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  • 執筆者の写真岩波新書編集部

なぜ東京なのか、誰のため、何のためのオリンピックなのか

吉見俊哉



多くの問題が明らかになりながら、開催予定日が迫りつつある東京オリンピック。いったい、誰のための、何のためのオリンピックなのか。このような視点から平成時代を振り返ると、事態の根の深さが見えてきます。2019年に刊行された吉見俊哉『平成時代』の「おわりに 世界史のなかの『平成時代』」の一部を緊急公開します。



再び、オリンピックに向かう


2000年代、東京で再びオリンピックを開こうと言い出したのは、当時都知事だった石原慎太郎である。2005年夏、石原は「再び日本で五輪を開くとすればキャパシティーとして東京しかない」と、2016年開催のオリンピックの東京誘致に乗り出した。知事指揮下で東京都は翌06年春までに、主会場は東京湾臨海部とし、施設は半径8キロ圏に集中させる計画案を練り上げた。開会式は陸上競技を行うスタジアムを晴海の都有地に新設し、そこまで大江戸線を延伸させる計画だった。しかし、当時から都民には「東京はオリンピックを招致しなくても十分にエネルギッシュであり、働く場もある」との疑問の声があった(『朝日新聞』2006年3月1日)。五輪開催で東京の都市基盤がさらに整備されると、東京一極集中をますます加速させるとの地方からの批判もあった。そもそも東京をどんな都市にするべきなのかの真剣な議論がなされないまま、ビッグイベント開催の提案が先行していた。


石原は記者会見で、「周りの国に勝手なことを言われてだな、国会はバカなことをやってる。むしゃくしゃしてるときに、何かちょっとおもしろいことねえか、お祭り一丁やろうじゃないか、オリンピックだぞということでドンと花火を打ち上げればいい」と述べ、憂さ晴らしにオリンピック誘致を決めたとも説明していた(『朝日新聞』2006年9月11日)。「周りの国」とは、もちろん中国を指したわけだから、この発言は石原の北京オリンピックへの敵てき愾がい心しんと読めなくもない。そして彼は、誘致決定の翌日、当時官房長官だった安倍晋三を訪れて協力を要請している。これに対して安倍は、東京誘致を「国家プロジェクトとして取り組みたい」と答えていた。2020年への道は、すでにその15年も前に敷かれていたのである。


この石原都知事に先導された2016年東京五輪の計画は、2009年10月に一旦は挫折する。国際オリンピック委員会(IOC)総会で、東京は、選ばれなかったのである。総会の第2回投票で、東京の得票は20票と、リオデジャネイロ(46票)の半分以下、マドリード(29票)にも大きく差をつけられて惨敗した。東京の自惚うぬぼれが世界にはまったく通用しないことが露わになった瞬間だった。当時、北京五輪が終わったばかりで、同じ東アジアで、それも過去に開催地だった東京での開催に、国際的な支持が大きく広がる理由はなかった。


ところが翌月、石原知事はリオ五輪の4年後、2020年五輪の東京招致に再挑戦するとほのめかす。「せっかく機運が盛り上がってきた」ので、「東京の責任」を全うするとの話だった。前回は憂さ晴らしで始めたが、今度は最初から本気とのことか――。そして2011年6月、東日本大震災から3か月が過ぎた頃、石原都知事のこの本気度は決定的となる。というのも、2020年の東京五輪は「東日本大震災から復興した日本を世界に見せる好機となる」と彼は確信したのである。震災から九年後のオリンピック開催は、これを「復興のシンボル」とするのにぴったりのタイミングだと、彼は早々と計算したのだ。当然、この石原の判断に、なぜ震災復興のためのオリンピックなら東北開催でないのだと、至極当然な疑問も生じた。当時はまだ震災発生から3か月余り、膨大な数の人々が避難生活を送っていた。そうした人々の間では、「戦後と同じように、復興への道のりで五輪のような祭典があった方が元気になる」と好意的な反応もあったが、石原知事は震災がなくても誘致の手を挙げたのだから、要するに「被災地が利用されたと感じる」と冷ややかに語る人々もいた(『朝日新聞』2011年7月17日)。


しかしその後、この「震災復興のシンボル」としての東京オリンピックという構想は、世界の諸外国に好意的に受けとめられ、支持拡大の基調をなしていくことになる。東日本大震災の衝撃は、日本を救おうという思いを全世界に広げた。たしかに震災による凄まじい破壊で、日本全土が危機に陥っているように見えた。オリンピックが単に速さや高さ、強さだけを競うものではなく、人類的な友愛を求めるものである以上、オリンピックを日本で開催し、世界の人々が再びこの列島を訪れる流れを作ることには正義があると感じられたのだ。こうした基調のなかで誘致活動が繰り広げられ、ついに2013年9月、ブエノスアイレスで開かれたIOC総会で、第1回投票から東京はマドリード(26票)、イスタンブール(26票)を大きく引き離す42票を獲得、第2回投票でもイスタンブールに大差をつけて開催権を獲得したのである。この時のプレゼンテーションで安倍首相は、福島原発事故で生じた諸問題はすでにコントロールされていると明言し、国内に大きな波紋を呼んだ。なぜなら放射能汚染の現場は、とても「コントロールされている」と言い切れるような状況にはなかったからである。



誰のため、何のためのオリンピックか


実は、このIOC総会のしばらく前まで、東京でのオリンピック開催は、必ずしも日本人の多数に支持されていたわけでもなかった。東京都民も少なくない人々が、「何を今さらまた東京でオリンピックなのか」という疑問の念を抱いていた。2012年にIOCが三つの候補都市で実施した世論調査でも、オリンピック開催への支持率が、マドリードは78%、イスタンブールは73%あったのに対し、東京は47%と極端に低かった(その後は日本の招致委員会自身が頻繁に世論調査を実施し、なぜか支持率は上昇していく)。つまり、2020年の東京オリンピックは、最初から幅広い国内での支持や都民の期待を受けて誘致活動が展開されたのではなかった。むしろ最初は、石原慎太郎の個人的なイニシアティブに引きずられて誘致活動が進み、だんだん関係者は引っ込みがつかなくなり、そこに東日本大震災が起きたので「震災復興のシンボル」としてのオリンピックを前面に掲げることで、国内的には様々な疑問を残しながらも世界からの支持を得ていったのだ。このオリンピックの経緯は徹底してトップダウンであり、ショックを世界からの支持に反転させていくことで実現したプロジェクトである。


こうした当初からの経緯が、その後の準備過程での数々の躓きの伏線をなしていく。開催権獲得後、計画が最初に大きく躓いたのは新国立競技場をめぐる騒動だった。それ以前、IOC総会での勝利直後、石原から都政を受け継いでオリンピック推進の中心にいた猪瀬直樹都知事が、医療法人徳洲会から多額の資金提供を受けていたことが問題となり辞職した。これにより都トップが空席となり、石原が都知事として始め、リードしてきた流れの中心が空洞化した。都知事はその後、舛添要一、小池百合子と二転三転するが、いずれも石原とは距離がある。どちらにとっても石原の置き土産のオリンピック計画にどう対するかが試金石となった。


そして舛添知事時代に浮上したのが、ザハ・ハディド設計の新国立競技場計画をめぐる問題だった。神宮外苑の狭い敷地に巨大な構築物を建てることが、周囲の環境を大きく破壊すると市民団体や槇文彦をはじめとする建築家から痛烈に批判されただけでなく、総工費2520億円、2004年のアテネの7倍、08年の北京や12年のロンドンと比べても莫大な費用のかかる計画であることが問題となった。しかも、後付けの巨大屋根や椅子の常設化、毎年のしかかってくる維持費により、重い負の遺産を国や都が背負い込むことになると危惧された。世論調査では、8割以上の国民が計画を見直すべきと答えた。建設反対や疑問の声は、マラソンの有森裕子、ラグビーの平尾剛から大阪市長の橋下徹まで立場の違いを越え、橋下は「お金がない家庭がフェラーリ買うと言ったら『アホか』と言われる」と快気炎を上げた。


当初、政府は「国際公約」を理由に建設計画を押し通す構えを続けていた。しかし、2015年7月、安保関連法案の強行採決に対する国民の強い反発で窮地に追い込まれていた安倍政権は、安保に比べれば優先度の低いこの競技場問題では反対世論と妥協する腹を固め、新国立競技場プランの白紙撤回を決定した。数年間の悶着の末、新国立競技場についての話は原点に戻ったわけだ。この時間の空費は、東京五輪の計画にとって大きな躓きだった。


ところが今度は、エンブレムのデザイン剽窃(ひょうせつ)問題が発生する。1964年の東京五輪での亀倉雄策を強く意識した佐野研二郎によるデザインが、ベルギーにある劇場のロゴと酷似していると訴えられ、並行して佐野の他のデザインに盗用の疑いがあることが明るみに出て、2015年9月、大会組織委員会は佐野デザインのエンブレムの使用中止を決定した。


この過程では、一方ではデザインの審査過程の公開性の欠如が問題とされた。他方、ネット社会の発達で膨大な情報が検索可能になり、イメージすら広く照合が容易になったことで、市民が専門家の「パクリ」を探すことに情熱を燃やし始めたことも話題になった。エンブレム問題では、多くの法律家は佐野のデザイン自体には著作権侵害を認めていなかった。それにもかかわらず、ネットからの非難の声に大会組織委員会は抗しきれなくなっていったのである。佐野自身、「毎日、誹謗中傷のメールが送られ」、「家族や無関係の親族の写真もネット上にさらされる」ことに耐えられなくなり、自ら組織委員会に撤回を申し出た。平成日本が行き着いたのは、「問題がありそうな人」を「みんなで」バッシングして憂さを晴らす社会である。そんな社会の先には、見せかけの「正義」と「萎縮」が蔓延するファシズムしか生まれない。


これらに加え、東京五輪を推進する意思決定主体の複雑さも露呈していった。日本オリンピック委員会(JOC)、日本スポーツ振興センター(JSC)、大会組織委員会、東京都と、すべて別組織である。JOCは国際オリンピック委員会(IOC)の日本窓口、JSCはスポーツ振興くじ等を扱う文科省所管法人、大会組織委員会は森喜朗元首相を会長とし、国と都、民間から寄せ集められた数百人が所属する組織だが、新国立競技場問題ではJSCの問題処理能力の欠如が露呈し、エンブレム問題では大会組織委員会が迅速な対応をできなかった。タテ割り体質の組織が並立し、これが責任の所在を曖昧にし、危機対応能力を低下させてきた。


しかし、2020年の東京五輪をめぐる諸問題の根本は、誰のため、何のために開催するのかが実ははっきりしていない点にある。日本政府はオリンピック誘致に際し、震災復興との連帯を強調して世界の共感を得た。安倍首相は、福島原発事故での汚染はコントロールされていると断言した。だが、その後の東北復興と五輪開催との結びつきも、さらには福島原発事故からの汚染地域の復興も、真剣に考え抜かれてきたようには見えない。本当は、エンブレムにしても、オリンピックの諸施設や文化プログラムにしても、本来表現すべきなのは、単なる「日本らしさ」ではなく、オリンピックで日本が未来に何を成そうとするのかの明確なメッセージである。半世紀前、シンプルさの中に「強さ」を表現した亀倉雄策のデザインは歴史に残る名作となった。もともと盗用疑惑が発生しなかったとしても、佐野作品はその亀倉を器用に後追いし、「古典」を超える地平は示せていなかった。かつて亀倉も、国立代々木競技場を設計した丹下健三も、単純で明快な強さを表現することで世界を圧倒した。しかし、彼らが示したのは戦後復興の、つまりこれから高度成長に向かう発展途上の日本の力強さであった。


しかし、未来の日本に必要なのは、そんなかつての成功モデルの二番煎じではない。むしろ必要なのは、価値軸の根本的な転換だ。それはたとえば、1964年の東京五輪ではスローガンだった「速く、高く、強く」から、むしろ「愉しく、しなやかに、末永く」への転換であろう。64年とは異なり、人々が2020年に期待するのは、成長への夢ではなく、生活の質の充実や様々なリスクに対する回復力、そして持続可能性への信頼である。大量生産と消費の社会から文化や知識を含めた循環型の社会への転換を通じ、私たちが愉しく、しなやかに、末永く文化や生活を維持していくこと、これである。そのためにスポーツが大きな役割を果たせることを、もしも東京五輪が示せないのであれば、この五輪に開催の意義はない。




吉見俊哉(よしみ しゅんや)

1957年 東京都生まれ

現在─東京大学大学院情報学環教授

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