実際、ローゼンはカント哲学と同じぐらい、カトリック思想における尊厳概念も丁寧に論じている。そして、そのどちらにも肩入れはしない。筆者の手元にはハードカバー版の原書があるが、その裏表紙に刷られた推薦文の中に、”fair-mindedness”(公平さ)という言葉があるのも頷ける。また、尊厳に批判的な立場に対しても、初めから論敵とみなすのではなく、その懐疑論と向き合っている。
カント哲学とカトリック思想の二軸に加え、様々な哲学者や思想家、政治家などによる尊厳の考え方に言及がなされる。キケロ、アクィナス、ピコ・デッラ・ミランドラ、ルター、ベーコン、ミルトン、パスカル、ワシントン、ショーペンハウアー、トクヴィル、ニーチェ、オーウェル……。さらに、現代における尊厳の用法について、微笑ましいものから真剣に考えざるをえないものまで、数多くの事例が紹介されている。
この出版を機にローゼンは、英語圏以外でも読者を獲得したようだ。筆者が調べた限りでも、スペイン語訳、韓国語訳、中国語訳が発売されている。こうしてみると日本語への翻訳は遅かったぐらいである。今後は、東アジアにおける尊厳の言説や、それが問題となる状況を比較する調査研究も重要になってくるのではないかと思う。
もし日本語版の『尊厳―その歴史と意味』、そしてそれを書いたマイケル・ローゼンに興味をもってもらえたならば、うってつけの動画がある。”A Conversation with Michael Rosen”(マイケル・ローゼンとの対話)という企画で、ハーバード大学サフラ倫理センターのYouTube公式チャンネルにアップロードされている。ハーバード大学の教室で、ローゼンが哲学者のゲストを招き、その仕事や人生の軌跡を辿りつつ、哲学的な議論を行うというものである。これまで二回実施されているが、そのゲストがすごい。2018年10月に行われた第1回はチャールズ・テイラー、2020年2月の第2回はマイケル・サンデルである。
一番良いのは、彼らの対話を最後まで視聴してもらうことだが、質疑応答も含めて2時間近くにも及ぶこれらの動画には残念ながら日本語の字幕がない。ただ、ローゼンが話している姿をチラと見るだけでも、意味はあると思っている。なぜなら、彼はDignity: Its History and Meaningの文体について、講義で話すときのようなくだけた調子を大切にしたと述べているからだ(p.xiv)。筆者らもできるだけ、その意図を汲み取った翻訳を心がけた。『尊厳―その歴史と意味』の文章が、動画でマイク片手に喋っているローゼンの姿と調和していればいいと思う。
そのことはさておいても、この対話企画そのものに関心をもつ人もいるだろう。ゆえにごく簡単ではあるが、ローゼンとテイラー、ローゼンとサンデルのやりとりをまとめておきたい。
3 チャールズ・テイラーとの対話
まずは、チャールズ・テイラーの回を概観してみよう。第一声で、ローゼンのイギリス英語が耳に入ってくる。先にも述べたようにテイラーは、ローゼンの博士論文の指導教授である。師弟関係にあることが最初に述べられ、ローゼンはテイラーのことを、長年の付き合いから「チャック」と呼ぶ。
簡単な挨拶の後で、ローゼンは若かりし頃のチャールズ・テイラーについて尋ねる。ローゼンは出会う以前に著作を通じて知っていたテイラーのことを、当時の英語圏の哲学者コミュニティの中にあって英米の分析哲学以外の伝統に対してずっと共感的なものの見方をしていた人物、と評する。それについてテイラーは、家族がバイリンガルであったことや、最初は歴史学を専攻していたことを理由に挙げる。次いで、テイラーの「関与する哲学者」(engaged philosopher)としての姿が遡って詳らかとなる。1950年代のヨーロッパの危機(このとき具体的に言及されたのはスエズ危機やハンガリー動乱)への問題意識から、『ニューレフト・レビュー』の発刊に携わったことや、1961年に結成されたカナダの新民主党(New Democratic Party)に政治的に関わってきたことが語られる。
そこから自然な流れとしてカナダとケベックの話題へと移っていく。カナダにあってケベックは言語やアイデンティティにおいて主権を保持してきた。そのことを踏まえて、ローゼンはテイラーの国民国家への考え方について尋ねる。テイラーによると、それは歴史の中で運命共同体という自己認識をもつことと関係している。しかし、実際にその目印となるものは非常に多くの場合、民主的で平等な共同体であり続けるために変更の必要が出てくるという。それに関して今日特に無視できないのが移民の存在である。カナダで多文化主義が定着したのも、それを批判的に乗り越えるべくケベックで間文化主義が提唱されるようになったのも、移民の影響だという。そして、それも国民国家が存続していくための要素だと強調する。テイラーはここで自分の足元を指差しながら、この対談が行われているアメリカ合衆国の人々ならきっとわかるだろう、と観客に語りかける。
対してローゼンは、問題は移民だけではないのではないか、と主権国家が外からの人口流入なしに崩壊したユーゴスラビアのケースに触れながら問い直す。テイラーはそれも同様に近代国家にとって重要な現象であると首肯する。多様な人々が単一の国家の中でどのように共生していくのか、について哲学者の対話が深められていく。
歴史や政治の議論に区切りが入り、話題はテイラーの哲学そのものに戻る。ローゼンはテイラーの最初の著書『行動の説明』に触れ、当時のテイラーにとっての核心はなんだったのかと尋ねる。テイラーが議論の出発点に選んだのは、人間の「心」に独立した地位を与えず、受け取る刺激とその反応から人間の行動を科学的研究しようとする、行動主義心理学であった。それに対して、テイラーは目的や意志の力を無視して、人間の行動を理解することはできないという立場をとった。必然的に、その人間が置かれる文化や、それに基づいてなされる解釈にも目を向ける必要が出てくる。初著についての質問をきっかけに、今日まで続くテイラーの人間観の一端を学び知ることができる。
続いては大著『ヘーゲル』についてである。ローゼンは学部時代の過去を振り返りながら「当時はあなたをヘーゲル研究者だとは思っていなかった、何があなたをそうさせたんですか」と言って会場を笑いに誘う。テイラーは元々、歴史学と哲学の中間にあることをやりたいと考えていたという。それを最初にやったのがヘーゲルだったという。『ヘーゲル』が書かれるまでの苦労が語られた後、ローゼンは、著者のヘーゲル批判はどこにあるのかと尋ねる。テイラーはここまで人間の多様性についてある種の畏敬を込めて語ってきた。その観点からすれば、ヘーゲルの人間理解はきれいにまとまりすぎているという。全ての文化の人々を理解することのできる最終究極の物語はない、というのがテイラーの考えである。
そして終盤、改めてグローバルな現代世界に焦点が充てられる。ローゼンはテイラーにリベラリズムと民主主義の危機について、それらが今、極端に脆くなっているのか、それとも通常の歴史的変化のサイクルの一部と捉えるべきか、と問う。テイラーはそれに、とても脆くなっている、と答える。さらに、近年になって著しく台頭したポピュリズムに対して警鐘が鳴らされる。このやりとりで、筆者は『尊厳―その歴史と意味』のローゼンの言葉を思い出すことになった。
あなたが私のように、現代のリベラル・デモクラシーの物質主義的な世界と、二〇世紀を醜悪なものにした蛮行や残虐行為(それが二一世紀にも続いていることを示す兆候がたくさんある)とを隔てる壁が、とてつもなく脆いものだと感じているならば、あなたにはなおさら、尊厳にかかわる危害に用心するべき理由がある。(p.205)
およそ1時間にわたる対談はここで終わり、フロアとの質疑応答に移っていく。当然、来場者の関心はゲストのチャールズ・テイラーに向かうのだが、本稿ではテイラーから様々な知的刺激あふれる話を引き出したローゼンの手腕を強調しておきたい。彼らの師弟関係に着目してこの動画を観るのも、ローゼンの読者の楽しみ方だと言えよう。
4 マイケル・サンデルとの対話
続いて、マイケル・サンデルとの第二回をみてみよう。この対話では、尊厳が論点として登場するので、その箇所を重点的に報告したい。
ただしそれは終盤に差し掛かってのことなので、そこに至るまでの議論の流れをおさえておく。まず、テイラーのときと同様に、ローゼンからサンデルの略歴が紹介され、続いてサンデルの口から自らの学生時代のことが語られる。哲学を専門とする前は、政治に関心があったという。その後の議論は、彼の主著『リベラリズムと正義の限界』を中心に展開する。ジョン・ロールズの提示した正(right)と善(good)の非対称性に対して、そこでの自己(self)概念をサンデルが批判したことで本格化した「リベラル・コミュニタリアン論争」について、2020年のサンデルが語る。それに十分な時間が割かれた後、話題は彼の哲学教育に移る。学生が大教室で活発に発言する彼の「白熱教室」は日本でも有名であり、それでサンデルの名前を知ったという人も多いだろう。
この後、テイラーの回も含めて初めて、教室のスクリーンが使用される。そこに映されているのは一枚の写真である。18歳の高校生だったマイケル・サンデルとアメリカ元大統領のロナルド・レーガン(当時はカリフォルニア州知事)が並んで座っている。当時のやりとりが回想される。その上でローゼンは、興味深い質問をする。「もし、今あなたの隣に現職の大統領が座っていたら何を話す?」と。まだトランプ政権が続いていた2020年2月のことである。ここからの展開を丁寧にみていきたい。
サンデルは、あなたに投票した取り残された労働者たちについて尋ねるだろうという。そして、正確には彼らをどのように助けたのか、と。医療費の削減や富裕層の優遇といった真逆の政策を挙げつつ、サンデルは、トランプを説得することは絶望的かもしれないが、それと彼の支持者を説得することは話が別だと考えている。2016年のトランプ勝利の時点で、アメリカの民主党は政治的にもイデオロギー的にも疲弊し、そうした労働者階級の有権者と話す力を失っていた。それは遡れば、彼らが1980年以降の新自由主義的なグローバリゼーションを受け入れてきたことと関係している。サンデルは、その点こそ変わらなければならない、という。そして、社会民主主義や進歩的な政治思想の若返りのための中心的なテーマになると彼が考えているのが、「仕事の尊厳」(dignity of work)である。
ここでいう仕事の尊厳とは、外国人嫌いの政治家や煽動者が利用する表現ではなく、経済的にだけでなく文化的にも取り残された人々が正当な不平や不満を語るためのものである。サンデルはこれを議論の出発点とみなす。そのために必要となるのが、仕事の尊厳を中心とした政治である。それは、経済的な利害をめぐる政治ではなく、ある種の承認をめぐる政治である。というのも、中道左派や中道右派の主流政党に対するポピュリストの抗議の核心には、人びとの社会的評価や承認の低さに対する不満があるからである。ゆえにサンデルは、経済的な議論と文化的な議論を峻別することは誤りだと考えている。
その説明を聞いていたローゼンは、ここで彼の最近の単著であるTyranny of Merit: What’s Become Common Good? について尋ねる(邦訳は『実力も運のうち 能力主義は正義か?』として2021年4月に早川書房より刊行予定)。実はこの本の中で、仕事の尊厳は重要な論点の一つとなっている。
問題はまず、サンデルが「能力主義的な思い上がり」(meritocratic hubris)と呼ぶ、エリート層が自らの成功を自らの努力によるものと信じる傾向にある。それは、仕事の尊厳や労働者への敬意を損ない、取り残された人々がなぜ怒っているのかを聴いて理解する能力を奪う。単に彼らを哀れな者(deplorable)の集まりとするのは、その思い上がりの一例である。実際、アメリカの民主党も大学教育を受けた専門家階級の政党となっている。だからこそ、サンデルは、経済的に成功していない人たちをエリートが見下している、という図式を問い直すために、仕事の尊厳から始まる政治を提唱する。
ここで対談は終わり、質疑応答の時間が始まると、会場からも仕事の尊厳に対する質問が多く寄せられた。「仕事の尊厳と、ユーモアのセンスやその他の美的感覚とのバランスをどのようにとるのか?(ある人はトランプを面白いと思っている)」、「仕事の尊厳と、保守派が労働運動や労働組合を抑えるために使ってきた労働の尊厳とどのように折り合いをつけるのか」「仕事の尊厳は個人によってどのように実現されるか」といった具合である。フロアの質問者とのやりとりは、日本のメディアでも紹介されたサンデルの授業スタイルを筆者に思い出させた。
ローゼンの著書においても、尊厳と喜劇(コメディ)の関係や、対立する立場が尊厳を主張し合う事例、個人が自らの態度や振る舞いを通じてどのように尊厳を維持し得るか、といった論点が扱われている。その内容を踏まえると、この日の現代アメリカ社会における尊厳の議論との関連性も見出すことができるだろう。
5 時代のキーワード
ここまで、岩波新書『尊厳―その歴史と意味』のB面として、チャールズ・テイラーとマイケル・サンデルという著名なふたりの哲学者との対話を通じて、著者ローゼンのことや尊厳という論点の広がりを紹介してきた。Dignity: Its History and Meaningが刊行されたのは2012年のことだが、尊厳という言葉は最近になってますます、哲学の領域を越えて時代のキーワードになりつつあることを感じる。
「ポスト真実」の政治やポピュリズムの台頭が関係していることは間違いない。金成隆一の『ルポ トランプ王国』や、A・R ホックシールドの『壁の向こうの住人たち アメリカ
の右派を覆う怒りと嘆き』(ともに岩波書店)は、現代アメリカ社会に「取り残された」白人の尊厳をめぐるエスノグラフィーとして読むことができる。
もちろん、尊厳という論点はそうしたトランプ現象からのみ出てきているわけではない。例えば、政治学者のフランシス・フクヤマが『IDENTITY 尊厳の欲求と憤りの政治』で論じているのは、アメリカにおける移民・難民側の立場や、性的嫌がらせや性的暴力に対して女性がSNSで声をあげた♯Me Too運動、白人警官の黒人に対する過剰な公権力の行使が発端となったブラック・ライヴズ・マター運動である。これらもまた、間違いなく現代政治と尊厳をめぐる問題を構成している。
日本はどうだろう。ポピュリズムはどの国家でも発生しうるし、現実の問題として格差は存在している。人間の多様性は少しずつだが認められつつあり、それぞれを取り巻く社会的課題も可視化されつつある。アメリカの状況とそれほどかけ離れているとも思えない。日本で生きるひとりひとりの尊厳が問われるとき、私たちはそこから先へ議論を進めることができるだろうか。マイケル・ローゼンの『尊厳―その歴史と意味』には、そのための手がかりが散りばめられていると信じている。
内尾太一(うちお・たいち)
麗澤大学国際学部准教授。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。著書に『復興と尊厳――震災後を生きる南三陸町の軌跡』(東京大学出版会)がある。
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