• 岩波新書編集部

スターリングラード後のパウルス(新書余滴)

大木 毅


ニュルンベルク国際軍事裁判でのパウルス.1946年

拙著『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』が刊行されて3か月ほどになる。幸い、好評を得ているようではあるが、新書という性格上、ごく簡略に記した事項について、より詳しく知りたいというご要望が少なからず寄せられている。とくに、スターリングラードでドイツ第6軍を指揮したフリードリヒ・パウルス元帥が、ドイツ軍捕虜を組織して「ドイツ解放軍」を編成したいとスターリンに申し出たことは、予想以上に知られていなかったらしい。そんなことが本当にあったのかとの疑問を呈されたこともあった。


東欧社会主義圏とソ連の崩壊以降、機密扱いとされていた、さまざまな文書が公開されたこともあって、パウルスの生涯については飛躍的に研究が進んだ。なかでも、旧東ドイツ出身の歴史家ディードリヒによる大部の伝記は、2009年の刊行以来、スタンダードの地位を占めている。残念ながら、そうした成果はなお日本には伝わっていないようだ。


もっとも、筆者は、単にそうした新発見や新事実があったがために、よりいっそうパウルスという人物に関心をかきたてられたというわけではない。ドイツ軍人として最高の階級である元帥の位にまで達しながら、「転向」をとげて、反ヒトラー運動に参加し、戦後は東ドイツのVIPとして余生を送った。その有為転変に、ドイツ近現代史の劇的な変遷が反映されているがゆえに、ヒューマン・インタレストをかきたてられるのである。本稿では、そのような視点から、スターリングラード後のパウルスについて論述していくこととしたい。



エリートの失墜


1943年1月31日午前8時、廃墟と化したスターリングラードの市街から銃声が消えた。降伏のための交渉を申し出たドイツ軍の軍使を接受したソ連第64軍司令官が、10時までの戦闘中止を命じたのである。ただちに、ソ連側の代表団が「ウニヴェルマーク」(百貨店)の地階に置かれたドイツ第6軍の司令部に入る。ドイツ側で交渉にあたったのは、第6軍の参謀長だった。病める軍司令官パウルス元帥は隣室で、副官から逐一交渉のもようを伝えられていた。9時には、ソ連第64軍の参謀長が到着し、数時間以内に降伏せよと要求する。当時、第6軍は南北に分断されており、パウルスは南側の包囲陣にいた。この南部集団のみが、まず降伏することになったのだ。


図版製作:鳥元真生

最後通牒の受諾後、ソ連代表団はパウルスに引き合わされた。彼は痩せ衰え、顔面はけいれんし、右目をひっきりなしにしばたたいていたと、同席したソ連将校の一人が回想している。その後、パウルスは自らの専用車で、スターリングラードから80キロ離れたドン正面軍の司令部に向かった。


この日、ドイツ国防軍のエリート参謀将校たるパウルスの運命は暗転したのであった。皮肉なことに、彼は、投降の前日、1月30日付で元帥に進級していた。プロイセン・ドイツの歴史において元帥が降伏したことはないという故事を顧みたヒトラーが、死に至るまで戦い抜けとの含みを込めて、パウルスを軍人として最高の階級に進ませたのである。


もっとも、それまでのパウルスのキャリアは、その栄誉にふさわしいものではあった。カイザーがドイツに君臨していた時代、1890年に官吏の家に生まれたパウルスは、1910年、陸軍に入隊、1911年には少尉に任官した。第一次世界大戦では、西部戦線やバルカン方面、イタリア戦線を転戦、副官や伝令将校を務め、その働きにより、第一級および第二級鉄十字章を受けている。そうした戦歴が功を奏したのか、パウルスは、ヴェルサイユ条約の制限を受けて、大幅に削減された国防軍に残ることができた。


やがて、ヒトラーの政権獲得と軍拡政策の追い風を受けて、パウルスの道も開ける。自動車部隊参謀長、第16軍団参謀長などを歴任し、将官となった。1939年、ポーランド侵攻に向けての動員過程で第10軍(ポーランド戦役後、第6軍に改称)参謀長に任ぜられた。そうしてポーランド侵攻と西方作戦に参加したパウルスは、さらなる重職につく。陸軍参謀次長、ドイツ参謀本部のナンバーツーである。彼は、この職にあって、ソ連侵攻計画「バルバロッサ」の立案にも参画した。ついで、1942年1月には第六軍司令官に就任し、東部戦線に配置される。


ここまでは順風満帆、ドイツ国防軍の出世街道を驀進してきたものといえる。その頂点が、1943年1月30日の元帥進級であった。けれども、この栄光も一日かぎりのものであった。翌日のスターリングラードでの降伏を境に、エリート参謀将校パウルスの星は真っ逆さまに墜ちていくのである。



「ドイツに忠実に」


捕虜となったパウルスの態度は頑ななものだった。1943年2月2日、ドン正面軍司令官コンスタンティン・K・ロコソフスキー中将直々の尋問を受けたパウルスは、自分が率いていた第6軍南部集団は降伏したのではない、弾薬不足ゆえに停戦せざるを得なかったのだと強弁し、なお戦闘を継続している北部集団に投降を命じることを拒否した。2月20日、モスクワ近郊クラスノゴルスクの第27捕虜収容所に移されたのちも、その言動にはなお傲然たるものがあった。彼は、元帥に進級した翌日に降伏したため、階級章を得られぬままだった。そのことを不満に思ったパウルスは、中立国トルコに駐在するドイツ大使と陸軍武官に、元帥の階級章を送るようにと手紙を書いた。ソ連当局は、元帥を捕虜にしたことを誇示するには、むしろ、階級章をつけさせたほうが好都合だと判断したものと思われる。パウルス書簡のトルコへの転送は許可され、その結果、元帥の階級章を付した捕虜の写真が残されることになる。


4月になると、パウルスはモスクワ北東スーズダリの第160捕虜収容所に移されたが、敵対的な姿勢は変わらない。ひそかに監視を続けていたソ連内務人民委員部(秘密警察)の報告によれば、彼は捕虜仲間たちに挨拶する際、相変わらず「ハイル・ヒトラー」と叫んでいた。パウルスはおそらく、捕虜交換で帰国するチャンスがあると踏んでいるというのが、内務人民委員部の判断であった。6月には、亡命ドイツ共産党員ヴィルヘルム・ピーク(戦後、東ドイツの初代大統領)が捕虜収容所を訪問し、反ナチ政治運動(のちに「自由ドイツ国民委員会」に結実する)への参加を呼びかけたときも、パウルスは拒否した。自分は軍人であり、政治には関わらない。今後もドイツに忠実に振る舞うつもりだというのが、その答えだった。


しかし、7月に、モスクワ北東およそ300キロのヴォイコヴォにあった第48捕虜収容所、通称「将官収容所」に移されると、パウルスに対する風当たりが強くなる。そこには、捕虜となったドイツ将校たちが多数収容されていた。かつてパウルスの指揮下で第51軍団長を務めていた、ヴァルター・フォン・ザイトリッツ=クルツバッハ砲兵大将もその一人である。ザイトリッツらは、ソ連軍に協力し、イデオロギーとプロパガンダの面からドイツ軍の内的崩壊を進めることを目的とした組織「ドイツ将校同盟」の結成をはかっていた。



パウルスの変心


捕虜となった元帥が参加すれば、大きな政治効果が得られると期待した「ドイツ将校同盟」と、彼らをバックアップするソ連当局は、パウルスに圧力をかけた。1943年9月、内務人民委員部は、モスクワ近郊サラチェフにあるドゥヴロヴォ荘にパウルスを隔離した。同月に成立していた「ドイツ将校同盟」のメンバーならびにソ連側の担当者としか接触できないようにして、パウルスの説得にかかったのだ。しかし、パウルスは懊悩するばかりで、容易に旗幟を鮮明にしようとはしなかった。そのため、一度は「将官収容所」に戻されたが、1944年7月20日にヒトラー暗殺未遂事件が起こると、再び圧力にさらされ──ついに重大な決断を下す。8月7日、ヒトラーに対する闘争開始と「ドイツ将校同盟」への加入を宣言したのである。


さりながら、パウルスの「変心」の理由は、必ずしもソ連側と「ドイツ将校同盟」の圧力のみに帰せられるものではない。この間、パウルスをして抗戦継続は無意味だと思わせるほどに、ドイツの敗勢はきわまっていたのだ。とくに重要だったのは、トルコがドイツと断交したことであったと、パウルスはのちに述懐している。それによって、連合軍のバルカン半島上陸の可能性が高まった。東西両戦線、さらにはイタリアやバルカンからの攻勢を受けては、ドイツは持ちこたえられまい。「それゆえ、私は、つぎのような認識に達した。耐えられるような条件で戦争を終わらせることなど、もう問題にならない。むしろ、反ナチ勢力を鼓舞し、戦線を分裂させて停戦に持ち込み、恐るべき最終的な破滅を回避することこそが重要なのだ」。これは、戦後のパウルスによる自身の変心の説明である。


もっとも、ザイトリッツをはじめとする「ドイツ将校同盟」の指導者たちは、パウルスを実権のある地位に就けようとはしなかった。それまでのソ連に対する敵愾心にみちた言動や「ドイツ将校同盟」加入へのためらいから、パウルスは充分信用できる人物ではないと考えたのだ。けれども、パウルスの「変心」は本物であった。彼は、積極的にソ連軍に協力するようになった。1944年8月には、孤立したドイツ北方軍集団司令官に降伏を呼びかける手紙を書き、ソ連政府に託した。同年9月末には、ルーマニアで包囲された第6軍(スターリングラードでの潰滅後、再編された)に対し、旧第6軍司令官として降伏をうながしている。また、同年10月20日には、モスクワ放送により、これ以上の抵抗は無意味だとドイツ国民に訴えた。


こうしたパウルスの活動のクライマックスは、1944年10月30日付のスターリン宛て請願書だったろう。パウルスは、ドイツ軍捕虜から志願兵をつのって「ドイツ解放軍」を編成したいと提案したのである。ロシアの歴史家レーシンの捕虜時代のパウルスを描いた研究書によれば、これは、ザイトリッツらが進めていた構想とは別の、独自の動きであったと指摘されている。スターリンは、これを無視した。


かかるパウルスの行動は、ドイツ国内にあった家族に累を及ぼさずにはいなかった。元帥の「裏切り」に激怒した親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラーは、パウルスの妻子も同罪であるとして、ダハウをはじめとする強制収容所等に投獄したのだ。



パウルスの戦後


戦争が終わり、1946年初頭、パウルスは再びドイツの地を踏んだ。「サトラップ」(古代ペルシアの代官)作戦の暗号名のもと、ひそかに故国に飛んだパウルスは、同年2月11日、ニュルンベルク国際軍事裁判の証人席に立ったのである。彼は、絶滅戦争としてのバルバロッサ作戦の性格を強調し、その計画立案において自らが果たした役割を詳細に述べた。また、その主犯となったのは誰かとの質問に対し、被告となっていたカイテル国防軍最高司令部長官、ヨードル国防軍統帥幕僚部長、ゲーリング空軍総司令官の名を並べてみせた。この滞在中、パウルスは、ドイツに残してきた妻との面会を拒否している。「目的に沿わない」というのが、その理由であった。3年後の1949年11月、彼女は、とうとう夫と再会することなく、死去した。


パウルスの証言は、捕虜となっていたドイツ軍人たちに憤激を巻き起こした。彼らは、パウルスは恥知らずであり、名指しされたニュルンベルク裁判の被告たちと同程度に戦争責任を負っているとみなした。そのため、ソ連当局も、彼を捕虜収容所に戻すことはためらわれたとみえ、その身柄はモスクワ近郊トリミノの別荘(ダーチャ)に移された。1949年11月に妻が没したときも、その事実はひと月ものあいだ隠されていた。このころ、パウルスは子供たちが西ドイツに暮らしていることを知っていたから、妻を亡くしたことがわかれば、建国されたばかりのドイツ民主共和国、いわゆる東ドイツに帰国するとの約束を取り下げるのではないかと、当局が危惧したための処置だったといわれる。折からの東西対立の激化に直面した東ドイツ政府は、社会主義に協力した国防軍の元帥に、それだけの利用価値を見いだしていたのである。


1953年10月26日、パウルスは東ドイツに送還された。東ベルリンに到着するや、東ドイツ政府と同国を支配する政党「ドイツ社会主義統一党」の幹部たちによる式典に迎えられた。いまや、パウルスは、東ドイツの大義を体現する象徴として、ドレスデンの高級住宅街にある邸宅と自家用車を与えられる存在となっていた。しかし、それは表面的な待遇でしかなかった。その動向は常に監視され、手紙も検閲されていた。自宅内や電話にも、盗聴器がしかけられていたという。また、影響力のある地位が与えられることもなかった。兵営人民警察(東ドイツ軍。「国家人民軍」の前身)戦史研究委員会議長というのが、パウルスの正式の身分である。


東ドイツに定住したパウルスは、スターリングラード戦の研究にいそしみ、自らの立場を正当化しようとした。その主張を述べた講演は、東ドイツで『パウルス将軍は語る』として、出版されている。しかし、健康状態の悪化は、研究の完成を許さなかった。ALS(筋萎縮性側索硬化症)にかかったパウルスは、いっさいの公的な役職から退き、ただ死を待つ身となる。1957年2月1日、死去。スターリングラードでの降伏から、ちょうど14年の歳月が過ぎていた。東独国家人民軍の栄誉礼を以て、ドレスデンの墓地に埋葬された遺骨は、のちにバーデン=バーデンのパウルス家の墓所に改葬されている。


このように、パウルスは、はからずもその生涯の浮沈を、ドイツ史の明暗に重ねることになった。ドイツ帝国に生まれ、ヴァイマール共和国を経て、ナチスの時代に栄進し、ほとんどのドイツ人同様に東西分裂と冷戦に翻弄されたのである。むろん、ヒトラーの元帥から、社会主義の大義に献身する赤い将軍というプロパガンダ的象徴への転身は、彼自身の功名心や生き残りが主たる動機であったと考えることもできる。しかしながら、それを、単なるエリートの転落であったとするのは、いささか単眼的にすぎよう。パウルスの人生には、彼自身の意志による選択のみならず、近代ドイツがたどってきた、つづら折りの道が重なっているからである。



参考文献


Torsten Diedrich, Paulus. Das Trauma von Stalingrad. Eine Biographie, 2. Aufl., Paderborn et al. 2009.


Ditto, Stalingrad 1942/43, Stuttgart 2018.


Johannes Hürter, Hitlers Heerführer. Die deutschen Oberbefehlshaber im Krieg gegen die Sowjetunion 1941/42, München 2006.


Leonid Reschin, Feldmarschall im Kreuzverhör. Friedrich Paulus in sowjetischer Gefangenschaft 1943-1945, Berlin 1995.


Peter Steinkamp, Generalfeldmarschall Friedrich Paulus. Ein unpolitischer Soldat? Erfurt 2001.


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おおきたけし 1961年生まれ。立教大学大学院博士後期課程単取得退学。専門はドイツ現代史、国際政治史。千葉大学ほかの非常勤講師、防衛省防衛研究所講師、陸上自衛隊幹部学校講師などを経て、現在、著述業。



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